姉さんの道
坂の上の長屋は、夕方になると井戸のまわりに人が集まる。
六月の風はまだ冷たくない。
ノアは井戸の縁に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
隣でラウロが石を積んでいる。
三つ目でくずれた。
「へただね」
「うるさい。お前がゆらすからだ」
坂を上がってくる足音がした。
重い。
フランカだ。
肩に荷運びの縄をかけたまま、汗で髪が額にはりついている。
背はテレーザより頭一つ高く、腕は井戸の柱と同じくらい太い。
「母さん、いる?」
「いるよ。網の穴と喧嘩してるさね」
テレーザが戸口から顔を出した。
針を口にくわえている。
「なんだい、大きな声で」
「夜警の頭に呼ばれた。あたしを夜警に入れたいって」
針が口から落ちた。
テレーザは拾わない。
「コスタンツァかい」
「うん。港で荷を担いでるのを見てたんだって。腕っぷしだけ買われた」
ノアは足を止めた。
「夜警ってなに?」
「夜に棒もって港を歩くやつ」
ラウロが先に答えた。
石を四つ目まで積んで、こんどはくずさない。
「かっこいい!」
「かっこよくないよ。寒いし眠いし、酔っぱらいに殴られるんだ。波止場のおっさんが言ってた」
テレーザは前掛けで手をふいた。
一度、フランカの腕を見た。
それから顔を見た。
「行っときな」
「反対しないの?」
「反対したって行くんだろ。だったら初めから言っといたほうが、あたしの気が済むじゃないかい」
フランカが笑った。
大きな声だった。
「はいるのは、いつ?」
「三日後の夕方。詰め所に来いって」
三日。
ノアは指を三本立てた。
「それまで、棒、見せて」
「棒?」
「夜警の棒。フランカ姉さん、使えるでしょ」
フランカは縄を肩から外して、井戸の柱にかけた。
「使えるってほどじゃないさね。荷を担ぐついでに、追い払う棒を振ってただけだよ」
「見せて」
「見せて」
ラウロも言った。
声が重なった。
「ほら、裏の空き地に来な。母さん、少しだけ借りるよ」
「怪我させるんじゃないよ。うちの店子だからね」
テレーザは針を拾って、戸の中に戻った。
長屋の裏の空き地は、干した網の匂いがする。
物干しの柱に、樫の棒が一本、立てかけてあった。
ノアの背より長い。
フランカがそれを片手で取った。
「荷運びの棒だよ。船から降ろすとき、荷を押したり、犬を追ったりするやつ」
フランカは棒の真ん中を握った。
振った。
風が鳴った。
ノアの前髪が動いた。
「うわ」
ラウロが後ろへ一歩さがった。
「型なんて知らないさね。担いだ荷を落とさない腕で、そのまま振るだけ」
「どこで止めるの?」
「止めない。当たるまで振る」
フランカは棒の先を地面に立てた。
「ほれ。二人でかかってきな。あんたたち、棒にかなわないの、体で覚えといたほうがいい」
ラウロが棒きれを拾った。
物干しの端に落ちていた、細いやつ。
「おれが前。ノアは横から」
「いいよ」
ラウロが走った。
棒きれを振り上げる。
フランカの棒が横から来て、棒きれを払った。
ラウロの手から棒きれが飛んだ。
その棒が戻ってきて、ラウロの腰を押した。
押しただけだった。
ラウロが転がった。
ノアは横から飛びついた。
フランカの棒を持つ手をつかむつもりだった。
つかんだ。
つかんだまま、持ち上げられた。
フランカが腕を振った。
ノアは網の山に落ちた。
「軽いね、あんた」
網の中でノアは笑った。
干した網はちくちくした。
「もう一回」
「もう一回」
ラウロが立った。
膝に土がついている。
「ほら、来な」
二回目。
ラウロが低く来た。
フランカの棒の先が、ラウロの足を引っかけた。
ラウロが前に倒れた。
ノアは飛び越えて、フランカの背中に回った。
背中に手が届く前に、棒の尻がノアの腹に来た。
息が出た。
座り込んだ。
「痛かった?ごめんね。」
「痛くない。だいじょうぶ。」
嘘だった。
フランカはノアの顔を見て、ラウロの顔を見て、笑った。
「二人がかりでこれさね。荷運びの棒でも、子どもには十分だよ」
ラウロが土をはたいた。
「おれ、もう一回」
「もういい。腕がちぎれる」
ラウロは棒きれを放って、網の山に寝転がった。
息が荒かった。
ノアは立った。
「わたしだけ、もう一回」
「まだやるの、あんた」
「棒、当たらないようにする。だからやって!」
フランカが棒を握り直した。
「ほれ、行くよ」
棒が来た。
横。
ノアはかがんだ。
頭の上で風が鳴った。
戻ってきた。
ノアは飛んだ。
足の下を棒が通った。
「へえ」
フランカの声が変わった。
棒が速くなった。
上から。
ノアは横へ。
下から。
ノアは後ろへ。
横。
横。
上。
ノアは全部かわした。
棒は一度も当たらなかった。
ノアは楽しかった。
棒の来る場所が、来る前に分かる。
それだけだった。
「ノア、お前、なにしてんだよ」
ラウロが網の上で体を起こしていた。
ノアは答えなかった。
答える暇がなかった。
フランカの棒が上がった。
今までで一番高く。
フランカの足が土を踏んだ。
腰が入った。
荷を担ぐときの腰だ。
棒が止まった。
上で止まった。
フランカは棒を持ったまま、息を吐いた。
一度。
それから棒を下ろして、地面に立てた。
「なんで止めたの?」
「当たったら、あんたが折れちまうよ」
フランカは額の汗を腕でぬぐった。
腕が少し震えていた。
「あんた、夜警には向かないね」
「なんで?」
フランカはすぐには言わなかった。
棒の先で土を突いた。
二回。
「目立つから」
「目立つの、悪い?」
「夜警は夜に立つんだよ。暗いところで、誰も見てないところで、殴られて、殴り返す仕事。
目立ったら、殴られる方が増えるんだ」
ノアは自分の手のひらを見た。
何も無い。
土がついているだけだった。
「わたし、殴られてないよ」
「そうさね。一回も」
フランカはノアの頭に手を置いた。
大きな手だった。
汗で湿っていた。
「だからだよ。ほら、ラウロ、起きな。母さんに水をもらいに行こう」
「おれ、まだ腰痛い」
「明日はもっと痛いさね」
ノアは最後まで、なんで、と聞かなかった。
フランカの手が、頭からなかなか離れなかった。
三日後の夕方、詰め所の前には人がいなかった。
波止場の端の小さな建物で、戸が開いている。
中から潮と、獣の皮の匂いがした。
「本当に入っていいの?」
「いいさね。見送りくらい」
フランカは新しい前掛けをつけていた。
テレーザが夜なべで縫ったやつだ。
ノアとラウロが後ろについた。
中に椅子が一つあった。
女が座っている。
背を戸口に向けて、首を横に倒し、目を閉じていた。
髪は短く、耳の後ろで切ってある。
腰に短い刀を横にして差していた。
足元に、皮の束が転がっている。
何の皮か、ノアには分からなかった。
角も一本、壁に立ててあった。
「寝てる」
ノアは小さく言った。
「寝てない」
女は目を開けなかった。
声だけだった。
「ロッシの娘だべ。腕を見せろ」
フランカは前に出て、腕を出した。
女は目を開けて、腕を見て、閉じた。
「いい。そこの棒、持ってけ」
女はあごで隅を示した。
隅に棒が立っていた。
一本だけ。
フランカの荷運びの棒より短く、黒い。
先に鉄の輪がはまっている。
フランカが取った。
持ち上げて、一度だけ振った。
風が鳴らなかった。
重いのだ。
「振るな。当てるだけの棒だべ」
「はい」
「返事はいらない。夜警は声を出さない。出したら酔っぱらいが逃げる」
フランカは口を閉じた。
女が笑ったかどうか、ノアには分からなかった。
目が閉じたままだったから。
「後ろのは」
「坂の子です。見送りに」
女は目を開けた。
ノアを見た。
ラウロを見た。
もう一度ノアを見た。
それから目を閉じた。
「帰れ。日が落ちる」
それだけだった。
ノアとラウロは戸口の外に出た。
波止場の向こうで日が海に近づいていた。
フランカが戸口に立って、棒を肩にかついだ。
新しい前掛けと、黒い棒。
「フランカ姉さん、かっこいい!」
「そりゃよかったさね。ほれ、帰りな。母さんに、棒、もらったって言っといて」
ノアは手を振った。
ラウロは振らなかった。
「おれ、あの人、こわい」
「寝てたよ」
「寝てなかった。お前、見られてただろ」
ノアは自分の手のひらを見た。
夕日で赤かった。
何も、灯っていない。
坂を上がる途中で一度ふり返った。
詰め所の戸口に、黒い棒の先だけが見えた。
目立たない。
ノアはそれを、少しだけ羨ましいと思った。




