白い灯り
朝と晩の風に、潮とは違う冷たさが混じるようになった。
春に灰鷹の詰所で「鉄の一」と書かれてから、五か月が経つ。
鼠、溝さらい、迷子の山羊、倉の見張り。
ブランが仕事を取って、イルウェンが道具を出して、ノアが担ぐ。
三人の仕事は、もう段取りを口にしなくても回るようになっていた。
夕方の詰所は、揚げ油と濡れた革の匂いがした。
受付の台の向こうで、紙の束がばさりと床に落ちた。
「あっ、あ、ごめんなさい、今の見なかったことに……」
アガタが台の下にしゃがんで、散らばった紙を集めはじめた。
聖堂の手習いで、六つの年からずっとノアの隣の席に座っていた子だ。
十日前から、帳場の手が足りない夕方だけ、受付を手伝いに来ている。
ノアと同じ十四なのに、背はノアの肩までしかない。
赤茶の髪を二本に編んでいて、立ち上がるときにその片方が台の角に引っかかった。
「いたっ。……あ、ノアちゃん。ブランさんとイルウェンさんも。よかった、今日のね、あるの。夜のやつ」
「夜のやつ? なにするの?」
「波止場の、荷の見張り。コスタンツァさんとこの木箱が十二個、朝の船まで置きっぱなしになるんだって。
えっと、鉄の一は外の仕事だめなんだけど、波止場は街の中だし、ブランさんがいるから、いい……はず。
たぶん。いいよね?」
アガタは紙を差し出したまま、ブランの顔をうかがった。
「俺に聞くんじゃねえよ。そういうのは帳場に聞けってんだ」
ブランは鼻の頭をかいて、それでも紙を受け取った。
「夜通しで銀一枚ねえ。安いが、座ってりゃ済む。受けるぜ」
「……寝てていい?」
壁ぎわの長椅子で、イルウェンが麻袋を枕にしたまま片目だけ開けた。
「お前は仕事の前から寝てんだろうが」
アガタは判を押しながら、ノアの薄い上着をちらりと見た。
「ノアちゃん、それしか着てないの? 波止場の風、骨まで来るよ。
わたしね、前に干物売りの手伝いであそこに立ってたの。夜は指が動かなくなるんだから」
「平気だよ。わたし、寒いの強いから」
「手習いのときから、ノアちゃんそればっかり。そういうこと言う子が風邪ひくんだって」
アガタは笑いかけて、判が逆さに押されているのに気づいて青くなった。
波止場の夜は、杭を打つ波の音しかしなかった。
コスタンツァの焼き印の入った木箱が、三段に積まれて並んでいる。
タールの匂いが板にしみついていた。
ブランは箱の一つに腰を下ろして、ときどき腰の革袋を傾けている。
イルウェンは麻袋を抱えて丸くなり、誰かに置いていかれた子どものように眠っていた。
港の口では、灯台の灯りがゆっくり回っている。
「座ってりゃ済むってのは、座ってられる奴の話でねえ。お前、さっきから三べんは立ったぜ」
「だって、なにも来ないんだもん。泥棒、来ないかな」
「来ねえのが一番いい仕事なんだよ。覚えときな」
ノアが四度目に立ち上がったとき、沖で木の裂ける音がした。
重いものが岩をこする、長い音が続く。
港の口の岩場で、小さな船の灯りが大きく揺れて、ふっと消えた。
「乗り上げやがった」
ブランが革袋を放り出して立った。
番小屋の鐘が鳴り、家々の窓に明かりが点いていく。
しばらくして、闇の中から小舟が一艘、めちゃくちゃな櫂の音を立てて戻ってきた。
漕いでいるのは、肩の厚い髭の男だった。
額から血が一筋垂れていて、片袖が肘まで裂けている。
舳先には、ずぶ濡れの若い男がしゃがんでいた。
ピエトロだった。
父親の舟に乗るようになってから、坂ではあまり見かけなくなっていた。
十六の肩は、もう父親と同じくらい厚い。
「末の坊主が! 船倉に坊主が残ってる! 灯りが落ちて真っ暗で、呼んでも出てこねえ!」
髭の男は桟橋に小舟をぶつけるように寄せて叫んだ。
「ハッチに樽がはさまって、手のひら一枚半しか開かねえんだ。俺の肩じゃ入らねえ、こいつのも入らねえ。
誰か細えのはいねえか! 水が入ってきてるんだ!」
集まってきた漁師たちが顔を見合わせた。
太い腕ばかりだった。
「わたし、行く。狭いとこ、入れるよ」
ノアは桟橋の端まで歩いて、小舟を見下ろした。
ピエトロが顔を上げた。
桟橋のランタンを見上げて、目を細くした。
「ノアじゃねえか。なにしてんだよ、こんなとこで。女が夜の波止場なんかうろついてよお」
「見張りの仕事だよ。わたし、細いから入れる」
「入ってどうすんだよ! 下は真っ暗なんだぞ。灯らずのお前が、手探りで何ができるっていうんだよ!
網に巻かれて、二人して沈むのがおちだろがよ!」
ピエトロの声は桟橋じゅうに響いた。
何人かが、灯らずの子か、と小さく言った。
「待てってんだ、おい」
ブランがノアの襟首に手を伸ばしかけて、止まった。
耳が一度、後ろへ寝た。
「……親父さん、こいつは細えし、力は俺よりある。連れてきな。
その小舟じゃ四人は乗れねえ、俺は荷を見てる」
それから、ノアの目の前に指を一本立てた。
「無理なら戻れ。いいな」
「うん」
「……ノア」
いつの間にか起きていたイルウェンが、麻袋を抱えたまま言った。
「……海、冷たいよ」
ノアは返事の代わりに手を振って、小舟に飛び降りた。
ピエトロが舌打ちして、舳先で体をずらした。
髭の男が目を丸くして、それから黙って櫂を握った。
「末のは五つになる。頼む」
「泣いて足手まといになっても、おれは知らねえからな。おまえが言い出したんだぜ」
ピエトロはそう言って、沖の岩場から目を離さなかった。
乗り上げた漁船は、岩の上で大きく傾いていた。
父親は小舟を船腹に押さえていて、甲板に上がったのはピエトロとノアだけだった。
足の下で船がきしんだ。
ピエトロの持ったランタンは、風が吹くたびに火が細くなる。
ハッチの蓋は、転がった樽に押さえられて斜めに浮いていた。
隙間から、水の揺れる音が聞こえる。
「ここだよ。下は網と箱だらけだ。転んで泣いたって、おれは下りてってやれねえからな」
ノアは足から隙間に体をねじこんだ。
肩が板にこすれて、上着の縫い目がびりっと鳴った。
腰まで抜けたところで手を離すと、冷たい水が太ももまで一気に来た。
息が止まった。
魚のはらわたと、こぼれた灯油の匂いがする。
上のランタンの光は、隙間から一筋落ちてくるだけで、足もとの水すら照らさなかった。
「ねえ! どこ? 迎えに来たよ!」
どこかで、しゃくり上げる声がした。
それが、ノアの声を聞いてぴたりと止まった。
手を前に出して進むと、濡れた網が指にからまった。
箱の角にすねをぶつけた。
何かぬるりとしたものが、膝のあたりを流れていった。
「坊主! 兄ちゃんだ! そのねえちゃんについてけ! おいノア、まだ見つかんねえのかよ!」
隙間から、ピエトロの声が降ってきた。
「……くらい。こわい。うごけない」
今度は声が返った。
けれど船倉じゅうの板に響いて、右からも左からも聞こえた。
「どこ? 声、出してて。ずっとだよ」
「ここ……ここ……」
進んだ先は箱の壁だった。
戻ると、網にまた足を取られた。
船がぐらりと傾いて、水が太ももから腰へ上がってきた。
板の割れ目から、しゅうしゅうと水の入る音が近くなる。
ノアは立ち止まった。
水の中で、右の手が握ったり開いたりしていた。
春の朝の食卓で、母が言ったことを思い出した。
目立たないこと。
理由は、聞いても教えてくれなかった。
ジャーダ湖のほとりで灯したときは、手のひらの上に小さな白が一つ乗っただけだった。
あのとき、母は許してくれた。
今は、母はここにいない。
「……ごめん、母さん」
ノアは水から右手を上げて、指を開いた。
白が、船倉じゅうに広がった。
湖の時とは比べものにならなかった。
網の結び目の一つ一つが、壁に影を落とした。
水の面がぎらぎら光り、板の継ぎ目という継ぎ目から、光が外へ漏れていった。
いた。
右の奥、網を干す棚の一番上に、小さな男の子が膝を抱えて張りついていた。
濡れた髪が額にはりつき、顔じゅうをくしゃくしゃにしている。
「まぶしい……」
「目、つぶってていいよ。こっち。わたしの首につかまって」
ノアは光る手を高く上げたまま、水をかき分けて棚まで行った。
左腕を伸ばすと、男の子は目をつぶったまましがみついてきた。
軽かった。
体が氷みたいに冷えていた。
戻る途中、頭の上から声がした。
「なんだ……おい、なんだよ、船が……光って……」
隙間の向こうに、ピエトロの顔が見えた。
下から照らされて、伸びかけの薄い髭まで白くなっている。
その目はハッチではなく、板の継ぎ目から漏れる光のほうを追っていた。
ハッチの下まで来て、ノアは右手を握った。
船倉が、元の真っ暗に戻った。
「ピエトロ、受けて! この子、上げるよ!」
男の子を頭の上まで持ち上げて、隙間に押しこむ。
太い腕が伸びてきて、男の子をさらっていった。
ノアが隙間から這い出ると、ピエトロは甲板に座りこんで、弟を胸に抱えていた。
男の子は兄の服に顔を埋めて、まだ目を開けない。
ピエトロの目が、ノアに向いた。
「おい、今の見たろ。下で、白いのが光ったろがよ」
「中は真っ暗だったよ。この子しかいなかった。早く戻ろ、この船、沈むよ」
「……そうかよ。灯らずのお前に、見えるわけねえか」
ピエトロは何か言い足しかけて、口を閉じた。
小舟に移って父親が櫂を漕ぎだしてからも、何度も振り返って、岩の上の黒い船を見ていた。
ノアは舟べりで、濡れた右手を膝の下に押しこんでいた。
桟橋には、ランタンを提げた人が鈴なりになっていた。
寝間着に上着を引っかけただけの者も多い。
人をかき分けて前に出てきたのは、大柄な女だった。
寝間着の上に厚い肩掛けを巻き、太い指に真鍮の指輪を三つはめている。
「うちの箱は無事なんだろうね。乗り上げたのはどこの船だい」
小舟が着くと、何本もの手が伸びて、男の子を引き上げた。
続いて桟橋に上がったピエトロが、まわりを見回して声を張り上げた。
「白い光だ! 船ん中が真っ白に光ったんだよ! 板の隙間から、昼みてえに!」
ざわめきが波のように広がった。
「俺も見た。沖で、なんか白いのが光ったぞ」
「灯台じゃねえのか」
「灯台はあんな色じゃねえよ」
「白だって? 馬鹿お言いでないよ」
大柄な女、コスタンツァが、ランタンを持ち上げた。
「この町で白をともせる者なんか……誰だい。誰の灯りだい、それは」
ランタンの光が、集まった顔を一つずつなめていく。
ノアは桟橋の反対側の梯子から上がっていた。
髪の先から、ぽたぽたと水が落ちる。
右手をこぶしにして、脇の下にはさんだ。
一歩下がって、網元らしい太った男の背中の陰に入った。
「天の子だ」
しわがれた声がした。
杖をついた年寄りが、沖を見て手を合わせている。
「天の子が降りてきなすったんだ。坊主を助けに」
「縁起でもねえこと言うな、じいさん。白く化けて人をたぶらかす魔物だっているって話だぜ」
コスタンツァのランタンが、ノアの肩の上を通りすぎて、ピエトロのところで止まった。
「あんた、どこで光ったって? はっきりお言い」
そのとき、後ろから袖を引かれた。
ブランだった。
指先でつまむだけの、弱い引き方だった。
ブランは何も言わなかった。
ノアの顔も見ずに、人垣の外へ、木箱の並んだほうへ歩いていく。
ノアは袖を引かれるままについていった。
木箱の前では、イルウェンが麻袋の上に座って、目を開けていた。
その目が、ノアの右手のこぶしに一度だけ落ちた。
イルウェンも、何も言わなかった。
ブランは自分の上着を脱いで、ノアの頭からばさりとかぶせた。
それから箱に腰を下ろし、革袋の栓を抜いて、飲まずにまた栓をした。
耳だけが、ずっと人垣のほうを向いていた。
「ブラン、あのね……」
ブランは答えなかった。
朝の船が荷を積みに来るまで、ブランは一言もしゃべらなかった。
翌日の昼、取り分を受け取りに行くのはノアの役だった。
ブランは寝ていて、イルウェンも寝ていた。
坂を下りていくと、井戸のまわりに女たちが集まっていた。
桶の縄を握ったまま、誰も水を汲んでいない。
「白い灯りだってさ。船が丸ごと光ったって」
「ピエトロんとこの末の子、光の中から出てきたって言うじゃないか」
「天の子だよ。うちのばあちゃんが、昔も一度あったって」
「よしとくれ。わけの分かんないものが沖にいるなんて、気味が悪いったら」
「聖堂の人が、朝から聞いて回ってるってさ」
ノアは桶を避けて、井戸の脇を通りすぎた。
誰も、ノアのほうは見なかった。
詰所の受付では、アガタが台に身を乗り出してきた。
「ノアちゃん! 聞いた? 白いの! 昨日、波止場にいたんでしょ? 見た?」
「船の中、真っ暗でよく見てない。取り分、もらいに来た」
「そっか、真っ暗かあ。こわかったでしょ。えっと、銀一枚を三人で……あれ、割れない。銅貨に崩さなきゃ」
アガタが引き出しをかき回しはじめたとき、戸口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、聖堂の灰色の衣を着た女だった。
三十を少し過ぎたくらいに見える。
髪を後ろでひっつめて、中指の腹が黒くインクに染まっていた。
革の帯で縛った厚い帳面を、胸に抱えている。
「聖堂より参りました。灯帳係のセラフィナです。
昨夜、波止場の見張りを請けた者の、登録の写しを確認させていただきます」
「は、はいっ。写し、写し……ええと、帳場の人、今いなくて、でも、ここに……」
アガタは銅貨をばらまきかけて、慌てて引き出しに戻し、別の棚から紙を三枚引き抜いた。
セラフィナは紙を台に並べて、一枚ずつ指でなぞった。
「ブラン。銅の二。灯りは暗い灰。イルウェン。エルフ、写しは他所の聖堂のもの。色は白ではない」
指が三枚目で止まった。
「ノア・ベルナ。鉄の一。灯らず」
「あ、あの、この子です。ノアちゃん」
セラフィナの目が、ノアに向いた。
まばたきの少ない目だった。
「あなたが、船倉に入った方ですね。兄のほうから聞いています。中で、光を見ましたか」
「見てない。真っ暗で、あの子の声しか聞こえなかった」
「そうでしょうね。灯らずの方には、灯りの無い船倉は真っ暗です」
セラフィナは写しをアガタに返した。
「昨夜から聞き取った話が十七件。白い光、天の子、白く化ける魔物。
この町の灯帳に、白は一件もありません。帳に無い色は、灯帳には書けません」
帯をほどいて、帳面を後ろの頁から開いた。
表の頁とは違う、細かい字がびっしり並んでいる。
セラフィナはそこに、新しく何行か書き足した。
「そっちは、なに書くとこ?」
「帳に無いものを書くところです」
セラフィナは帳面を閉じて帯を締め、二人に軽く頭を下げて出ていった。
戸口の鈴が、もう一度鳴った。
「こ、こわ……聖堂の人って、みんなああなの?」
アガタは胸を押さえてから、引き出しの銅貨を数え直した。
「あ、割れた。はい、ノアちゃんのぶん。ブランさんたちにも、ちゃんと渡してね」
外に出ると、秋の日が坂の石畳を白く照らしていた。
ノアは銅貨を懐にしまって、右の手のひらを開いた。
何も灯っていない、ただの手のひらだった。
すぐにまた握った。
母さんには、まだ言っていない。




