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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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施し

波止場の長屋は、朝から人が詰まっていた。

戸口から魚の煮汁の匂いが流れてきて、その奥に、汗の甘い匂いが混じっている。

ノアはラウロの肩越しに背伸びをした。

「見えない。ラウロ、もうちょっとどいて」

「おれだって見えねえよ。テオのやつ、まだ寝てんのか」

網元の孫のテオは、奥の寝床で布をかけられていた。

熱が出て十日になる。

坂の上まで、そう聞こえてきていた。

「ノアだ。ラウロも。中に入るなよ、うつるぞ」

網元が戸口を向いて言った。

声が低い。

網を引くときに怒鳴る声とは別の声だった。


人垣が割れて、男が一人入ってきた。

背は網元より少し低く、肩幅は広い。

腕に網の束を抱えて、手のひらは黒い糸の跡でざらついている。

「ヴィトさんだ」

ラウロが小声で言った。

「網の人?」

「網の人。うちの父ちゃんの舟も、あの人が繕ってる」

ヴィトは網元に会釈だけして、寝床の横に膝をついた。

布をめくる。

テオの顔が赤く、口が半分開いていた。

ヴィトはその額に手を当て、それから袖をまくって、細い腕を取った。

「動くな」

テオに言ったのか、周りに言ったのか、分からなかった。

ヴィトの手の中で、何かが小さく鳴った。

爪を弾いたような音だった。

ノアは首を伸ばした。

腕を握った手は、そのまま動かない。

長屋の中で、誰も喋らなかった。


テオが息を吐いた。

大きく吐いて、それから、ふつうの息になった。

「……水」

「水だ、水持ってこい」

網元の声がまた怒鳴る声に戻った。

女が椀を持って走り、テオは自分の手で受けて飲んだ。

額の赤みが引いている。

ノアには、それだけが見えた。

「奇跡だ」

誰かが言った。

「熱が。十日も下がらなかったのに」

「奇跡だよ、あれは」

囁きが、人垣の後ろまで広がっていく。

網元が懐から袋を出した。

「ヴィトさん、これは」

「いらん」

ヴィトは網の束を抱え直して立った。

「網の礼だ。それだけだ」

網元が袋を差し出したまま止まった。

ヴィトはそれを見ずに戸口を抜けて、ノアの横を通った。

糸と、潮と、それから知らない匂いがした。


「見た? ラウロ、見た?」

「見た。手ぇ握っただけだったぞ」

「かっこいい!」

ノアは自分の手のひらを見た。

ラウロが横から覗いて、笑った。

「お前が握っても熱は下がんねえよ」

「分かんないよ。やってみないと」



波止場裏は、昼でも日が差さない。

石の壁が湿っていて、歩くと足の裏が冷たい。

ノアはシレンの工房へ行くつもりで、途中の古道具屋の前で足を止めた。

店先に木箱が積まれて、小柄な男が中身を出している。

背はノアとそう変わらず、手が細くて、指の動きが早い。

「ノア」

後ろから、間延びした声がした。

イルウェンだった。

人間の七つくらいにしか見えない背丈で、手には買い物の籠を提げている。

「イルウェン、おつかい? 今日は迷わなかった?」

「……うん。迷った」

「どっち?」

「……うん」

ノアは聞くのをやめて、木箱を覗いた。


古い釘、欠けた皿、ほどけた綱。

その下に、白いものがあった。

貝の殻に見えた。

でも貝ではない。

継ぎ目があって、内側がつるりとしていて、卵を割ったあとの形に似ていた。

「これなに?」

手を伸ばすと、細い指が先に取った。

「あぁ、それはお客さんの預かりもんでおますな。触らんといてもらえますか」

小柄な男が、布でくるりと包んだ。

声が小さくて早い。

語尾が布の中に消えたみたいだった。

「預かりもの? 誰の?」

「船に乗せるもんですわ。うちは積むだけで、中身は聞かんことにしてます」

男は包みを箱の一番下に押し込んで、上に綱を載せた。

ノアはその手を見ていた。

綱を載せる手つきが、皿を置くときより丁寧だった。

「……変なの」

イルウェンが言った。

それだけ言って、籠を提げ直した。

「なにが?」

「……うん」

ノアはもう一度箱を見た。

綱しか見えなかった。



長屋の裏に回ると、テオが立っていた。

朝は寝ていた子が、干した網の間で棒を振っている。

日が当たって、網の影が縞になって地面に落ちていた。

「テオ、もう起きていいの?」

「じいちゃんがいいって言った」

テオは棒を振り上げた。

袖が肘まで落ちた。

二の腕の内側に、硬いものがあった。

白くて、皮膚の下で、貝の殻みたいに丸く張っている。

ノアの目がそこで止まった。

棒が下りて、袖が戻った。

テオは笑っている。

熱の引いた顔で、ふつうに笑っている。


「見舞いなら済んだ」

横で声がした。

ヴィトが網の束を抱えて立っていた。

朝と同じ束だ。

ノアはその顔を見上げた。

顎が、太い。

朝はもっと細かった気がする。

目の間も、少し広い。

「なんだ」

「……なんでもない」

「帰れ。それだけだ」

ヴィトは網元の戸口に入っていった。

背中の幅は、朝と同じに見えた。

ノアは自分の二の腕を、袖の上から握ってみた。

柔らかいだけだった。



坂の井戸に、夕方の風が上がってきていた。

桶を引く縄が濡れていて、手のひらに冷たい。

ブランが井戸の縁に腰かけて、水を飲んでいた。

酒の匂いは、まだしない。

「ブラン、聞いて。網のヴィトさんが、テオの熱を治したんだよ。手を握っただけで」

ブランは桶を置いた。

「うん。それで」

「お金、いらんって。奇跡だって、みんな言ってた」

「そうか」

「かっこよかった」

ノアは言い終わってから、ブランの顔を見た。

笑っていなかった。

いつもなら、子どものくせにと笑う。

今日は桶の水を見ている。


「ブラン?」

「代価を取らねえ施しほど高いもんはねえ」

ブランは水を捨てた。

「あいつらには近づくな」

「あいつら? ヴィトさんだけだよ」

「だけじゃねえ」

「なんで?」

「子どもの聞く話じゃねえ」

ブランは桶を井戸の縁にかけて、立ち上がった。

ノアの手を見た。

この前、剣の握り方を教えたときと同じ目だった。

それから何も言わずに、坂を下りていった。


ノアは井戸の縁に残った。

波止場のほうで、帆をたたむ音がしている。

「テオ、笑ってたのに」

自分の二の腕を、もう一度握った。

柔らかいままだった。

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