降臨の日
坂の上の長屋は、朝から戸が半分だけ開いていた。
潮の匂いより先に、焼いたパンの匂いが入ってくる。
「起きてるかい」
テレーザが戸口に立っていた。
籠を腰に当てて抱え、上に布を掛けている。
布の下から湯気が上がって、テレーザの顎のあたりで消えた。
「今日は食べ物を持ってきてやるから、家で大人しくしときな。パンと、干した魚と、ドーラのとこの豆。
二人で三日は持つよ」
籠を卓に置くと、卓が鳴った。
母は内職の糸を膝に置いたまま、頭を下げた。
「ありがとう。助かるわ」
「礼はいいよ。戸を閉めときな。それだけだ」
「わたし、見に行く」
ノアは寝床から跳ね起きていた。
「天使、見たい。去年は後ろで見えなかった」
テレーザがノアを見て、母を見た。
母の手が、糸の上で止まった。
「…ノア」
「見るだけ。すぐ帰る」
「しょうがないね」
テレーザが息を吐いた。
「フランカが下の子を連れて行くって言ってた。ついて行きな。手を離すんじゃないよ」
「離さない」
「あんたのその返事、あてにならないんだよ」
母は何も言わなかった。
糸を巻いて、籠の布を直して、それからノアの髪を手で撫でつけた。
「フランカさんから離れないでね?」
「うん」
声が硬い。
今日の母さんは、返事を待たないで手を離した。
二軒隣の戸の前に、フランカが立っていた。
背はテレーザより低いけれど、腕がノアの太腿くらいある。
前掛けに魚の鱗が一枚ついていて、朝の光で青く光った。
「来たね。手。」
言われる前に、右の手首を掴まれた。
左の手首は、もう別の子が掴まれている。
ラウロだった。
パンを口に押し込んだまま、目だけで笑った。
坂を下りる。
フランカの手は、下りきるまで一度もゆるまなかった。
「前に出ない。触らない。声を出さない。三つだよ。言ってみな」
「前に出ない。触らない。声を出さない」
ラウロが先に言って、ノアが遅れて繰り返した。
「まったく。あんたたちは昔のあたしみたいだ。信じちゃいないよ」
坂の下で、人が詰まり始めていた。
店の前にドーラが出ていて、フランカが声をかけた。
「豆、いくらだったっけ」
手が、前掛けを直すのに、一瞬だけ離れた。
ノアは抜けた。
聖堂の広場は朝から白い。
軒に、柱に、井戸の屋根に、白い布が掛かっている。
海から風が来て、布が一度に鳴った。
「かっこいい!」
ノアは石段の上で跳ねた。
去年も見たはずなのに、こんなに白かったっけ。
「うるせえな、朝から」
ラウロが石段を駆け上がってくる。
栗色の髪が寝癖で立っていて、口の端にパンの粉がついている。
「フランカのおばさん、下で怒ってる。おれのせいになってた」
「ごめん」
「いいよ。おれ、去年は父ちゃんの背中しか見えなかった。今年は前で見る」
「前、行こ」
「お前が言うと思った」
柱のところで、アガタが布を結んでいた。
ノアより頭ひとつ高いだけで、肩が薄い。
髪を後ろで固く結わえて、灰色の前掛けの紐を背中で二重にしている。
袖口が擦れて白くなっていて、指の節に糸の跡が赤くついていた。
背伸びをして、結び目を二回確かめている。
「アガタ、天使、どっちから来る?」
声をかけると、肩が跳ねた。
「あの、ええと…空から、ですよね」
「知ってる。どっち?」
「…海のほう、かもしれません。去年はそうでした」
アガタは結び目から手を離さずに言った。
目が、ノアの顔まで来て、先に下を向く。
「あの、前は司祭さまがいらっしゃるので、あまり…」
ノアはもう石段を降りている。
昼前には、石段の下まで人が詰まった。
網元が孫のテオを肩に乗せて立っている。
酒場のドーラは店の前の椀に白い布を敷いて、腕を組んでいる。
フランカが人を割って上がってきた。
息が上がっていて、前掛けの鱗が無くなっている。
ノアとラウロの襟を片手ずつ掴んで、石段の脇の柱の前に立たせた。
「ここ。動くな。動いたらテレーザに言うよ。あんたの母さんにもだ」
「動かない」
「その返事はもう聞いた」
アガタが少し離れてついてきて、フランカの後ろの柱の陰で止まった。
空が鳴った。
鐘の音に似ていて、鐘ではなかった。
広場じゅうの顔が、いっぺんに上を向く。
フランカの顔も、上を向いた。
海の上に白い点が二つ。
近づくと、馬だった。
翼のある白い馬が二頭、こちらへ降りてくる。
「ペガサス!」
ノアの声に、ラウロが袖を引っぱった。
「声でけえ」
フランカの手が、ノアの襟を探して、空を掴んだ。
ノアはもう腕の下をくぐっている。
馬が石畳に足を着けると、風が押してきた。
軒の布が全部同じ向きに翻る。
馬の背から、二人が降りた。
白い。
衣も、肌も、白い。
背は司祭さまより頭ひとつ高くて、細い。
背中には翼が広がっていた。
その翼が、ゆっくり折れていく。
ノアは数えた。
十まで数えても、まだ畳まれきらなかった。
顔はきれいだった。
目の色が薄くて、まばたきをほとんどしない。
一人が首を回して広場を見た。
首だけが、ゆっくり回った。
アンブロージオが前に出て、片膝を石畳につけた。
「ようこそ。ヴァレンツァは今年もあなた方を迎えます」
「聞いた」
天使の声は低くも高くもなかった。
言い終えて、間があった。
網元が声を張った。
「今年の海は荒れますか」
「記録する」
「娘の縁を、お願いしたい」
誰かがそう言った。
「記録する」
ノアは人の腕の間から抜けて、天使のすぐ前に出た。
翼の付け根が見える。
衣の下で、何かが噛み合うような音を立てていた。
「翼、触っていい?」
天使の顔は動かなかった。
薄い目が、ノアの上を通り過ぎて、別のところを見た。
ラウロが後ろから襟を掴んで引き戻した。
「ばか、ばか」
柱の陰で、アガタが息を止めたのが聞こえた。
それから、肩に手が落ちてきた。
指が食い込む。
「言ったろ」
フランカの声は、さっきまでの半分の大きさだった。
ノアは上を見なかった。
アンブロージオが、膝をついたまま声を上げた。
「薬を。人手を。施療院の薬が足りません。手紙は二十一年、送り続けております」
「検討する」
「…ありがとうございます」
アンブロージオは頭を下げた。
下げた頭が、しばらく上がらなかった。
天使は歩き出した。
一歩の幅がどこまでも同じで、聖堂の扉まで進むのに、ノアが石段を上り下りするくらいの時間がかかった。
扉が閉まる。
「検討って、なに?」
「考えとく、ってことだろ」
ラウロがパンの粉を払った。
「去年も言ってた?」
「ええと…」
アガタが柱から出てきて、小さく言った。
「たぶん、去年も。その前も」
きれいだった。
でも、遅い。
ノアは閉まった扉を見て、それだけ思った。
「ラウロ!」
人の向こうから、太い声が飛んできた。
フランカがラウロの襟を、駆けてきた父親に渡す。
「アガタ、堂守が呼んでるよ」
アガタが頭を下げて走っていった。
フランカがノアのほうへ振り向く。
その前に、ノアは柱の裏へ回っていた。
聖堂の裏は、表の音が届かない。
ノアは一人で裏へ回った。
「天使、どこ行った?」
裏口の段に、灯記しのおじさんがいた。
クレメンテだ。
帳面を五冊も抱えて、膝の上で紐を結び直している。
汗が額から流れて、帳面の角に落ちかけていた。
「あんた、こんなところで何してんです。表へお戻りくだせえ」
「持つの、手伝う」
ノアは一冊取った。
重い。
表紙に、聖堂の印が押してある。
「これ、灯帳?」
「写しでございますよ。触らんでくだせえ」
クレメンテは取り返そうとして、汗で手が滑った。
ノアは帳面を段に置いて、井戸へ走った。
桶を引き上げて、柄杓で汲んで、戻る。
「水、いる?」
クレメンテはノアを見て、柄杓を見て、受け取った。
一口で飲んだ。
息を吐いて、段に腰を落とした。
「…助かりましたよ。朝から一人で、五冊運ばされて」
「天使、聖堂の中でなにしてるの?」
「待ってるんでございますよ、これを」
クレメンテは膝の帳面を叩いた。
「天使さまはね、こいつを持って帰るんです。各地の灯帳の写しを。
七つの子が何色を灯したか、どこの家がどんな色か、みんな天へ上がるんでございますよ。
ここの分だけじゃねえ。港町の聖堂は写しの数が多いんで、あたしが…」
「わたしのも?」
クレメンテの口が止まった。
帳面の紐を、また結び直す。
「あんたのは、灯らず、と書いてあるだけでございますよ」
結び終えて、もう一度結び直した。
「今のは聞かなかったことにしてくだせえ。あたしの口が、また」
「聞かなかった」
「…ほんとに、頼みますよ」
クレメンテは帳面を抱えて裏口に入った。
ノアは段に置いた帳面が無くなった跡を見ていた。
灯らず。
母さんがそう書かせた。
それが、天へ上がる。
坂の上の長屋は、戸が閉まっていた。
窓の板も閉めてある。
昼なのに、ノアの家だけ夜みたいだった。
「母さん、わたし」
戸を押すと、中から閂の音がして、少しだけ開いた。
隙間から母の顔が見えて、ノアを引き入れた。
戸がまた閉まる。
中は暗い。
卓の上に、朝のテレーザの籠がある。
布はそのまま掛かっていた。
母は内職の糸を膝に置いていて、その手が止まっていた。
ノアは自分の足元を見た。
影の中に、いつも小さく揺れている光がない。
「ピリム?」
返事がなかった。
「ピリム、いないの?」
「いるわ。今日は光らないだけ」
「なんで?」
「今日は戸を開けないで」
母の声が硬かった。
言い切って、母は自分の口を押さえるみたいに手を膝に戻した。
「…ごめんね。今日だけよ。暗くなる前に帰ってきてくれる?」
「うん。天使、見たよ。ペガサスも。きれいだった、けど」
「そう。お昼は食べた?」
母は籠の布をめくって、パンを切って、ノアの手に持たせた。
テレーザのパンは、まだ少し温かかった。
戸が開いて、閉まる。
外の白い布が、坂の下まで続いていた。
夜になって、戸は開いていた。
窓の板も外れていて、潮の匂いが入ってくる。
足元の影の中に、小さな光が一つ、戻っていた。
何も言わない。
母が椀を並べた。
テレーザの豆だ。
ノアは匙を持って、口に入れる前に言った。
「天使って、遅いね」
母の手が止まった。
笑わなかった。
「そう見えた?」
「うん。歩くのも、答えるのも。翼を畳むのに十以上かかった。司祭さまが薬って言ったら、検討する、って。
去年も言ったって、アガタが」
「…そうね。遅いのよ、あの人たちは」
母は「あの人たち」と言ったところで、匙を置いた。
それから何も言わずに、ノアの椀に自分の分を少し寄せた。
「食べなさい」
ノアは食べた。
温かい。
遅い。
歩くのも、答えるのも、遅い。
でも、クレメンテのおじさんは、帳面が天へ上がると言った。
わたしの欄には、灯らず、と書いてある。
母さんが灯すなと言ったから、灯らず。
遅くても、あの人たちは帳面を持って帰る。
遅くても、いつかは。
ノアは膝の上で、手のひらを握った。
灯さない。
「ノア?」
「なんでもない」
母は、その晩ずっと笑わなかった。




