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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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23/99

稼ぎと等級

島の洞窟から一年近くが過ぎて、坂の上の家の窓から入る風に、冷たさが無くなっていた。

窓の下の梨の木に白い花がついている。

ノアは椀を置いた。


「母さま。わたし、今日、登録しに行く」

「灰鷹の詰所ね」

「うん。十四になったから。行っていい?」

ミレアはパンを切る手を止めなかった。

板に包丁の当たる音がした。

「止めないわ。ひとつだけ約束して」

「なに?」

「目立たないこと」

「なんで?」

母は答えず、切ったパンを皿に乗せた。

「約束できる?」

ノアは母の顔を見た。

目は皿に落ちていて、こちらを見ない。

「…うん。目立たない」

「じゃあ、写しを持っていきなさい。聖堂でもらってあるから」


戸が鳴った。

叩く音ではなく、開く音だった。

「ノア! 登録って本当か?」

赤い髪が土間に飛び込んできた。

ガレナは挨拶をしない。

「表で聞こえた。あたしも行く。お前だけずるい」

「ガレナは九つでしょう。座って食べなさい」

ミレアが椀をもう一つ出した。

ガレナは椀を見て、ノアを見て、頬を膨らませた。

「五つしか違わないじゃんか」

「五つは五つ」

ノアが言うと、ガレナは椀を引き寄せて、匙を乱暴に突っ込んだ。


その後ろから、ラウロが戸を閉めて入ってきた。

「ガレナ、勝手に上がるなよ」

「お前だって上がってるだろ」

「俺は戸を閉めてる」

ラウロは土間に立ったまま、ノアを見た。

背が伸びて、目の高さがだいぶ近くなっている。

「行くのか」

「行くよ」

「そっか」

ラウロは手を握って、開いた。

それを二度やった。

「行ってこいよ」

「うん」

「ラウロも二年したら行くだろ」

「知ってる。だから行ってこいって言ってる」

ガレナが匙を咥えたまま二人を見比べて、また頬を膨らませた。



灰鷹の詰所は、波止場へ下りる道の途中にあった。

戸口の上に灰色の鷹を彫った板が掛かっていて、中は炭と革の匂いがした。

帳場の奥に、痩せて背の高い男が座っていた。

両袖に黒い覆いをつけ、ペンを一本、耳に挟んでいる。

声は低く、平らだった。

「登録ですか」

「うん。ノア・ベルナ。十四」

「写しは」

ノアは母から渡された紙を出した。

男は紙を広げ、指で一行ずつ追った。

「ベルナ、ノア。七つの春に灯記し。灯らず、ということで」

「うん」

「灯らずの登録は最下級からになります。鉄の一。街の外へ出る依頼は、二人以上でなければ受けられません」

「分かった」

男は帳面を開き、名前を書いた。

「わたしはベネデット。この詰所の帳場係です」

「ベネデット」

「そこの箱を、奥の棚へ運んでください。書くあいだ、立っていられても困るので」


帳場の脇に木箱があった。

中に木札が詰まっていて、持ち上げると肩まで来る重さだった。

ノアは片腕に抱えて、棚に乗せた。

棚は頭より上にあった。

戻ると、ベネデットのペンが止まっていた。

「なに?」

「いえ。座って待ってください」

ノアは椅子に座った。

ベネデットが紙を一枚ずつ揃える。

待つのが長くて、ノアは膝に手を置いて立ち上がった。

椅子が鳴らなかった。

ベネデットが顔を上げて、それから帳面の隅に小さく何かを書いた。

「なに書いたの?」

「帳面の隅の話です。あなたに関わることではない、ということで」

「そう」

書かれた字は逆さで、読めなかった。



戸が開いて、酒の匂いが先に入ってきた。

「ブラン」

「よう。来やがったか」

ブランは頭を掻きながら帳場に寄ってきた。

耳の先が垂れて、顎に無精ひげがある。

「やめとけって言っても聞かねえんだろ」

「聞かない」

「だろうな」

ブランはベネデットの帳面を覗いた。

「鉄の一か。一人じゃ外に出られねえな」

「うん」

「俺が組んでやる。腕試しだ。井戸の水汲みで俺に勝った奴が、仕事でどれだけやれるか見てえ」

「いいの?」

「いいも悪いもねえよ。あんた一人で出したら、ベネデットが寝られなくなる」

ベネデットはペンを置いた。

「ブラン・ソルガ、銅の二。組の登録をします。ということで」


戸がもう一度開いた。

今度は音が違った。

布を巻いた筒が幾つも、袋の中でぶつかり合う音だった。

「……重い」

イルウェンだった。

胸までしか無い背丈で、大きな麻袋を引きずっている。

帽子の下から、緑がかった髪が目に掛かっていた。

「イルウェン。なんで?」

「十九になったから」

「なにが?」

「登録できるの」

イルウェンは袋を帳場の前に置いて、そのまま床に座った。

「わたしも入る」

「入るって、どこに」

「あなたの組」

ブランがイルウェンを上から下まで見た。

「エルフの十九ってのは、本当に人間の八つに見えるんだな」

「……うん」

「あんた、これ全部使えんのか」

「使える。運べない」

イルウェンは袋の口を開けた。

布の巻かれた筒の一本が転がり出た。

腕ほどの長さで、端に黒い石が嵌まっている。

ノアは拾い上げた。

冷たくて、見た目より重かった。

「かっこいい!」

「……あげない」

「持つだけ」

「持つのは、あなた」

「え?」

「わたしは、運べないから」

ノアは筒を袋に戻して、袋を持ち上げた。

木箱より重かった。

ブランが鼻で笑った。

「決まりだな。俺が前、あんたが荷と前、こいつが後ろ」

ベネデットのペンが動いた。

「イルウェン、鉄の一。組は三名。ということで」



最初の仕事は、街の外の粉挽き小屋だった。

小屋の梁に住みついた猫ほどの鼠を、三匹追い出して二匹を狩った。

イルウェンは筒を一度も出さず、小屋の壁にもたれて座っていた。

帰りは日が傾いて、街道の石が赤くなっていた。

イルウェンは荷の上で寝ている。

ノアが袋ごと背負っていた。


ブランが歩きながら、小袋を振った。

「分けるぞ。鉄の一は半人前の取り分。銅の二は一人前。決まりだ」

銅貨が手のひらに乗った。

ノアの手に六枚。

ブランの手に残ったのは、もっと多かった。

「鼠を狩ったの、わたしだよ」

「決まりだって言ってんだろ」

ブランはそう言って、自分の手から四枚取って、ノアの手に足した。

「なに?」

「言うなよ。ベネデットに聞こえる」

「ここにいないよ」

「あいつは何でも聞こえる」


ノアは銅貨を握った。

「ブランは、なんで銅の二なの?」

「なんでって」

「島のとき、あんなに速かった。金でもおかしくないよ」

「ノア、ものを知らねえな」

ブランは歩きながら、手のひらを上に向けた。

灯りが出た。

黒に近い灰色で、小さいのに、暗さが濃かった。

「これだよ」

「きれいだよ」

「そう言うのはあんたくらいだ。帳場じゃ、この色は素質が無いって書かれる。

腕は腕、素質は素質で見るって建前で、色の分だけ下に置かれる」

「なんで色で」

「なんでもだ。十二年、銅の二だ」

ブランは手を閉じた。

灯りが消えた。

「世の中は変わらねえよ」


ノアは何も言わなかった。

言えることが見つからなかった。

背中で、イルウェンが寝返りを打った。

筒がぶつかって、袋の中で鳴った。

街道の先に、坂の灯りが見え始めていた。

握った銅貨は十枚で、そのうち四枚の分は、誰にも言わなかった。

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