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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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子供だけの冒険

波止場は朝の七時で、魚の匂いより潮の匂いが強い。

ノアは舫い杭の上に片足で立っていた。

「ラウロ、ほんとに入れるの?」

「船乗りのジーノが言ってた。南のスピナの三つ目の岩、潮が引いたときだけ穴が開く。

昔の灯台守がそこに物を隠したって」

ラウロの声は大きい。

波止場の端で網を繕っている男が、こっちを振り向いた。

「行く。舟は?」

「借りる。銅貨一枚で、日暮れまで。ジーノに聞いた舟屋がそこにいる」

ラウロが指した先に、舟を三艘つないだ爺さんが座っていた。


「なんだよ、あたし抜きで行く気だったのか」

後ろから声が来て、ノアは杭から降りた。

ガレナだった。

赤い髪を後ろで縛って、袖の無い麻の服に、膝の出た半ズボンを履いている。

去年の飾りのついた服は、もう一度も見ていない。

「抜きじゃないよ。イルウェンが来たら出る」

「あのちっちゃいの、来るのか」

「年上って言ったでしょ」

ガレナは口を閉じた。

閉じたまま、坂の方をにらんだ。


イルウェンは七時半に来た。

歩くというより、坂を転がってきたのが止まったという速さだった。

ノアの胸までしかない背丈で、肩から下げた袋がやたら大きい。

「……舟、あるの」

「ある。漕ぐのはわたしとラウロ」

「……うん」

それだけ言って、イルウェンは舟の底に座り込んだ。

袋を抱えて、目を閉じた。

ガレナが口を開けて、また閉じた。


舟屋の爺さんは銅貨を受け取ってから、初めて四人の顔を見た。

「潮が返るのは二時だ。それまでに岩から離れろ。岩の穴はな、返りが早い」

「分かってる」

ラウロが答えた。

爺さんはノアを見て、イルウェンを見て、何か言いかけて、やめた。



島までは一時間漕いだ。

六月の日が背中に当たって、汗が目に入る。

ガレナが途中で櫂を取ろうとして、三度水を跳ねさせて、ラウロに取り返された。

三つ目の岩は他より低くて、黒かった。

その根元に、口を開けたように影が沈んでいる。

「あれだ」

ラウロが舟を寄せた。

穴の口は屈まないと入れない高さで、中から冷たい息が吹いてくる。

ノアは岩の角に舟の縄を結んだ。

二度、引いて確かめた。


中は暗い。

足元は濡れた砂で、上から水が一滴ずつ落ちて、頭に当たる。

「イルウェン、灯り」

「……うん」

イルウェンが袋から硝子の球を出して、手のひらで撫でた。

青白い光が球の中に溜まって、洞の壁が浮いた。

「それ、灯りじゃないのか」

ガレナが球をのぞきこむ。

「……道具」

「へえ」

ガレナはもう少しのぞきたそうにして、ラウロに袖を引かれた。


奥は思ったより広かった。

天井が高くなって、声が跳ね返る。

壁ぎわに、赤茶に錆びた手提げの灯台の灯りが転がっていた。

その隣に割れた油の壺、それから黒く塗った縄が一巻き、鉤が一本。

「灯台守のだ!」

ラウロが縄を持ち上げた。

黒い塗りがまだべたついて、指に付く。

「かっこいい…」

ノアは錆びた灯りを持ち上げた。

底が抜けていて、中に砂が詰まっていた。

ガレナがそれを横から取って、自分の帯に鉤で吊った。

「あたしが持つ」

「なんで?」

「いいから」


奥の壁に、石が積んであった。

崩れたのではなく、誰かが積んだ形だった。

ノアは一つずつ下ろした。

五つ目を下ろしたところで、木の角が出た。

木箱だった。

黒い木で、周りを縄で縛ってある。

縄は新しい。

灯台守の縄のように塗りがべたつかず、切り口が白い。

蓋の真ん中に、焼き付けた印がある。

丸の中に、線が三本。

ノアは印に指を置いた。

指が、そこで止まった。


「開けようぜ」

ラウロが蓋の縁に指をかけた。

動かない。

「釘打ってある。重い、なんだこれ」

「あたしにやらせろ」

ガレナが押しても、箱は砂を少し掘っただけだった。

イルウェンが球を近づけた。

印を見た。

それから、光を壁の方へ向けた。

「……足、濡れてる」



水は、砂の上を音も無く来ていた。

ノアが振り向いたときには、足の甲まで沈んでいた。

「潮だ!」

ラウロが走った。

入ってきた穴の方へ、砂を蹴って走った。

ノアもイルウェンの袖を掴んで走った。

入り口はもう、腰まで水が来ていた。

波が外から押し込んでくるたびに、天井との隙間が消える。

ラウロが飛び込んで、次の波で押し戻された。

肩を壁に打った音がした。

「無理だ。出口はもう沈んでる」

「泳げばいいだろ」

「この波でか! お前、外まで息が続くか!」

ガレナは言い返さなかった。

灯台の灯りが、帯で鳴った。


ノアは上を見た。

イルウェンの球の光は天井まで届かない。

けれど、その黒の中に、灰色の一点があった。

光じゃない。

暗いところに、少しだけ薄いところがある。

「上に穴がある」

「見えねえよ」

「わたしが登る」

ノアは灯台守の縄を取った。

一端を自分の腰に回して、二度結んだ。

「ラウロ、そっち持ってて。イルウェン、光を上に」

「……うん」

光が壁を上っていった。


壁は濡れていて、指をかけると滑る。

ノアは最初の突起に手を置いて、体を引き上げた。

足を次の裂け目にねじ込む。

腕が伸びる。

壁に貼りついて、次の突起を探す。

二度目に足が滑って、腰の縄がぐっと張った。

下でラウロが何か言った。

ノアは答えずに、指だけを動かした。

ノアの影が、壁の上で小さく揺れた。

「落ちたら、報告の対象ですねえ」

「…うるさい」

声を殺して言った。

灰色の点が近くなる。

近くなるほど、はっきり穴になる。

最後の突起を掴んだとき、風が顔に当たった。

海の匂いがして、空が見えた。

肩を通せば抜けられる、それだけの穴だった。


外は岩の斜面で、日がまだ高い。

ノアは穴のすぐ脇に立っている岩の角に、縄を巻いて結んだ。

三度引いた。

穴に頭を突っ込んで、下へ叫んだ。

「イルウェンから! 軽い順!」

「……面倒」

「行け!」

ラウロの声が跳ね返ってきた。

縄が張った。

ノアは引いた。

イルウェンは登らなかった。

縄に両手でぶら下がって、袋を抱えたまま引き上げられてきた。

穴から出たイルウェンは、ノアの隣に座って、また目を閉じた。


「次はガレナ!」

「あたしは最後でいい!」

「お前が一番軽いんだ。行け」

ラウロの声が変わった。

軽口じゃなくなった。

縄が張って、ノアは引いた。

ガレナは自分で登ろうとしていた。

縄を掴んだ手が滑って、また掴む。

穴の縁まで来たところで、ノアはガレナの手首を掴んだ。

細くて、冷たかった。

一息で引き上げた。

ガレナは岩の上に転がって、それから立ち上がって、帯から灯台の灯りを外した。

ノアの胸に押しつけた。

「持ってろ」

「なに?」

「いいから」

ガレナはノアの顔を見ていなかった。


「ラウロ!」

「水、胸まで来た!」

縄が張った。

重い。

ノアは岩に足をかけて引いた。

ガレナが後ろから縄を掴んだ。

イルウェンが目を開けて、一番後ろで縄の端を掴んだ。

「……重い」

「引け!」

三人で引いて、ラウロの頭が穴から出た。

腕が出て、肩が引っかかって、抜けた。

ラウロは岩の上に四つん這いになって、しばらく息だけしていた。

それから顔を上げた。

「ノア。お前、あれ、見えてたのか」

「見えてた」

「そうか」

ラウロはまた息をした。

「かっこよかったな」

ノアは灯台の灯りを抱えたまま、笑った。

「うん。かっこいい」



島の上は、日が傾くと風が変わった。

汗が乾いて、腕が冷える。

借りた舟は、結んだ岩ごと水の下に入っていた。

縄だけが伸びて、その先で舟が岩と岩のあいだで揺れている。

波が高くて、四人とも近づけなかった。

「帰ったら怒られる」

ラウロが膝を抱えている。

「うちは迎えが来る前に戻れば分からない」

「もう分からなくない時間だ」

ガレナは黙った。

イルウェンは岩の上で寝ていた。

ノアは膝の上の錆びた灯りをひっくり返して、中の砂を出した。

砂は乾いていた。


舟が見えたのは、日が海に半分入った頃だった。

一人で漕いでいる。

櫂の音が、波の音の間に聞こえた。

「ブランだ」

ノアは立ち上がった。

背は高くないが、肩と腕が厚い。

垂れた耳の先が、櫂を引くたびに揺れる。

舟が岩に付いて、ブランが顔を上げた。

無精ひげが伸びていて、風上に立っているのに酒の匂いがした。

「おい」

それだけ言って、舟を岩に寄せた。

「舟屋のじいさんが、子ども四人が戻らねえって井戸まで来た。おれは今日、仕事だったんだ」

「ごめん」

「馬鹿か! 潮の返りは聞いたのか!」

「聞いた」

「聞いてて、なんで残った」

ノアは灯台の灯りを抱え直した。

「奥まで行った」

それ以上、言わなかった。

ブランはノアを見て、ラウロを見て、ガレナを見て、寝ているイルウェンを見た。

「乗れ。舟はおれが引く」


四人が乗ると、ブランの舟は水面まで縁が近くなった。

ブランは借りた舟の縄を岩の下から切って、自分の舟の後ろに結び直した。

それから漕ぎ出した。

誰も口を開かなかった。

波止場の灯りが見えてきた頃、ノアが言った。

「ブラン。あの穴、上から海が見えたよ。かっこよかった」

ブランは漕ぐ手を止めなかった。

「阿呆」

言って、鼻から息を吐いた。

「次は縄を先に上へ通しておけ。…登ったのは、お前か」

「うん」

「そうか」

ブランの口の端が動いた。

笑っていた。

一度だけで、すぐに戻った。

「母ちゃんには、おれが怒ったって言え。二度は怒らねえからな」

「うん」


ノアは後ろを見た。

島は黒くなって、どの岩が三つ目か分からなくなっていた。

膝の上で、錆びた灯りが舟の揺れに合わせて鳴った。

あの箱の縄、新しかった。

誰が積んだんだろう。

ノアは誰にも聞かなかった。

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