エンジェルウィング
坂の途中のアーモンドが、また白い花を落としはじめていた。
網の仕事が止まった夏から、八か月が経つ。
あの男が坂の下で咳の子を治してからは、もうすぐ一年になる。
朝の石畳はまだ冷たく、踏むたびに花びらが靴の裏に貼りついた。
ラウロは坂を下りきるまでに、襟を三回直した。
「なあ、変じゃないか? 今日だけはちゃんとしときたいんだよ。
帳面に顔は載らねえけど、ベネデットは顔見て書くだろ」
濃い栗色の髪を水で撫でつけてあって、右の耳の上だけ一房はねている。
冬のあいだにまた背が伸びて、目の高さはもうノアとほとんど変わらない。
「変じゃないよ。右の上だけ、はねてる」
ラウロは右耳の上を手のひらで押さえたまま、灰鷹の詰所の戸を肩で押した。
中は獣脂の灯しの匂いがこもっていた。
依頼札の板の前に、男が三人立っている。
ノアが戸をくぐると、一人がしゃべるのをやめた。
残りの二人がこっちを振り向いて、黙って板のほうへ顔を戻した。
ノアは右手を上着の脇に挟んで、ラウロの後ろについた。
帳場の奥で、ベネデットが帳面から目を上げた。
黒い袖カバーを肘まで付けて、ペンを耳に挟んでいる。
「おはようございます。ラウロ・マリーニさんの登録、ということでよろしいですね」
「そう。十四になった。写し、これ」
ラウロは折りたたんだ紙を受付の台に置いた。
ベネデットは紙を広げ、指で一行ずつなぞった。
「三つ、お伝えします。一つ、写しに『灯らず』とありますので、等級は鉄の一です。
二つ、鉄の一の方は、街の外の依頼をお一人では受けられません。
三つ、取り分は組んだ方々の等級で分けますので、鉄の一はいちばん少なくなります。
……ということで、よろしいですね」
後ろで誰かが笑った。
「灯らずが、もう一匹かよ」
ラウロの手が、台の縁をつかんだ。
指の節が白くなる。
振り向かなかった。
「知ってる。こいつと同じだろ」
ラウロは親指でノアを指して、歯を見せて笑った。
「一人じゃ受けない。組む相手はいる。それと、これから依頼は俺が取りに来る。
ブランは獣人だし、イルウェンはあれだし、こいつは……」
ラウロはノアを見て、少し言葉を探した。
「……こいつだし。人間の顔役、俺がやる」
ベネデットはペンを耳から抜いた。
「顔役、承知しました。ただ、依頼の受け手は、組のうち等級のいちばん高い方の名で帳面に書く決まりです。
名はあの方、ブランさんになります。窓口でのお受け取りをラウロさんが、ということで」
「それでいい。名前は、そのうち俺のに変える。等級が要るってんなら上げる」
ベネデットはそれには何も返さず、帳面に一行書いた。
「それから、組でお受けになるなら、組の名をこちらに書いておけます。
名があれば、札の取り置きもできます。お決めになったら、ということで」
引き出しを開けて、札を一枚、台の上に滑らせる。
「早速ですが、一つだけ。北の森の縁、樵道の見回りです。樵の組合から、罠を荒らすものがいると。
四人以上なら二日分出ます。銅の方が一人いれば、残りが鉄の方でも受けられる、ということで」
ラウロは札をつかんで、ノアの目の前で振ってみせた。
ベネデットの目が、一度だけノアのほうへ動いた。
右手を挟んだ脇のあたりで止まって、帳面へ戻った。
外へ出ると、坂の上から風が下りてきて、花びらを戸口まで運んできた。
ラウロは札を懐にしまって、長く息を吐いた。
「一匹、だとよ」
「うん、言われた。……キミ、振り向かなかったね」
「振り向いたら負けだろ。そのうち剣で黙らせる」
ラウロは腰の剣の柄を一度叩いて、坂を上りはじめた。
「今夜、名前決めるぞ。ブランとイルウェンも引っぱってくる」
ノアはその半歩後ろを歩いた。
脇に挟んでいた右手は、いつのまにか外に出ていた。
灰鷹の裏の酒場は、日が落ちると樽の栓を抜く音ばかりになる。
四人の卓は、いちばん奥の柱の陰だった。
隣の卓は空いていて、その向こうでは客が肩を寄せて座っている。
ブランは杯を半分空けていた。
耳の先が垂れ、顎の無精ひげに泡がついている。
イルウェンは椅子の上で膝を抱え、足もとに麻袋を寝かせていた。
袋の口から、黒い石の付いた筒が三本のぞいている。
去年は、椅子に座ると足が床に届かなかった。
今は爪先だけ届いている。
ラウロが札を卓の真ん中に置いた。
「組の名前、今夜決める。ベネデットの帳面に書いとけば、札の取り置きが頼めるんだと。
いい札は、朝いちばんに銀の連中が持ってくだろ。あれを先に押さえられる」
「組んでるだろ、とっくに。名前なんざ帳面の飾りだってんだ」
ブランは札を見もせずに杯を傾けた。
「飾りでも要るんだよ。……案、ある」
ラウロは卓に肘をついて、少し声を落とした。
「灯らず組」
ノアの指が、卓の上で止まった。
ブランが杯を置いた。
「やめとけ。自分から灯らずを看板にしてどうする。
窓口で、値切ってくださいって札下げて歩くようなもんだ」
「どうせ呼ばれるんだ。一匹だの二匹だのってな。先に名乗っといたほうが、まだましだろ」
ラウロの声は笑っていたが、目は札の上から動かなかった。
「それは、だめ」
ノアは卓の木目を指でなぞった。
「灯らず組は、ボクとキミの。塀の上とか、防波堤の小屋に置いとく名前。帳面に書くのは、違う」
ラウロが、ノアを見た。
少しのあいだ黙って、それから頭をかいた。
「……そうだな。あれは、あれか。じゃあ、灰鷹の剣」
「灰鷹は詰所の名だ。詰所じゅうが灰鷹だってんだ」
「坂の四人」
「坂の連中に聞かれたら、腹抱えて笑われるぜ」
「じゃあブランが出せよ!」
「寄せ集め」
「帳面にそれ書かれたいのかよ!」
ラウロがブランの杯を取り上げようとして、ブランが杯ごと体を引いた。
「……ひるね組」
イルウェンだった。
膝の上に顎をのせたまま、目を閉じている。
「……起こされない感じがして、いいでしょー」
「お前だけだろ、それがいいのは」
「……うん」
ラウロは卓を指で叩いた。
「ノア、お前も何か出せよ。さっきから一つも出してねえぞ」
「ボクは、まだ」
ノアはブランのほうを見た。
ブランの目が、杯の縁越しに一度こっちへ来て、すぐ離れた。
井戸で背中を向けた晩から、ブランはノアに向かって長くしゃべらない。
ノアのほうも、話しかけていなかった。
戸が鳴った。
戸口に、赤い髪が立っていた。
日に焼けた腕に、先に泥のはねた木の棒を下げている。
ツリ目が店の中をひと回りして、奥の柱で止まった。
「いた!」
ガレナは卓のあいだをまっすぐ抜けてきて、棒の先で床を突いた。
「ラウロ、今日登録したんだろ。坂で聞いた。あたしも入れろ」
ブランが杯を置いた。
「あと三年。登録は十四からだ。あんたは十一。帰れ」
「三年も待てるか! ラウロだって……」
「俺は待ったぞ。ノアが先に登録して、二年、後ろから見てた」
「お前は待てる顔してんだよ!」
ガレナはラウロに言い返してから、ノアのほうへ向き直った。
棒を握る手に力が入る。
「ノア。お前からも言えよ。あたし、坂の子の中じゃ、お前の次に強いだろ」
「強いよ。でも、三年」
ガレナの口が、開いたまま止まった。
棒の先が、床の上で小さく揺れた。
「……三年な。三年だな。覚えとけよ」
帰らなかった。
空いた隣の卓から椅子を引いてきて、四人の卓の角に座った。
「帰れってんだ」
「名前決めてんだろ。外まで聞こえてた。聞いてるだけだ。で、何が出たんだよ」
ガレナは卓に肘をついた。
ラウロが指を折った。
「灰鷹の剣、坂の四人、寄せ集め、ひるね組」
「だっせえ!」
ガレナは椅子の上で反り返って笑った。
それから四人を、順に見ていった。
ブランの垂れた耳。
イルウェンの麻袋。
ラウロの剣の柄。
最後に、ノアで止まった。
顔ではなかった。
肩の後ろ、背中のあたりを見ていた。
ノアは、椅子の背に背中をつけた。
「天の子」
ガレナが言った。
卓が静かになった。
二つ向こうの卓で、誰かが樽の栓を抜いた。
「やめとけってんだ」
ブランの声が低くなった。
「今この街で、いちばん口に出しちゃいけねえ言葉だろ。
聖堂の灯帳係が、朝から聞いて回ってたの知らねえのか」
「なんでだよ。船の坊主、助けたんだろ、天の子は。かっこいいじゃんか」
ノアは卓の下で右手を握った。
ラウロの目が、横から一度だけノアに来た。
「却下。聖堂に呼ばれて、灯りの写しから何から並べられんのはごめんだ。
俺は一枚目から灯らずって書いてあんだぞ」
ラウロはわざと大きな声で言って、ガレナの棒の先を指で弾いた。
「じゃあ天使! 天使の羽!」
「同じだってんだ」
「翼」
ノアの口から出ていた。
四人の顔が、こっちを向いた。
押し入れの奥の、白い骨のような包みが頭に浮かんでいた。
波止場裏の作業場で見た、扇の形に広がった骨組みも。
「羽じゃなくて、翼。羽は一枚。翼は、飛ぶやつ」
「翼! いいじゃん! ノアのくせに、いいこと言うじゃん」
ガレナが卓を叩いて、杯が跳ねた。
「天使の翼なんて帳面に書いてみろ。ベネデットが三つに分けて、やめとけって言いに来るぜ」
ブランは言いながら、ノアのほうを見なかった。
「じゃあ、聖堂の奴らに読めない言葉で書きゃいいだろ!」
ガレナはイルウェンのほうへ体をねじった。
「イルウェン、お前、古い字読めんだろ。工房で、ぶっとい本めくってたじゃんか」
イルウェンは、しばらく返事をしなかった。
眠ったのかと思うくらい長く、膝の上で目を閉じていた。
「……読めるけど。……言うの、めんどくさいー」
「言えよ!」
「……天使は、エンジェル。……翼は、ウィング。……古い本だと、並べるとき、翼をあとに置くの。
……エンジェル、ウィング」
イルウェンは目を閉じたまま、口の中で転がすように言った。
「エン……ジェル、ウィン、グ? 舌噛みそうだな」
ラウロが真似して、途中で眉を寄せた。
「エンジェルウィング! 言えるだろ、ほら。エンジェルウィング!」
ガレナは一息で言った。
ノアは、口の中で一度だけ言ってみた。
知らない言葉なのに、舌の上で引っかからなかった。
「……エンジェルウィング」
もう一度言ったら、目が細くなった。
「かっこいい!」
ラウロが、少し目を丸くした。
ブランは長く息を吐いて、耳を片方だけ立てた。
「聖堂の連中が読めねえ名前ってのは、まあ、悪かねえ。
灯帳係が聞いたって、何の呪いだって顔するだけだろうぜ」
「決めるぞ。エンジェルウィングでいい奴、手ぇ挙げろ」
ラウロが札の上に手を置いた。
ガレナの手が真っ先に上がった。
「あんたは数に入らねえってんだ」
「うるせえ! 挙げるのは勝手だろ!」
イルウェンは膝を抱えたまま、指を一本だけ立てた。
ラウロが自分の手を挙げて、ノアを見た。
ノアは握っていた右手を、卓の下から出した。
開いて、そのまま上げた。
最後にブランが、手ではなく杯を持ち上げた。
「……勝手にしろ。帳面の頭に書かれんのは俺の名だってこと、忘れんなよ」
「それ、挙げたってことにするぞ。エンジェルウィングの、ブラン」
ラウロが言って、ガレナが噴きだした。
ブランは耳を伏せて、空の杯の底を見ていた。
ガレナが帰ったのは、店の者が二度目に灯しの芯を切ったあとだった。
戸口で振り向いて、棒の先で四人を指した。
「エンジェルウィング!」
今度は店じゅうに聞こえる声だった。
何人かが顔を上げた。
ガレナは歯を見せて笑った。
「三年だからな! 席、空けとけよ!」
戸がばたんと閉まって、足音が坂のほうへ駆けていった。
ラウロが頬杖をついた。
「あいつ、三年たったら、同じこと言いに来るぞ」
「……来るねー。名前、つけたの自分だって言いにー」
ノアは閉まった戸を見ていた。
蝶番が、まだ小さく軋んでいた。
翌朝、ベネデットは帳面の新しい頁に、ラウロの言うとおり名を書いた。
「エンジェル、ウィング。……古い言葉ですね。つづりはこれでよろしいですね」
イルウェンが台の端から帳面をのぞきこんで、「……うん」とだけ言った。
北の森の縁は、朝の霧がまだ木の根もとに残っていた。
樵道に入ると落ち葉が湿っていて、松脂の匂いが鼻の奥に刺さる。
並びは、ブランが詰所の前で決めた。
「先頭はラウロ、その斜め後ろにノア。真ん中にイルウェン、しんがりは俺だ。前は前だけ見てろ。
横はノア、後ろは俺が見る。イルウェンは撃つ前に声を出せ。そんだけだ」
三十歩で、並びが崩れた。
ラウロが速い。
剣の柄に手を置いたまま、倒れた木をまたいで、どんどん先へ行く。
ノアはそれに合わせて歩いた。
合わせたつもりで、気づくとラウロより前にいた。
振り返ると、イルウェンが切り株に腰を下ろしていた。
「……休憩ー」
「まだ三十歩だ。持ってやるから立て。……ノア、前に出すぎだ」
ブランが後ろから来て、イルウェンの麻袋を持ち上げた。
「出てないよ」
ノアは足もとを見た。
ラウロの足跡が、自分の足跡の後ろにあった。
「……出てた。ごめん」
樵の罠は、道の脇に五つ仕掛けてあると札にあった。
三つ目の罠が、杭ごと引き抜かれていた。
縄が泥の中に伸びて、その先で千切れている。
ブランがしゃがんで、泥の跡に指を当てた。
「猪だな。でけえ。牙が地面を擦ってる。……いいか、見回りだぞ。見て、回って、帰る」
ラウロが剣を半分抜いた。
「でも、出たら……」
藪が鳴った。
道の先の藪から、黒い背中が出てきた。
ノアの腰ほどの高さがあって、下顎から牙が二本、反り返って伸びている。
鼻を鳴らして、こっちを見た。
「来た!」
ラウロが叫んで、剣を抜ききった。
足を開き、切っ先を猪の鼻先へ向ける。
型どおりの構えだった。
猪が走り出した。
ノアは道の脇の楢の幹を蹴って、低い枝に跳び上がった。
上から背中へ回るつもりだった。
「……撃つー」
声と一緒に、筒の先の黒い石が鳴った。
ラウロの手前の泥が弾けて、ラウロの顔にまともにかかった。
「うわっ! 撃つ前にって言ったろ!」
「……言ったー。今ー」
ブランが縄を投げた。
輪になった縄は、猪の鼻先ではなく、下がろうとしたラウロの足首に落ちた。
ラウロが尻もちをついた。
猪はラウロの頭の上の空を牙で掻いて、向きを変えた。
ノアは枝から跳んだ。
さっきまで猪の背中があったところに、両足で降りた。
泥が、靴の上まで跳ねた。
猪はもういなかった。
藪の奥で枝の折れる音が三つ続いて、遠くなった。
しばらく、誰も動かなかった。
ラウロは泥だらけの顔で、足首に縄を巻いたまま空を見ていた。
ブランは縄の端を握ったまま、自分の手を見ていた。
イルウェンは筒を下ろして、筒の先を覗きこんでいた。
ノアは、泥に沈んだ自分の靴を見下ろした。
「……逃げたね」
ラウロが、ふっと息を漏らした。
それが笑いになった。
仰向けに倒れて、腹を抱えた。
「なんだよこれ! 全員外れじゃねえか! エンジェルウィング、初仕事で全員外れ!」
「あんたの足に縄が行ったのは、あんたが下がったからだ」
「撃たれたからだよ!」
「……撃ってない。前に撃ったー」
ブランは縄の端を放して、顔を片手で覆った。
肩が揺れていた。
ノアは、口の端が上がるのを止められなかった。
目が細くなって、喉の奥から声が漏れた。
ラウロが泥の中からノアを見上げた。
「お前が笑ってんの、久しぶりに見た」
「笑ってないよ。ほら、足、出して」
ノアはしゃがんで、ラウロの足首の縄をほどいた。
その頭の上に、ブランの手が一度だけ来た。
髪を乱暴にかき回して、黙って離れていった。
残りの二つの罠は、無事だった。
森を出る手前で、ラウロが乾きかけた泥を顔からこすり落とした。
「帰ったらベネデットに言ってやる。エンジェルウィング、見回り終わり、異常なし」
「異常、あったろ」
「無い。猪が元気だっただけだ」
「……いいー。それで」
イルウェンが、ブランの担いだ麻袋の横を歩きながら言った。
森の奥で、猪がもう一度、鼻を鳴らした。




