旅の人と一日
坂の途中のアーモンドは、春に落とした花のあとに、青い実を固く膨らませていた。
組の名を決めた晩から、三か月が経つ。
七月の十五日、坂の石は朝のうちから足の裏に温かかった。
波止場の奥の船宿の前に、空の樽が三つ伏せてある。
ノアはその一つに腰かけて、空の背負子を足もとに置いていた。
昨日の夕方、井戸端でテレーザが大声で話していた。
坂の下の子を治したでかい旅の人が、また波止場の宿に入ったよ、と。
ノアは後ろ頭に手をやった。
今朝、はじめて髪を一つに結んだ。
母の針箱から青い糸を一本もらって、三回巻いて、きつく縛った。
結び目が首の後ろに当たって、少しくすぐったい。
ほどけていないのを指で確かめて、手を膝に戻した。
しばらくして、また手をやった。
宿の戸が開いた。
黒い外套が、戸口をほとんどふさいだ。
男は身をかがめて出てくると、朝の光に目を細めて、右の腕だけを上げて伸びをした。
左手は去年と同じに、手袋の上から布を巻いて、体の横に下げている。
潮風が石畳を渡っても、外套の裾は揺れなかった。
ノアは背負子を拾って肩にかけ、樽から下りて、宿の前を横切った。
三歩目で、頭の上から声が降ってきた。
「おっ、白い頭。ノアだったよな。朝から仕事か? 精が出るな」
男は戸口の段を下りて、にっと笑った。
「たまたま。通っただけ。荷運びの帰り」
ノアは背負子の肩紐を握った。
「帰りにしちゃ、背負子が空っぽじゃねえか」
「……済んだ。今日のぶんは、もう終わった。だから暇。町、案内する。前は酒場しか行ってない。
あれじゃ、ヴァレンツァは分かんない」
男は、ノアの顔と空の背負子を順に見た。
それから声を上げて笑った。
「そりゃありがてえ。頼まれた家は昨日のうちに二軒回っちまってさ、今日は丸一日空いてんだ。
明日の朝には北へ発つ。一日、頼むわ」
波止場のほうから、網をかついだ男が歩いてきた。
「旦那! 昨日はどうも。親父のやつ、今朝は粥を二杯も食ったぜ」
「そりゃよかった。胸の跡はしばらく熱いかもしれねえけど、冷やさなくていい。そう言っといてくれ」
「言っとく、言っとく」
網の男はうなずきながら、ノアに目を移した。
笑っていた口が、そこで閉じた。
網をかつぎ直して、足を速めて通りすぎていった。
男は、その背中を少しのあいだ見ていた。
「……で、どっちから行く?」
「市場。朝のうちがいい」
ノアは先に立って歩き出した。
歩きながら、また結び目に触った。
市場は、もう日が石畳を焼きはじめていた。
魚の腹を割く匂いに、炒った豆の匂いが混じっている。
ノアは人のあいだを縫って歩きながら、右や左を指さした。
「そこの魚屋、朝は高い。昼過ぎたら半分になる。親父の声が大きい日は、安い日。パンは坂の三つ目の角。
黒いほうがうまい。白いのは見た目だけ。そっちの布屋は、母さんが糸を買うとこ。青はあそこにしか無い」
言いながら、手が首の後ろの青い糸へ行った。
「詳しいな。俺の泊まる町は、たいてい宿と病人の家しか知らねえまま出ちまう」
男は布屋の軒先を見上げて、感心したように顎をなでた。
「塩はどこで買うんだ?」
「塩屋は、行かない」
「塩、要らねえのか?」
「行かない」
男は、それ以上聞かなかった。
角の屋台で、女が鍋をかき回していた。
煮詰めた蜂蜜の、焦げる手前の甘い匂いがした。
女は男の顔を見ると、木べらを置いて前掛けで手を拭いた。
「あんた、去年、坂の下で咳の子を治した人だろ。お代はいいよ。好きなの持ってきな」
「そういうわけにいくか」
男は右手で銅貨を二枚つまんで、台に置いた。
蜂蜜を棒に巻きつけた飴を二本取って、一本を後ろのノアへ差し出す。
女の目が、そこで初めてノアに向いた。
台の上の銅貨を、指でノアから遠いほうへ寄せた。
「ほら。子どもはこういうの好きだろ」
「子どもじゃない。十六」
ノアは言いながら、飴を受け取った。
「十六か。じゃあ大人の飴だな。味は同じだけどよ」
男は自分の一本をくわえて、屋台を離れた。
隣の屋台に、豆を山に盛った笊が並んでいた。
「あっちの豆は、しょっぱすぎる。ブランは好き。毎晩あれで……」
ノアの指が、途中で止まった。
笊の前に、ブランが立っていた。
紙の袋に豆を一杯すくわせて、首の後ろを掻いている。
垂れた耳が、こっちへ向いた。
目が合った。
ブランの目はノアの顔から、結んだ髪の先へ下りて、隣の黒い外套へ上がった。
それから、ノアに戻った。
口は開かなかった。
豆の袋を受け取って、銅貨を笊の縁に置くと、背を向けた。
魚屋の裏の路地へ、肩を揺らさずに入っていった。
「おう、ブランさん!」
男が右手を上げた。
路地の奥で、足音は止まらなかった。
「聞こえなかったかな。耳はいいはずなんだけどよ」
「……いい。行こ」
ノアは飴を持ったまま歩いた。
口には入れなかった。
次の屋台の前を通っても、何も指ささなかった。
坂を上るうちに、日が高くなった。
聖堂の裏の石垣まで来ると、屋根の並びの向こうに港がまるごと見下ろせた。
ノアは石垣に跳び上がって、下を指さした。
「あれが聖堂。灯記しをするとこ。七つの子が並んで、手を開くの。屋根の黒いのが灰鷹の詰所。
朝いちばんに行かないと、いい札は銀の人が持ってく。防波堤の先には、前、小屋があった。
ボクとラウロで作った」
「今日はよく喋るな。去年は『見てない』しか言わなかったのに」
男は石垣に背中をあずけて、下から笑った。
ノアの口が、開いたまま止まった。
「……喋ってない」
手が、また後ろ頭へ行った。
飴を持っているほうの手だった。
下から風が吹き上げて、結んだ髪の先が頬を打った。
柔らかくなった蜂蜜が指について、髪が一筋、頬に貼りついた。
「あ」
男が噴きだした。
「動くなよ。喋ってた、喋ってた。黙ってるより、ずっといい」
右手の指先で、ノアの頬から髪をつまんで剥がした。
指に残った一本を、ふっと風に放す。
ノアは石垣の上で、動けなかった。
耳の先が熱かった。
「詰所ってのは、ブランさんのとこだな。まだ組んでんのか」
男は港のほうへ目を戻した。
「組んでる。四人になった。ラウロが入った。名前もついた。エンジェルウィング」
男の眉が、少しだけ上がった。
「古い言葉だな。天使の羽か」
「羽じゃない。翼。羽は一枚。翼は、飛ぶやつ」
ノアは石垣の上で膝を抱えた。
「みんなで決めた。ガレナが天の子って言い出して、それはだめってなって、ボクが翼って言った。
イルウェンが、古い言葉の読みを当てた。ガレナは十一だから、まだ入れない。三年待ち。
なのに一番うるさかった」
「天の子、か」
男は飴の棒を指で回した。
少しのあいだ、港の口の黒い岩を見ていた。
「……いい名前だ。三年待ちってのは、しんどいな」
「名前」
ノアは石垣の上から、男の頭のてっぺんを見下ろした。
「キミの。伝承者って、名前じゃない」
男は棒をくわえ直して、少し考える顔をした。
「ベリアト。言いにくいだろ」
「言いにくくない」
ノアは口の中で一度だけ、その名前をなぞった。
声には出さなかった。
日が傾くと、防波堤の石が赤くなった。
突端まで行くと、波の音が足の下から上がってくる。
石の隙間に、黒ずんだ杭が二本、斜めに刺さったまま残っていた。
「これ、小屋だった。ラウロと作った。灯らず組」
「灯らず組?」
ベリアトは杭の前にしゃがんで、指の背で叩いた。
「いい名前じゃねえか。エンジェルウィングの前の名前か」
「前の。八つのとき。ボクは灯らずで、ラウロもまだ何も出なかった」
「今もか?」
「帳面では、今も」
ベリアトは杭から手を離して、突端の石に腰を下ろした。
ノアは少し離れて座った。
それから、半歩ぶんだけ近くへずれた。
「帳面で決まるってのが、気にくわねえんだよな。七つで一回手を開いて、色を見て、それで一生だ。
十年黙って働いても、色が暗けりゃ据え置き。ブランさんみたいにさ」
波が石に当たって、しぶきが足もとまで飛んできた。
「そんなもん、変えられる。変えてえ奴が変えりゃいい」
「どうやって?」
「さあな。いろいろある」
ベリアトは笑って、それ以上は言わなかった。
「ボクも、変えたい」
ベリアトがこっちを見た。
琥珀に赤を混ぜたような目が、少し細くなった。
「そうか」
右手が伸びてきて、ノアの頭に乗った。
結び目のあたりを、ぐしゃぐしゃにかき回す。
ノアは逃げなかった。
「あんたが大人になる頃には、ちっとはましになってるさ。そしたら、好きなもんになりゃいい」
「もう大人。キミは、いくつ?」
「二十四。十六は、まだ子どもだ」
「八つしか違わない」
「八つも違う。俺が十六のときなんて……」
ベリアトは言いかけて、港の口の黒い岩のほうを見た。
「……まあ、ろくなもんじゃなかったな」
ノアの目が、ベリアトの左手に落ちた。
布を巻いた手は膝の上にあって、指の形も分からなかった。
「それ。治せないの? 人の、治せるのに」
ベリアトは左手を見下ろした。
それから膝から下ろして、体の向こう側へやった。
「自分のは治らねえ。そういうもんだ」
言ってから、口の端をゆがめた。
「……今のは無しな。ブランさんに笑われる」
「言わない」
「助かる」
ノアは、見えなくなった左手のほうを見ていた。
手を伸ばせば届くところだった。
右手を、自分の膝の上で握った。
「そういや、白いのはあれから出たか? 港口の岩で、また見たって話を宿で聞いたんだけどよ」
ベリアトは海を見ていた。
「……知らない」
ノアは膝の上で、右手を開いた。
手のひらを見下ろした。
また握った。
ベリアトは、海のほうを向いたままだった。
「そうか。会いたかったんだけどな。今回も空振りだ」
「……また、来る?」
「呼ばれりゃな。病人のいるとこなら、どこへでも行く。暗くなる前に帰んな。お袋さんが心配する」
ベリアトは膝を叩いて立ち上がった。
「送らなくていい」
「送らねえよ。この町の道は、あんたのほうがよく知ってんだろ」
笑って、ノアの肩を右手で軽く叩いた。
「今日はありがとな、嬢ちゃん。いい一日だった」
黒い外套が、防波堤の上を遠ざかっていった。
夕方の風が海から吹いても、裾はやっぱり揺れなかった。
ノアは手の中の飴を見た。
一日じゅう握っていたせいで、蜂蜜が柔らかくなって、指のあいだで糸を引いていた。
坂の上まで戻ると、町の灯が一つずつ消えていくところだった。
昼の熱が石垣に残っていて、夜風のほうが冷たい。
ノアは坂を一段ずつ上った。
途中から、二段とばしになった。
井戸の横で、釣瓶の綱が風に揺れて、滑車が小さく鳴った。
ノアは立ち止まって、後ろ頭に手をやった。
青い糸はゆるんで、結び目が首のほうへずり落ちていた。
ほどいて、結び直そうとして、やめた。
糸は手首に巻いた。
「ベリアト」
今度は声に出した。
誰も聞いていなかった。
「よく喋るって。いいことだって」
指を一本折った。
「また来るって」
二本目を折った。
「八つしか、違わない」
三本目を折ったところで、坂のてっぺんに着いた。
長屋の前の樫が、暗い葉を一度だけ鳴らした。
長屋の窓に、油皿の灯が一つだけ残っていた。
戸の隙間から、針の音が漏れてくる。
ノアは戸の前で、手の中の飴を見た。
蜂蜜は溶けかけて、棒の根もとに垂れていた。
舌の先で、垂れたところだけ舐めた。
甘かった。
残りは、明日食べることにした。
戸を開けると、針の音が止まった。
「ただいま」
いつもより、大きな声が出た。




