あたし
坂の空き地は、昼前から日が照りつけていた。
ノウミが鳴いている。
石垣にも、樫の木にも、屋根の縁にも止まって、どこを向いても声がする。
ノアは棒を肩に担いで、袖で額を拭いた。
「暑い。ラウロ、もう一回だけ」
「もう一回って、さっきも言ったろ」
ラウロは棒を地面に突いて、大きく息を吐いた。
栗色の髪が額に貼りついている。
「お前、なんで平気なんだよ」
「平気じゃないよ」
構え直したところで、坂の下から足音がした。
軽くて速い。
石段を二つ飛ばしで上がってくる音だ。
赤い髪が先に見えた。
飾りの無い麻の上着に、膝までの脚衣。
靴は革の、坂の子が履いているのと同じものだった。
リボンも、袖の房も無い。
「ガレナ?」
ノアが言うと、赤毛の子は空き地の縁で足を止めて、胸を張った。
「あたし」
「え?」
「あたし、って言うことにしたの。わたくし、はやめた」
ガレナは親指で自分の胸を指した。
日焼けが前より濃くなっている。
「家では叱られたわ。母さまに三度、ばあやに五度。でも服はもう戻さない。ぜーんぶ、箱の奥に押し込んできた!」
そう言って、笑った。
歯を見せて、声を立てて笑った。
井戸端で会ったときには、一度も見なかった笑い方だった。
ラウロが棒を下ろして、ノアの袖を引いた。
「おい、こいつ、あの馬車の子か?」
「そう。ガレナ」
「ぜんぜん違うじゃねえか」
「違うわよ」
ガレナが割って入った。
「あなたたち、また棒で遊んでるのね。あたしも入れなさい。
今日は泥だらけになってもいいの、そういう服だから」
ノアはガレナの手を見た。
指の付け根に、白い皮がめくれかけている。
「それ、どうしたの?」
「壁を登ったの。屋敷の裏の。四回落ちた」
ガレナはその手を隠さなかった。
「あなたが登るところ、見たいわ。木でも、壁でも」
坂の下から、女の人の声が上がってきた。
「ラウロ! 桶!」
ラウロが肩を落とした。
「母ちゃんだ。水汲み」
棒をノアに押しつけて、石段を駆け下りていく。
「夕方また来る! おれ抜きで面白いことすんなよ!」
「あの子、いつもああなの?」
「うん」
ノアは二本の棒を担ぎ直して、空き地の奥を顎で指した。
「木、あっち」
樫の木は空き地の奥にある。
幹が太く、一番下の枝まで、ノアの背丈の倍はあった。
ノウミの声はここが一番うるさい。
樹皮に手を当てると、日に焼けて乾いた匂いがした。
ノアは棒を根元に立てかけて、幹に手をかけた。
足の裏を樹皮に押しつけて、三歩で一番下の枝をつかむ。
膝をかけて、体を持ち上げる。
上の枝、その上の枝。
葉の中に入ると、日が遮られて少しだけ涼しかった。
「ここまで来られる?」
下を見ると、ガレナが口を開けて見上げていた。
「今の、どうやったの」
「登った」
「それは見たわよ。足よ、足。どこに置いたの」
「幹」
「幹のどこ!」
ガレナは袖をまくって、幹に飛びついた。
両手で樹皮をつかんで、足を蹴る。
靴の裏が滑って、腹から幹をずり落ちた。
「……っ」
「大丈夫?」
「大丈夫よ」
もう一度。
今度は片足がかかったが、手が届かずに尻から落ちた。
土埃が上がる。
三度目は、枝に指先がかかったところで落ちた。
ノアは枝に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
落ちるたびに、ガレナは立ち上がって手のひらを払う。
めくれていた皮が、もう赤くなっている。
「ガレナ、手」
「うるさい」
四度目。
「同じにやったのに、なんで落ちるの」
「知らない。登ったら登れた」
「答えになってないわ」
五度目。
「もう、やめる?」
「やめない。あなた、上で待ってなさい」
七度目に、ガレナは幹に背を預けて座り込んだ。
息が荒い。
汗で髪が頬に貼りついて、赤がいっそう濃く見えた。
ノアは枝から飛び降りて、隣にしゃがんだ。
「ねえ」
ガレナが膝を抱えたまま言った。
「あなたが登れるのって、あれのせい? 背中の、あの……」
ノアは顔を上げた。
ガレナの目を、まっすぐに見た。
何も言わなかった。
ガレナの口が、開いたまま止まった。
それから、ゆっくり閉じた。
「……なんでもない」
ノアは立ち上がって、棒を拾った。
背中が熱い。
日に焼けただけだ。
足元の影が、一度だけ揺れた。
「波止場、行く? あっちは風が吹いてて涼しいよ」
「行く」
ガレナも立った。
手のひらを上着で拭って、何も聞かなかった顔で、ノアの前を歩き出した。
波止場の裏は、潮の匂いがした。
石畳が海に向かって濡れていて、ノウミの声が少し遠い。
工房の戸は開いていて、中から薬草を煮る匂いが漏れている。
戸口の日陰に、イルウェンが座っていた。
石の段に腰を下ろして、膝の上に籠を載せている。
籠の中は乾いた草で、それを一本ずつ、ものすごくゆっくり束ねていた。
金の髪が肩まで伸びて、春に会ったときより顔が細くなっている。
背も、伸びた。
座っていても分かる。
「イルウェン」
声をかけると、イルウェンは一拍置いてから顔を上げた。
「……ノア。あつい」
「暑いね。紹介するね。この子、ガレナっていうの」
イルウェンの目が、ゆっくりガレナに動いた。
ガレナは腕を組んで、イルウェンを上から下まで見た。
「あなた、エルフね。耳が尖ってる。……あら、あたしと同じくらいじゃない」
イルウェンは何も言わない。
草を一本、籠から抜いた。
「同じくらいって、なにが」
ノアが聞いた。
「背よ。年もそうでしょう。七つか、八つ」
「イルウェンは十七」
ガレナが止まった。
組んだ腕がほどけかけて、そのまま宙で止まる。
「じゅう……」
「十七」
「あたしより、十も上……?」
「うん」
ガレナはイルウェンを見た。
イルウェンは草を束ね終えて、次の一本を抜いた。
違うとも、そうだとも言わない。
ただ一度、まばたきをした。
ガレナには、それが偉い人のうなずきに見えたらしい。
背筋を伸ばして、両手を前で重ねた。
「し、失礼いたしました。わたくし、ガレナ・アルディーニと申します。……あ」
自分の口を押さえた。
「……あたし。あたし、ガレナ」
「……うん」
イルウェンはそれだけ言って、草に目を戻した。
ノアは肩が揺れるのを止められなかった。
「なによ」
「なんでもない。行こう、水飲みたい」
「今、笑ったわね」
「笑ってない」
「笑ったわ」
イルウェンの手元で、草がもう一本、束に入った。
夕方の坂の上は、風が出てきていた。
ノウミの声が低くなって、代わりに海鳥が鳴いている。
ラウロが水桶を置いて、石垣に座っていた。
「遅えよ。おれ、二往復したぞ」
「波止場行ってた」
「ずるいな」
ガレナは坂の下を見た。
遠くに、屋敷のある方角がある。
「そろそろ帰る。今日は歩いて来たから、暗くなる前に戻らないと、また叱られる」
「また来る?」
ノアが聞くと、ガレナはこちらを向いた。
手のひらは赤いままで、上着の膝は土の色になっている。
「来るわよ。あの木、登れるまで来る」
一歩近づいて、ノアの顔を指さした。
「お前、いつか追い抜くから」
ノアは一瞬、何を言われたか分からなかった。
「お前?」
「お前よ。あなた、って言うのもやめたの。今決めた」
ガレナは指を引っ込めて、胸を張った。
「追い抜くから、待ってなさい。木も、棒も、全部」
口が勝手に開いた。
「かっこいい」
「……は?」
「今の、かっこいい」
ガレナの顔が、髪と同じ色になった。
「ば、ばかにしてるでしょう」
「してない」
ラウロが石垣から飛び降りた。
「おれも追い抜くからな、ノア。ガレナ、お前、先に抜いたら言えよ。おれが二番目に抜く」
「あなた、順番なんて決めてどうするの」
「決めとくんだよ、こういうのは」
ガレナは二人を見比べて、鼻を鳴らした。
それから、坂を駆け下りていった。
石段を二つ飛ばしで。
振り返らなかったが、角を曲がる前に、片手だけ高く上げた。
ノアは、その手が見えなくなるまで見ていた。
「ノア」
「なに」
「お前、なんで嬉しそうなんだよ」
「嬉しくない」
「顔、にやけてるぞ」
ノアは頬を両手で押さえた。
まだ熱かった。
日に焼けただけだ、ともう一度、自分に言った。




