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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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あたし

坂の空き地は、昼前から日が照りつけていた。

ノウミが鳴いている。

石垣にも、樫の木にも、屋根の縁にも止まって、どこを向いても声がする。

ノアは棒を肩に担いで、袖で額を拭いた。


「暑い。ラウロ、もう一回だけ」

「もう一回って、さっきも言ったろ」

ラウロは棒を地面に突いて、大きく息を吐いた。

栗色の髪が額に貼りついている。

「お前、なんで平気なんだよ」

「平気じゃないよ」


構え直したところで、坂の下から足音がした。

軽くて速い。

石段を二つ飛ばしで上がってくる音だ。


赤い髪が先に見えた。

飾りの無い麻の上着に、膝までの脚衣。

靴は革の、坂の子が履いているのと同じものだった。

リボンも、袖の房も無い。


「ガレナ?」

ノアが言うと、赤毛の子は空き地の縁で足を止めて、胸を張った。

「あたし」

「え?」

「あたし、って言うことにしたの。わたくし、はやめた」

ガレナは親指で自分の胸を指した。

日焼けが前より濃くなっている。

「家では叱られたわ。母さまに三度、ばあやに五度。でも服はもう戻さない。ぜーんぶ、箱の奥に押し込んできた!」

そう言って、笑った。

歯を見せて、声を立てて笑った。

井戸端で会ったときには、一度も見なかった笑い方だった。


ラウロが棒を下ろして、ノアの袖を引いた。

「おい、こいつ、あの馬車の子か?」

「そう。ガレナ」

「ぜんぜん違うじゃねえか」

「違うわよ」

ガレナが割って入った。

「あなたたち、また棒で遊んでるのね。あたしも入れなさい。

今日は泥だらけになってもいいの、そういう服だから」


ノアはガレナの手を見た。

指の付け根に、白い皮がめくれかけている。

「それ、どうしたの?」

「壁を登ったの。屋敷の裏の。四回落ちた」

ガレナはその手を隠さなかった。

「あなたが登るところ、見たいわ。木でも、壁でも」


坂の下から、女の人の声が上がってきた。

「ラウロ! 桶!」

ラウロが肩を落とした。

「母ちゃんだ。水汲み」

棒をノアに押しつけて、石段を駆け下りていく。

「夕方また来る! おれ抜きで面白いことすんなよ!」


「あの子、いつもああなの?」

「うん」

ノアは二本の棒を担ぎ直して、空き地の奥を顎で指した。

「木、あっち」



樫の木は空き地の奥にある。

幹が太く、一番下の枝まで、ノアの背丈の倍はあった。

ノウミの声はここが一番うるさい。

樹皮に手を当てると、日に焼けて乾いた匂いがした。


ノアは棒を根元に立てかけて、幹に手をかけた。

足の裏を樹皮に押しつけて、三歩で一番下の枝をつかむ。

膝をかけて、体を持ち上げる。

上の枝、その上の枝。

葉の中に入ると、日が遮られて少しだけ涼しかった。


「ここまで来られる?」

下を見ると、ガレナが口を開けて見上げていた。

「今の、どうやったの」

「登った」

「それは見たわよ。足よ、足。どこに置いたの」

「幹」

「幹のどこ!」


ガレナは袖をまくって、幹に飛びついた。

両手で樹皮をつかんで、足を蹴る。

靴の裏が滑って、腹から幹をずり落ちた。

「……っ」

「大丈夫?」

「大丈夫よ」

もう一度。

今度は片足がかかったが、手が届かずに尻から落ちた。

土埃が上がる。

三度目は、枝に指先がかかったところで落ちた。


ノアは枝に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。

落ちるたびに、ガレナは立ち上がって手のひらを払う。

めくれていた皮が、もう赤くなっている。

「ガレナ、手」

「うるさい」

四度目。

「同じにやったのに、なんで落ちるの」

「知らない。登ったら登れた」

「答えになってないわ」

五度目。

「もう、やめる?」

「やめない。あなた、上で待ってなさい」


七度目に、ガレナは幹に背を預けて座り込んだ。

息が荒い。

汗で髪が頬に貼りついて、赤がいっそう濃く見えた。

ノアは枝から飛び降りて、隣にしゃがんだ。


「ねえ」

ガレナが膝を抱えたまま言った。

「あなたが登れるのって、あれのせい? 背中の、あの……」

ノアは顔を上げた。

ガレナの目を、まっすぐに見た。

何も言わなかった。


ガレナの口が、開いたまま止まった。

それから、ゆっくり閉じた。

「……なんでもない」

ノアは立ち上がって、棒を拾った。

背中が熱い。

日に焼けただけだ。

足元の影が、一度だけ揺れた。

「波止場、行く? あっちは風が吹いてて涼しいよ」

「行く」

ガレナも立った。

手のひらを上着で拭って、何も聞かなかった顔で、ノアの前を歩き出した。



波止場の裏は、潮の匂いがした。

石畳が海に向かって濡れていて、ノウミの声が少し遠い。

工房の戸は開いていて、中から薬草を煮る匂いが漏れている。


戸口の日陰に、イルウェンが座っていた。

石の段に腰を下ろして、膝の上に籠を載せている。

籠の中は乾いた草で、それを一本ずつ、ものすごくゆっくり束ねていた。

金の髪が肩まで伸びて、春に会ったときより顔が細くなっている。

背も、伸びた。

座っていても分かる。


「イルウェン」

声をかけると、イルウェンは一拍置いてから顔を上げた。

「……ノア。あつい」

「暑いね。紹介するね。この子、ガレナっていうの」

イルウェンの目が、ゆっくりガレナに動いた。

ガレナは腕を組んで、イルウェンを上から下まで見た。

「あなた、エルフね。耳が尖ってる。……あら、あたしと同じくらいじゃない」

イルウェンは何も言わない。

草を一本、籠から抜いた。


「同じくらいって、なにが」

ノアが聞いた。

「背よ。年もそうでしょう。七つか、八つ」

「イルウェンは十七」

ガレナが止まった。

組んだ腕がほどけかけて、そのまま宙で止まる。

「じゅう……」

「十七」

「あたしより、十も上……?」

「うん」


ガレナはイルウェンを見た。

イルウェンは草を束ね終えて、次の一本を抜いた。

違うとも、そうだとも言わない。

ただ一度、まばたきをした。

ガレナには、それが偉い人のうなずきに見えたらしい。

背筋を伸ばして、両手を前で重ねた。

「し、失礼いたしました。わたくし、ガレナ・アルディーニと申します。……あ」

自分の口を押さえた。

「……あたし。あたし、ガレナ」

「……うん」

イルウェンはそれだけ言って、草に目を戻した。


ノアは肩が揺れるのを止められなかった。

「なによ」

「なんでもない。行こう、水飲みたい」

「今、笑ったわね」

「笑ってない」

「笑ったわ」

イルウェンの手元で、草がもう一本、束に入った。



夕方の坂の上は、風が出てきていた。

ノウミの声が低くなって、代わりに海鳥が鳴いている。

ラウロが水桶を置いて、石垣に座っていた。

「遅えよ。おれ、二往復したぞ」

「波止場行ってた」

「ずるいな」


ガレナは坂の下を見た。

遠くに、屋敷のある方角がある。

「そろそろ帰る。今日は歩いて来たから、暗くなる前に戻らないと、また叱られる」

「また来る?」

ノアが聞くと、ガレナはこちらを向いた。

手のひらは赤いままで、上着の膝は土の色になっている。

「来るわよ。あの木、登れるまで来る」

一歩近づいて、ノアの顔を指さした。

「お前、いつか追い抜くから」


ノアは一瞬、何を言われたか分からなかった。

「お前?」

「お前よ。あなた、って言うのもやめたの。今決めた」

ガレナは指を引っ込めて、胸を張った。

「追い抜くから、待ってなさい。木も、棒も、全部」


口が勝手に開いた。

「かっこいい」

「……は?」

「今の、かっこいい」

ガレナの顔が、髪と同じ色になった。

「ば、ばかにしてるでしょう」

「してない」

ラウロが石垣から飛び降りた。

「おれも追い抜くからな、ノア。ガレナ、お前、先に抜いたら言えよ。おれが二番目に抜く」

「あなた、順番なんて決めてどうするの」

「決めとくんだよ、こういうのは」


ガレナは二人を見比べて、鼻を鳴らした。

それから、坂を駆け下りていった。

石段を二つ飛ばしで。

振り返らなかったが、角を曲がる前に、片手だけ高く上げた。


ノアは、その手が見えなくなるまで見ていた。

「ノア」

「なに」

「お前、なんで嬉しそうなんだよ」

「嬉しくない」

「顔、にやけてるぞ」

ノアは頬を両手で押さえた。

まだ熱かった。

日に焼けただけだ、ともう一度、自分に言った。

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