隣町へ
乗合馬車は朝の六時に坂の下を出た。
板の座席は固く、車輪が石を踏むたびに尻が浮く。
馬の匂いと埃の匂いが一緒に入ってくる。
向かいには籠を抱えた婆さんが一人、もう寝ていた。
ノアは窓に取りついた。
「母さん、山が動いてる!」
「動いているのは馬車のほうよ」
「知ってる。でも動いてる」
ヴァレンツァの外は初めてだった。
海が無い。
代わりに丘が波みたいに続いて、その上を麦が黄色く覆っている。
ノアは窓枠に腹を乗せて、頭を外に出した。
風が髪を全部後ろに持っていく。
「かっこいい…」
「ノア。座ってくれる?」
母の手が帯を掴んで、引き戻した。
声は柔らかいのに、手は柔らかくなかった。
「落ちたら、その先を歩いて行くことになるわよ」
「歩けるよ」
「ミラベルまで六時間。歩いたら二日ね」
ノアは座った。
座って、それでも窓から目を離さなかった。
足元の影で、光が小さく揺れた。
「身を乗り出す子ども。報告の対象ですねえ」
「ピリム、報告しないんでしょ」
「しませんよ。欄だけ空けておきます」
光が速く揺れた。
笑っている。
婆さんが寝返りを打って、籠から林檎が一つ転げた。
ノアが拾って、籠に戻した。
それだけで、婆さんは目を覚まさなかった。
ミラベルの市は昼の日差しの真下にあった。
坂の町だが、ヴァレンツァの坂より広くて浅い。
石畳に麦の袋が並び、その隣に梨と葡萄が山になっている。
熟れた匂いが強くて、鼻の奥が甘くなった。
「母さん、葡萄。あれ買っていい?」
「見てからね」
母は葡萄の山の前で立ち止まって、一房を持ち上げた。
裏を返して、粒を一つ指で押した。
「三房で、銅の二にならない?」
売り手は日に焼けた男で、腕が麦の袋みたいに太い。
「そりゃ無理さね。三房なら銅の三、それで精一杯だべ」
「この房、下のほうが潰れているわ」
「…潰れてるのは一つだけだ」
「それを引いて、二と半分」
母は笑っていた。
口の端だけを上げて、目は男を見たままの笑い方だった。
ノアはその顔を知らなかった。
家で見る顔でも、テレーザさんと話す顔でもない。
母さん、あんな顔するんだ。
男が頭を掻いた。
「二と半分。ただし、潰れたやつは持ってってくれ」
「ありがとう」
母は銅貨を数えて渡した。
葡萄の房が三つ、布の袋に入った。
「母さん、今の、かっこいい」
「値切っただけよ」
「うん。でも、かっこいい」
母は袋をノアに持たせた。
潰れた粒をひとつ摘んで、ノアの口に入れた。
温かくて、甘かった。
ジャーダ湖の岸には、日が落ちてから人が集まった。
水は黒くて、風が無い。
昼の熱がまだ石に残っていて、座ると尻が温かい。
舟が一艘、また一艘と岸を離れていく。
舟の上で、人が手のひらを開いた。
赤。
黄。
緑がかった青。
一つずつ灯って、水に映る。
映った光が舟の後ろに伸びて、揺れる。
岸でも、子どもたちが手を開いた。
橙が三つ、並んだ。
「かっこいい…」
ノアは自分の手を見た。
握って、開いた。
開いただけだった。
母の手が、その手を包んだ。
「こっち」
母は岸を歩いた。
人の声が遠くなって、舟の光が小さくなる。
葦が生えているところで止まった。
向こうの岸の灯りが、水の上で細く震えている。
「一度だけ。小さく」
「いいの?」
「ここなら」
母はノアの手を離さなかった。
ノアは手のひらを上に向けた。
灯した。
白かった。
小さくて、揺れて、それが水に映った。
映った白は、月の映りと、遠くの舟の映りの間に入って、どれがどれか分からなくなった。
「消えちゃった」
「消えていないわ。紛れているだけ」
母はノアの手を握ったままだった。
握る力が、少しだけ強くなった。
影の中で光が揺れた。
「湖の欄には、書きようが無いですねえ」
「ピリム、静かに」
「はいはい」
光がすっと沈んだ。
ノアはもう一度灯そうとして、母の手が動かないので、やめた。
遠くで舟の誰かが歌い出した。
知らない歌だった。
宿の部屋は二階で、窓から湖が見えた。
夜の風が入って、昼よりずっと涼しい。
舟はもうほとんど戻っていて、水の上には灯りが二つ三つ残っているだけだった。
ノアは窓枠に肘を乗せた。
母が隣に来て、髪を撫でた。
「ねえ母さん。ずっとこうしてたいね」
「そうね」
母はそう言った。
言って、髪の上で手が止まった。
ノアは湖を見ていた。
最後の灯りが一つ、岸に着いて消えた。
手はまだ止まっていた。
なんで、と聞かなかった。




