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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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わたくし

街道は北の門を出てすぐ、麦畑のあいだをまっすぐ伸びている。

五月の風が穂を撫でて、青い匂いがする。

道の脇に楡が一本あって、ノアはその枝に腰かけていた。

下でラウロが棒を振っている。

「ノア、降りてこいよ。打つ相手がいねえ」

「もうちょっと。ここから見ると、道の先まで見えるよ」

「見えたって何も来ねえだろ」

来た。

道の向こうから、黒い箱みたいな馬車が一台、埃を上げて近づいてくる。

「ラウロ、来た!」

「だから何だよ」

馬車は楡の手前で止まった。

御者が降りて、道端の水路に桶を沈める。

馬に水をやるらしい。

ノアは枝から飛び降りた。

膝を曲げて、音を立てずに着いた。

「跳ぶなよ。骨折るぞ」

「折れないよ。じゃあ、打っていいよ」

ラウロが棒を振った。

ノアはかわした。

横に一歩、それだけ。

二度目もかわして、三度目は棒の先を指で弾いた。

「うわ、ずりぃ」

「弾いていいって言わなかったっけ」

「言ってねえ」

ラウロが笑って、また振った。


馬車の窓に、顔があった。

女の子だった。

赤い髪を耳の上で二つに結って、白いリボンが垂れている。

目尻が上がっていて、頬が日に焼けている。

青い服の襟に、白いひだが幾重にも重なっている。

両手を窓枠にかけて、こっちを見ていた。

ずっと見ていた。

ノアは棒をかわしながら、その顔を三回見た。

三回とも、目が合った。


「女の子が外で走りまわって遊ぶなんて、はしたないですわ」

高い声だった。

ラウロの棒が止まった。

ノアは窓のほうへ歩いた。

「どうして?」

「どうしてって…」

女の子は口を開けて、閉じた。

「はしたないって何だ?」

ラウロが後ろから聞いた。

「知らない。うまいってこと?」

「違うだろ。ほめてる顔じゃねえもん」

女の子の頬が赤くなった。

「女の子は、おしとやかにしていないとだめなの!」

「なんで?」

「だめなものはだめなのです!お母さまがそう言ってます!」

ノアは窓枠に手を乗せた。

女の子と、顔の高さが同じになった。

「そんなこと言わないで。たのしいよ?一緒にあそぶ?」

女の子の目が、大きく開いた。

それから、ぎゅっと細くなった。

「わたくしだって、あそびたいのに!ずるい!」

扉が開いた。

女の子が飛び出してきた。

ノアの腹に、頭から突っ込んできた。


倒れた。

道の脇は、おとといの雨でまだぬかるんでいた。

背中が冷たい。

女の子がノアの上に乗って、服の襟を掴んだ。

「ずるい、ずるい、ずるい!」

「痛くないよ」

「痛くしてやる!」

ノアは転がった。

女の子ごと転がって、今度はノアが上になった。

泥が跳ねた。

リボンが片方、泥の中に落ちた。

「お前、離せ!」

「お前って言った」

「言ってない!」

女の子がノアの髪を引っ張った。

ノアは引っ張らせておいた。

かわせば済む。

でもかわしたら、この子はもっと怒る。

そう思ったので、そのまま転がった。

「ノア、おい、ノア」

ラウロが棒を持ったまま、二人の周りを回っていた。

「どうすんだよこれ。おれ、女の子は殴れねえよ」

「殴らなくていいよ」

「じゃあどうすんだよ」

「転がる」

転がった。

女の子の服の白いひだが、全部茶色になった。

ノアの髪にも泥が入った。

女の子の手が止まった。

息が荒くて、顔が真っ赤で、目に水が溜まっていた。

「うわあああん」

泣いた。

道いっぱいに響く声だった。

御者が桶を落とした。


「ガレナ!」

畑のほうから、女の人が走ってきた。

背が高い。

女の子と同じ赤い髪を後ろで一つにまとめて、灰色の外套の裾を手で持ち上げている。

手袋をしていて、腰に小さな帳面を提げていた。

女の人は泥の中の二人を見た。

女の子を見て、ノアを見て、もう一度女の子を見た。

「…ガレナ。何をしているの」

「この子が、この子がずるいの!」

「ずるくないよ」

「ずるい!」

女の人はノアを見た。

目は怒っていなかった。

困っている目だった。

「あんた、名前は」

「ノア。坂の下の長屋の子」

「ノア。うちの娘が、飛びかかったの?」

ノアが答える前に、ラウロが前に出た。

「おれが見てました。馬車の中からその子がはしたないって言って、ノアがどうしてって聞いて、

そしたらその子が自分も遊びたいって言って飛び出してきました。ノアは一回も殴ってません。

転がっただけです」

一息で言った。

女の人は聞き終わって、息を吐いた。

「遊びたい、って言ったの」

「言った」

女の子が、泥の中で頷いた。

女の人はしゃがんで、女の子の頬の泥を手袋で拭った。

拭った分だけ、手袋が茶色くなった。

「そう」

それだけだった。

立ち上がって、ノアを見た。

「ノア。あんたも泥だらけね。その格好で長屋に帰したら、お母さんに怒られるわ。うちで洗っていきなさい」

「いいの?」

「娘がやったことだから」

ノアはラウロを見た。

ラウロは棒を肩に担いだ。

「おれは帰る。ノアの母さんに、馬車に乗ってったって言っとく」

「うん。またね」

「また。今度は最初から降りてこいよ」

ラウロは坂のほうへ走っていった。



ガレナの家は、坂の上の白い壁の家だった。

門をくぐると石を敷いた裏庭があって、真ん中に井戸がある。

女中が二人、桶と布を持って待っていた。

「お嬢さま、まあ、その格好」

「言わないで」

ガレナはそう言って、ノアの手を引いた。

引く力が強かった。

井戸の脇で、二人とも服を脱いだ。

女中が水を汲む。

桶の水は五月でもまだ冷たい。

「冷たっ」

「我慢なさい。わたくしも我慢していますわ」

「もう、わたくしに戻ったんだ」

「戻ったって何ですの」

「さっき、お前って言った」

「言ってません」

ガレナは桶に手を入れて、ノアに水をかけた。

ノアも掛け返した。

女中が「お嬢さま」と言ったが、二回目からは言わなかった。

泥が水に溶けて、足元の石を茶色くしていく。

ノアは髪を絞った。

背中を向けて、頭を下げた。


「なんですの、それ」

「なに?」

「背中」

ノアは振り向いた。

ガレナが、ノアの背中を指さしていた。

「翼みたいなのが、ある」

「翼?」

「痣。肩から下に、両側。鳥みたいに」

ノアは手を後ろに回した。

指が背中に触れた。

何も感じなかった。

ただの背中だった。

背中は、誰にも見せないでね。

母の声が、頭の中で言った。

いつ言われたか思い出せないくらい、昔から言われていた。

忘れていた。

ノアは布を掴んで、背中に被せた。

「見せちゃだめだった」

「どうして」

「知らない。母さんがそう言った」

「知らないのに隠すの」

「隠す」

ガレナはそれ以上聞かなかった。

ノアは井戸の縁に手をかけて、水面を覗いた。

暗くて、自分の顔しか映らなかった。

背中は見えない。

「ねえ。どんな形?」

「翼ですわ。両方に開いてる。物語の天使みたいな」

「かっこいい?」

ガレナは少し考えた。

「…かっこいいですわ」

ノアは布を被ったまま、もう一度水面を見た。

やっぱり顔しか映らなかった。



夕方、ノアはガレナの家の馬車で長屋へ送られた。

借りた服は袖が短くて、手首が出た。

自分の服は、洗って絞ったのを布に包んで膝に乗せている。

ガレナが向かいに座っていた。

髪はもう乾いて、リボンは片方だけになっていた。

坂の下で馬車が止まった。

ノアは降りた。

「ありがとう。また遊ぶ?」

ガレナは答えなかった。

馬車が動いた。

窓から、ガレナが振り返った。

睨んでいる顔だった。

睨んでいるのに、口の端が持ち上がりかけていた。

ノアは手を振った。

ガレナは振らなかった。

馬車が坂の角を曲がる直前に、窓の中で手が一回、小さく上がった。


影で、光が揺れた。

「取っ組み合い。報告の対象ですねえ」

「ピリム」

「はい」

「わたしの背中、見たことある?」

光が止まった。

少しして、また揺れた。

「欄が、埋まりませんねえ」

「答えになってない」

「なってませんねえ」

ノアは包みを抱え直して、長屋の戸を見た。

中で母が、夕飯の支度をしている音がした。

戸を開けて、背中のことを言おうとして、やめた。

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