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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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奇跡の人

坂の途中のアーモンドが花を落としきって、石畳の目に白い花びらが溜まっていた。

登録から一年たった、四月の二十日。

朝の荷運びを終えたノアは、空の背負子を片方の肩にかけて坂を下りていた。

隣でラウロが木剣を振っている。

十三になって、声が少し低くなった。


「ノア、今の見たか?三つ目の型。足、ちゃんと残ってたろ」

ラウロが木剣を止めて、得意そうに振り返った。


「残ってた。左が遅い」


「遅い?」


「遅い。」


「……くそ。帰ったら百本やる」

ラウロは木剣を肩に担ぎ直した。


坂の下で、人が輪になっていた。

洗い桶を抱えた女、魚の籠を下ろした男、裸足の子どもたち。

輪の真ん中から、咳が聞こえた。

乾いた、細い咳だった。

一つ終わると、ひゅう、と笛みたいな音がして、また次が来る。

ノアは背負子を下ろし、人の肩の間に体を入れた。

戸口の段に、女が座りこんでいた。

膝の上に、六つくらいの女の子を抱えている。

女の子の唇は、白を通り越して青かった。


「施療院は、先に払えって。灯帳の写しも持ってこいって。そんなの、うちにあるわけないじゃない」

母親は誰に言うでもなく、娘の背中をさすり続けていた。


「聖堂でお祈りしてもらいな」

「祈ってもらったよ!三回!」

輪の中から声が上がり、母親が怒鳴り返した。

誰も、それ以上は言わなかった。


ノアは右手を握った。

握ったまま、背中に回した。

ラウロが後ろから袖を引いたが、ノアは振り向かなかった。


「悪い、ちょっと通してくれ。な」

頭の上から、声が降ってきた。

人垣が割れた。

大きな男だった。

ノアが見上げるほど背が高く、肩と胸が厚い。

肌は煤をかぶったように浅黒く、黒い髪を短く刈っている。

背中には黒い外套を垂らしていて、坂を上がってくる海風が吹いても、その裾は揺れなかった。

左手には、手袋の上から布が巻いてある。

男は戸口の前でしゃがみ、女の子と目の高さを合わせた。


「苦しいな。名前、言えるか?」

さっきの声とは別人のように、低くて、ゆっくりだった。


「……ティナ」


「ティナ。息、したいか?」


女の子は、うなずいた。

咳がまた来て、小さな背中が跳ねた。


「息ができたら、何する?」


「……はしる」


「いいな。走ろう」

男は笑った。

笑うと、目尻が下がって、急に若く見えた。

それから、右手の指で女の子の首の後ろと、鎖骨の下を、順に軽く押した。

何かを確かめるような押し方だった。


「母さん。この子、治せるかもしれねえ。この子の体に合えばだけどな。いいか?」


「治せるって……あんた、医者?」


「医者じゃねえ。いいか、だめか、そこだけ聞かせてくれ」


母親は、娘の顔を見た。

それから、何度もうなずいた。

男は腰の袋から、小さなものをつまみ出した。

爪ほどの大きさの、灰色の粒だった。

貝殻のかけらのようにも見えた。

男はそれを、女の子の鎖骨の下にそっと当てた。

粒が、沈んだ。

水に石を落としたみたいに、肌の中へ、音もなく。


「……あつい」

女の子が、びくりと体を縮めた。


「うん。すぐ終わる。えらいな」

男の右手が、女の子の背中を大きく一度だけさすった。


咳が、止まった。

女の子が、息を吸った。

笛の音は、もう鳴らなかった。

深く吸って、吐いて、もう一度吸う。

青かった唇に、少しずつ色が戻ってきた。

粒の沈んだところには、赤い跡が残っていた。

灼けた鉄を押しつけたような、小さな花の形。


「ティナ……?ティナ、苦しくない?」

母親の声が震えた。


「……くるしくない」


輪のあちこちで、息をのむ音がした。

誰かが「施しだ」と言った。

誰かが胸の前で指を組んだ。


「あんた、いくら……いくら払えば」

母親が娘を抱いたまま、男の外套の裾をつかんだ。


「いらねえよ。代価は取らねえことにしてる」


「でも、本当に治ったの?明日になったら、また……」


「奇跡があるかどうかは、あんたが決めろ。」

男は立ち上がって、母親の肩を右手で軽く叩いた。


「あんた、何者だい」

魚売りの男が、籠の縁をつかんだまま聞いた。


「伝承者。古い話を継いで、あちこち歩いてる。それだけさ」


男は、それ以上名乗らなかった。

ノアは、男の左手を見ていた。

しゃがんでいるあいだも、粒を出すときも、背中をさするときも、左手は一度も動かなかった。

布を巻いたまま、ずっと体の横に下がっていた。


「すげえ……なあノア、見たか?今の、何だ?灯り、出してなかったよな?」

ラウロが木剣を握りしめたまま、ノアの腕を揺すった。


「出してなかった」

ノアは、女の子の胸の赤い跡から目を離さなかった。


「よう」

男が、こっちを向いていた。

人垣の外で背負子を拾ったノアを、上から下まで一度見て、口の端を上げる。

「その背負子、仕事帰りか。この辺で、飯が食えて酒が飲める店、知らねえか?

着いたばっかりで、腹が減っててさ」


「知ってる。うるさいけど」


「うるさいのは好きだ」


「おれ、店の手伝い戻んなきゃ。母ちゃんに怒られる」

ラウロが坂の上を見て、顔をしかめた。

「ノア、あとで何話したか教えろよ!絶対だぞ!」


ラウロは走っていった。

走りながら一度振り返って、男に手を振った。

男も、右手を振り返した。



灰鷹の詰所の裏に、昼から開いている酒場がある。

床は酒と油でべたつき、窓際の卓ではいつもの顔が、いつもの席に座っていた。

ブランは杯を抱え、イルウェンは豆の皿の横で頬杖をついて目を閉じていた。

ノアの後ろから入ってきた大男を見て、ブランの耳がぴくりと立った。

鼻が一度、小さく鳴った。


「なんだ、ノア。拾いもんか?ずいぶんでけえのを拾ってきたじゃねえか」


「伝承者って。坂の下で、子ども治した。咳の子」


「治した?」


「治した。」


「伝承者だ。よろしくな」

男はブランの向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。

椅子が大きく軋んだ。

「案内の礼に、ここは俺が持つ。親父さん、この卓に一杯ずつ。それと、この子に何か腹にたまるやつ」


「おれは親父さんじゃねえってんだ。……ブランだ。銅の二」

ブランは言いながら、もう杯を空けていた。


「ブランさんか。銅の二ってのは、どのくらいなんだ?ここの決まりは、まだよく知らなくてさ」


「下から数えたほうが早え。そこのノアが鉄の一で、一番下だ。おれはその二つ上で、十三年目ってんだ」


「十三年?」

男は、ブランの腕を見た。

肘から先に、古い傷が何本も走っている。

「その腕でか」


「腕じゃねえ。色だよ」

ブランは手のひらを上に向けて、卓の上で軽く握って開いた。

暗い灰色の灯りが、煙みたいにぼんやり浮いて、すぐ消えた。

「この色じゃあ、何年やっても据え置きさ。おれだけじゃねえ。そういうもんだ」


「くだらねえな」


「くだらなくても、そういうもんなんだよ。兄ちゃん、あんたもあちこち歩いてんなら知ってんだろ。

世の中は変わらねえよ」


男は、声を上げて笑った。

「変えられるさ」

そう言って、卓越しにブランの肩を右手でばんと叩いた。


ブランは叩かれた肩を見て、それから男の顔を見た。

何か言いかけて、口を閉じた。

運ばれてきた杯を取って、半分まで一気にあおる。

「……酔っ払いの言うこった」


「俺はまだ一口も飲んでねえよ」

男は自分の杯を持ち上げて、ブランの杯に当てた。


ノアの前に、豆と腸詰めの煮込みが置かれた。

ノアは匙を持ったまま、しばらく食べなかった。

男の横顔を見ていた。

ブランが、ちっと舌を鳴らして、それでも口の端を少しだけ上げたのも見た。


「……あなた」

イルウェンが、目を閉じたまま言った。

いつ起きたのか、誰も気づいていなかった。

背丈はノアの胸までしかなく、椅子に座ると足が床に届かない。

二十になっても、見た目は街の小さな子と変わらなかった。

「……その手、つかわないねえ」


男の目が、一瞬だけイルウェンに止まった。

布を巻いた左手が、卓の下へ下りた。

「昔、ちょっとな。もう痛くはねえ。……あんたは、変わった筒を持ってるな」

男の目が、イルウェンの足元の麻袋に移った。

口の開いた袋から、黒い石のはまった筒の先がのぞいている。


「……うん」

イルウェンはそれだけ言って、豆をひと粒つまみ、また目を閉じた。


「うちの後ろ番だ。起きてるときは頼りになるってんだ。起きてるときはな」

ブランが杯でイルウェンの方を指した。


「そりゃいい」

男はまた笑った。


ノアは、やっと匙を口に運んだ。

煮込みは熱くて、舌を少しやけどした。



日が傾いて、波止場の石が赤く染まっていた。

潮と魚のはらわたの匂いが、夕方の風に混じっている。

男の泊まる宿は、波止場の奥にあるという。

ノアは背負子を置いてきて、手ぶらで隣を歩いた。

隣と言っても、男が一歩で行くところを、ノアは一歩半かかった。

港の口に、黒い岩が突き出ている。

去年の秋、ピエトロの船が乗り上げた岩だった。

男は立ち止まって、その岩を眺めた。


「この港でさ、白いのが出たって聞いた。宿の親父も、さっきの店の奴らも、その話ばっかりだ」


「……噂」


「天の子だとか、魔物だとか。船の底から白い光が漏れてたとか」

男は楽しそうに言った。

「面白えな」


「おもしろい?」


「白い灯りは、人には出せねえことになってるんだろ?なのに出した奴がいる。

決まりの外に、誰かいるってことだ。会ってみてえな」


ノアは右手を脇の下に挟んだ。

指先が、少し冷たかった。


「会って、どうするの」


「聞くさ。どんな気分だって。生まれで灯りが決まって、灯りで暮らしが決まる。

そんな決まりから、はみ出しちまった奴がどんな顔してんのか」

男は岩を見たまま言った。

「俺はそういう奴が好きなんだ」


ノアは口を開いた。

ボク、と言いかけた。

風が吹いて、言葉が喉の奥へ戻った。


「……ボクは、見てない」


男が、こっちを見下ろした。

琥珀に赤を混ぜたような色の目だった。

少しのあいだ、ノアの顔を見ていた。


「そうか」

それから、右手でノアの頭をぐしゃぐしゃにかき回した。

「あんた、いい目してるな。見てねえって顔には見えねえけど」


「子ども扱い、しないで」

ノアは首を振って、手から逃げた。

耳の先が熱かった。


「悪い悪い。十五だっけ?立派なもんだ」

男は笑いながら、宿の方へ歩き出した。

「案内、ありがとな。しばらくはこの辺にいる。困ったことがあったら言いな。

ブランさんにも、よろしく言っといてくれ」


黒い外套の背中が、宿の戸口に消えた。

最後まで、裾は風に揺れなかった。

ノアは、脇に挟んでいた右手を出した。

開いて、また握った。


「……かっこいい」


誰も聞いていなかった。

カモメが一羽、岩の上で鳴いた。



夜の坂の井戸は、水の匂いがした。

ノアが桶を下げて行くと、井戸の縁にブランが腰かけていた。

濡れた手ぬぐいを首にかけ、頭から水をかぶったらしく、毛がぺたりと寝ている。


「よう。あの兄ちゃんと、港まで行ったのか」


「行った」

ノアは釣瓶の綱をつかんで、井戸の底へ落とした。


「坂の下の子な。胸に赤え跡があるって、もう坂じゅうの話だ」

ブランは手ぬぐいで顔を拭いた。

「ノア。お前が十の年に、坂の下で施しがあったろ。覚えてるか?」


「覚えてない」


「あの連中も、代価は取らなかった。タダで配って、にこにこして帰ってった。

そのあと、もらった奴らがどうなったか」


「いい。聞かない」

ノアは綱を引いた。

水の重さが、腕にかかる。

「ブランは、何でも変わらないって言う」


ブランは黙った。

濡れた耳が、少しだけ下がった。

ノアは桶に水を移して、持ち上げた。

一度も振り返らずに、坂を上がった。


「……変わらねえってんだ」

背中のほうで、井戸に落とすような小さな声がした。


水が、桶の中で一度だけ跳ねた。

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