ボク、何かした?
八月の市場は、昼前にはもう石畳が焼けていた。
坂の下で伝承者に会った日から、四か月が経つ。
サンダルの底から熱が上がってくる。
魚の腹を割く匂いに、干した海藻の匂いが混じっていた。
ノアは荷運びの駄賃を握って、塩屋の列に並んだ。
母に頼まれたのは、壺一つぶんの粗塩だった。
隣でラウロが、借りた木剣を肩に担いで伸びをした。
十三になって、背がノアの顎まで来ている。
前の魚屋で、女が二人、声を落とさずに喋っていた。
「聞いたかい。港口の岩のとこで、また白いのが出たってさ」
「網を見に行った爺さんが見たって。水の上を、ふわっと」
「天の子だとか言うけど、天のもんがこんな港に何の用だい」
「只で病の子を治してった男もいたろ。代価も取らずにさ。只より怖いもんはないよ」
「治った子、胸に赤い跡が残ってるって話じゃないか」
「それにカルーゾんとこの長男だよ。闇市で妙な道具を買って、網をまるごと裂いちまった」
「なんだかねえ。この夏は、分かんないもんばっかりだ」
ノアは列から半歩出た。
「あの人は、怖くないよ。かっこよかった」
女たちが振り向いた。
二人ともノアの髪を見て、それから互いの顔を見た。
「……そうかい」
一人が魚の籠を持ち直して、背を向けた。
話は、そこで途切れた。
ラウロが肘でノアの脇をつついた。
「お前、あの兄ちゃんの話になると口が早えな。で、白いのは? 見たことあんのか」
「ボクは知らない」
ノアは右手を握って、腰の後ろに回した。
「だよな。……ってか、それだよ、それ」
ラウロが木剣の先で、ノアの鼻の前をちょんとつついた。
「春からずっと、ボク、ボクってよ。前はわたしだったろ。似合ってないぞ」
「いいの! かっこよくしたいの!」
声が大きくなって、塩屋の前の男が振り返った。
ラウロは噴き出して、木剣を肩に戻した。
「かっこよく、ねえ。坂の下にあの兄ちゃんが来てからだよな、それ」
「関係ない」
「顔、赤えぞ」
ノアは空いた左手で頬をこすった。
手のひらが汗で濡れていた。
ラウロはまだ笑っていたが、それ以上は言わなかった。
塩屋の番が来た。
小銭を出すと、店の男はノアの髪を一度見上げてから、硬貨を指でつまんだ。
いつもの木皿ではなく、脇の小さな椀に落とす。
「坂の上の、ベルナさんとこの子だね」
「そう。粗塩、壺に一つ」
「お母さんに、よろしく」
男は壺を台に置き、ノアが持ち上げる前に次の客へ顔を向けた。
ノアは椀の中の硬貨を見た。
自分の出した分だけが、ほかと分けてあった。
「なあ、今の、なんだ?」
市場を出たところで、ラウロが首をひねった。
「椀。ボクのお金だけ、別にした」
「釣り、ちゃんと合ってたか?」
「合ってた。合ってても、別は別だよ」
「細けえな。合ってりゃいいじゃねえか」
ラウロは木剣を振って、壁の影に切りつけるまねをした。
市場の端の網干し場の前で、大きな声がした。
「道具ってのはな、使ってこそだろがよ! 使いながら覚えりゃいいんじゃねえの!」
ピエトロだった。
十七になって肩が厚くなり、日に焼けた首が赤い。
干した網の前で、年寄りの網繕いに向かってまくし立てている。
年寄りは黙って、網の裂け目を指で広げてみせた。
端から端まで、腕一本ぶんの長さで裂けていた。
ピエトロは口を閉じ、振り向いたところでノアと目が合った。
「おう、白髪! おまえも言ってやれよ。魚が寄りすぎたんだ、網が弱えのが悪いんだろがよ」
「網、裂いたの?」
「裂けたんだよ! ……親父がよ、しばらく舟に乗んなってさ」
ピエトロは声を落として、網の縄を足で蹴った。
それから、じっとノアの顔を見た。
「なあ。こないだの晩、船倉の坊主が助かったときのよ。あの白いの、おまえ近くにいたろ」
「いたよ。見てない」
「見てねえって顔じゃねえだろがよ」
「見てない。それより、お父さんに謝った?」
「うるせえ! おまえに言われたかねえんだよ!」
ノアは塩の壺を抱え直して、網干し場の横を抜けた。
ラウロが後ろから追いついてきた。
「ピエトロのやつ、舟下ろされたのか。道具って、どんなのだ?」
「知らない。たぶん、ピエトロも知らない。知らないまま使ったんだと思う」
「なんだそれ。おっかねえな」
ノアは一度だけ振り返った。
ピエトロはまだ網の前に立って、裂け目を見ていた。
ラウロは剣の稽古に行くと言って、井戸の角で別れた。
ノアは塩を抱えて、坂の下まで戻った。
石段の途中で、小さい子が三人、壁に背中をつけて並んでいた。
その前に、若い男が一人しゃがんでいる。
細い体に、袖を切った麻の上着。
左の耳に銅の輪をはめ、腰には口を紐で縛った革の鞄を下げていた。
男は一番小さい子の手のひらを、指でこじ開けていた。
「ほら、通り賃ってわけだ。この坂を上り下りすんなら、俺に払うのが決まりじゃねえか」
「それ、パン買うお金……」
「パンなら明日も焼けんだろ」
男は薄く笑って、子どもの手から硬貨を二枚つまみ上げた。
ノアは石段の上に壺を置いた。
「返して」
男が振り向いた。
ノアの髪を見て、口の端の笑いが広がった。
「なんだ、坂の上の灯らずじゃねえか。ベルナんとこの」
「返して」
「俺はな、頼まれたもんを届けて、決まった代価を取る仕事してんだ。代価ってのは取るもんなんだよ。
分かるか?」
「その子は、キミに何も頼んでない」
男は立ち上がった。
ノアより頭半分高い。
汗と、甘い油の匂いがした。
「口の減らねえ女だな。俺の後ろに誰がいるか知ったら、そんな顔してらんねえってわけだ」
男が声を落とし、ノアの胸ぐらに手を伸ばした。
ノアは手首を取った。
男の体が前へ泳いだところで、足を払う。
男は背中から石段に落ちて、息を詰まらせた。
起き上がろうとした肩を、ノアは膝で押さえた。
男の手が腰の鞄へ伸びる。
ノアはその手も踏んだ。
「痛ってえ! てめえ、放せ!」
「返して」
握った拳が開いて、硬貨が二枚、石段を転がった。
ノアは膝をどけて硬貨を拾い、一番小さい子の手に乗せた。
子どもは硬貨を見て、それからノアを見上げた。
男は鞄を押さえて石段を這い上がり、振り返った。
「代価は取り立てる。俺は一度も取りっぱぐれたことはねえんだ。覚えとけよ」
ノアは何も返さなかった。
男は裏通りのほうへ消えた。
気がつくと、坂の両側の戸口に大人が出ていた。
洗濯桶を抱えた女、煙管をくわえた男、戸の陰から顔半分だけ出している婆さん。
誰も石段を下りてこなかった。
「見たかい、今の」
「灯らずの娘が、大の男を」
「女の子の力じゃないよ、ありゃ」
「あの家の子だろ。流れてきた」
子どもの母親が一人、戸口から駆け下りてきた。
ノアの前を通りすぎて、子どもの腕をつかむ。
「ほら、帰るよ」
「母ちゃん、あのね、お姉ちゃんがね」
「いいから」
母親は子どもを引っぱって石段を上がっていった。
ほかの二人も、それぞれの戸口に呼ばれて走っていった。
一番小さい子だけが、角を曲がる前に一度こっちを見た。
ノアは置いた塩の壺を拾った。
戸口の大人たちは、ノアが通るたびに一人ずつ中へ引っこんだ。
戸の閉まる音が、坂の上まで続いた。
日が落ちてから、母の繕い物を届けに波止場へ下りた。
酒場の卓布が八枚と、前掛けが三枚。
包みはノアが抱えて、母がその横を歩いた。
ミレアは夏でも襟の詰まった灰色の服を着て、髪を低く一つにまとめている。
酒場の戸は開けっぱなしで、中から笑い声と魚を焼く煙が流れてきた。
入り口の近くの卓で、船乗りらしい男が三人、声を張っていた。
「だからよ、坂の上の長屋だって。流れ者の母子」
「ああ、あの手の白い女か。どこから来たのか、誰も知らねえんだろ」
「亭主もいねえ。国の証文も持ってねえって話だ」
「娘のほうがまた変わっててよ。灯らずのくせに、昼間、坂でニーノを転がしたってさ」
「白いのが出だしたのも、あいつらが来てからじゃねえか?」
「来たのはもう十年も前だろ」
「十年経ってもよそ者はよそ者だろうが」
奥の台の後ろで、女主人がコップを拭いていた。
五十を過ぎた、肩の広い女だった。
耳の先にだけ淡い毛が生えていて、灯りを受けた瞳が琥珀色に光っている。
「そうかい。へえ。だろうね」
女主人は低いしゃがれ声で相槌を打ち、コップを台に置いた。
「それよりあんた、先月のツケがまだ三杯ぶん残ってるんだけどさ。白いのが払ってくれるのかい?」
男たちが笑った。
「ドーラ、今言うかよ」
「今言わなきゃ、あんた来月にはどっかの海の上だろ」
一人が振り返って、入り口のミレアと目が合った。
男は口を閉じて、卓の皿に目を落とした。
ほかの二人も黙った。
焼き台の魚が、じゅっと鳴った。
ノアは母の袖を引いた。
「今の、かっこいい」
小さく言ったつもりだったが、ドーラの耳の先がこっちへ動いた。
「かっこよかないさ。ツケの話をしただけだよ。ほら、そこ置いといておくれ」
ドーラが台の後ろから手招きした。
ノアは包みを台に載せた。
ドーラは包みを解いて卓布を一枚広げ、裾の縫い目を指でなぞった。
「いつもどおりだ。あんたの縫い目は、酔っ払いが引っぱっても解けないからね」
銅貨を数えて、ミレアの手のひらに乗せる。
数えた枚数より、一枚多かった。
ミレアが一枚つまんで返そうとすると、ドーラはもうコップを拭いていた。
それからノアを見て、喉を鳴らすように笑った。
「で、昼間に坂の下でニーノを石段に寝かせたのが、この細い腕かい。
あの子、しばらく恥ずかしくて裏通り歩けないだろうね」
「あいつ、小さい子から取ってた」
「知ってるよ。みんな知ってて、誰も止めなかったのさ」
ノアは何か言いかけて、やめた。
ドーラは布巾を肩に掛けた。
「世の中ってのは、そういうもんだ。変わりゃしないよ」
ミレアの指が、銅貨の上で一度止まった。
「帰りましょう、ノア。ドーラ、いつもありがとう」
母は銅貨を袋にしまって、頭を下げた。
入り口の卓の前を通るとき、男たちは三人とも皿を見ていた。
外に出ると、潮の匂いの中で、酒場の笑い声がまた上がった。
月が変わる前に、網の仕事が止まった。
網元の使いが長屋の戸口に来て、今月からはよそへ回すと言った。
理由は言わなかった。
ミレアは「そう」とだけ答えて、戸を閉めた。
朝の井戸端は、長屋の女たちが桶を並べて喋る場所だった。
ノアが水を汲みに行くと、話し声が一つずつ途切れた。
「おはよう」
「……ああ、おはよう」
返ってきたのは一人ぶんだけだった。
ほかの女たちは桶の水を見たり、洗った芋をもう一度洗ったりしていた。
ノアが桶を下ろすと、隣の女が自分の桶を半歩ずらした。
縄の軋む音と、水の跳ねる音だけが続いた。
ノアは二杯汲んで、黙って戻った。
戸口の前で、太い声がした。
「ほら、どいたどいた! 朝っぱらから辛気くさい顔が並んでるじゃないかい」
家主のテレーザが、籠を腰に載せて坂を上がってきた。
五十を過ぎても背中がまっすぐで、日に焼けた腕をまくっている。
籠には、畳んだシャツとズボンが山になっていた。
「ミレア、いるかい? 船宿のシャツが十二枚、ボタン付けと肘の当て布。明日の昼までにしときな」
戸が開いて、ミレアが出てきた。
「ありがとう。……でも、テレーザ。網の仕事がね」
「聞いたよ。網元んとこの婆さん、目が悪くなって、よそ者の縫い目は数えられないんだとさ」
テレーザは大きな声で笑い飛ばした。
「あんたの縫い目より細かいのを数えられるなら、あの婆さんに針持たせりゃいいじゃないかい。
ほら、受け取りな」
籠をミレアの腕に押しつけて、それから桶を提げたノアを見た。
「あんたは水汲みかい。終わったら、うちの樽にも二杯入れときな。駄賃は夕飯のいわしだよ」
「うん」
「返事が小さい!」
「うん!」
テレーザは鼻を鳴らして、井戸端のほうへ歩いていった。
「さあさあ、あんたたちも、昨日の繕い物はどうしたんだい。口より手を動かしな!」
女たちが一斉に手元を見た。
テレーザは坂の話も、ニーノの話も、白いのの話も、一つもしなかった。
ノアは桶の取っ手を握り直した。
手のひらに、縄の跡が赤く残っていた。
夜になっても、屋根の瓦が昼の熱を吐いていた。
窓を開けると、坂の下から犬の声が一つだけ上がってきた。
ミレアは卓の端に油皿を寄せて、船宿のシャツに肘の当て布を縫いつけていた。
針が布をくぐる音が、同じ間で続いた。
ノアは寝台に腰かけて、右手を膝の上で握ったり開いたりしていた。
「母さん。ボク、何かした?」
針の音が止まった。
ミレアは顔を上げて、ノアを見た。
油皿の火が、母の頬の片側だけを照らしている。
「何もしてないわ。どうして?」
「塩屋が、ボクのお金だけ別にした。井戸で、みんな黙る。網の仕事も無くなった。
ボクがいると、母さんの仕事まで減る」
「仕事なら、テレーザが持ってきてくれたでしょう。あなたが数えることじゃないの」
「昼間の、坂の下のせい?」
「子どもたちのお金を取り返したんでしょう。それは、していいことよ」
「じゃあ、なんで」
ミレアは針を布に刺したまま、しばらく手を止めていた。
それから、また縫いはじめた。
「あなたは、何もしてないわ。本当よ」
ノアは母の手元を見た。
母は嘘をつかない。
だから、本当なのだと分かった。
港口の岩の上で、傾いた船の底に白い灯りをともした夜のことは、まだ母に話していない。
あれを話せば、答えが変わるのかもしれなかった。
口を開きかけて、閉じた。
「……分かんない」
「そうね」
ミレアは糸を歯で切った。
「私にも、全部は分からないの」
「母さんに分からないなら、ボクが分からなくても仕方ないね」
ミレアは返事をせず、次の袖を膝に広げた。
ノアは寝台に横になって、壁のほうを向いた。
右手を、枕の下に入れた。
針の音が、また続いた。
坂の下で、戸が一つ閉まる音がした。




