施し
波止場の長屋は、朝から人が詰まっていた。
戸口から魚の煮汁の匂いが流れてきて、その奥に、汗の甘い匂いが混じっている。
ノアはラウロの肩越しに背伸びをした。
「見えない。ラウロ、もうちょっとどいて」
「おれだって見えねえよ。テオのやつ、まだ寝てんのか」
網元の孫のテオは、奥の寝床で布をかけられていた。
熱が出て十日になる。
坂の上まで、そう聞こえてきていた。
「ノアだ。ラウロも。中に入るなよ、うつるぞ」
網元が戸口を向いて言った。
声が低い。
網を引くときに怒鳴る声とは別の声だった。
人垣が割れて、男が一人入ってきた。
背は網元より少し低く、肩幅は広い。
腕に網の束を抱えて、手のひらは黒い糸の跡でざらついている。
「ヴィトさんだ」
ラウロが小声で言った。
「網の人?」
「網の人。うちの父ちゃんの舟も、あの人が繕ってる」
ヴィトは網元に会釈だけして、寝床の横に膝をついた。
布をめくる。
テオの顔が赤く、口が半分開いていた。
ヴィトはその額に手を当て、それから袖をまくって、細い腕を取った。
「動くな」
テオに言ったのか、周りに言ったのか、分からなかった。
ヴィトの手の中で、何かが小さく鳴った。
爪を弾いたような音だった。
ノアは首を伸ばした。
腕を握った手は、そのまま動かない。
長屋の中で、誰も喋らなかった。
テオが息を吐いた。
大きく吐いて、それから、ふつうの息になった。
「……水」
「水だ、水持ってこい」
網元の声がまた怒鳴る声に戻った。
女が椀を持って走り、テオは自分の手で受けて飲んだ。
額の赤みが引いている。
ノアには、それだけが見えた。
「奇跡だ」
誰かが言った。
「熱が。十日も下がらなかったのに」
「奇跡だよ、あれは」
囁きが、人垣の後ろまで広がっていく。
網元が懐から袋を出した。
「ヴィトさん、これは」
「いらん」
ヴィトは網の束を抱え直して立った。
「網の礼だ。それだけだ」
網元が袋を差し出したまま止まった。
ヴィトはそれを見ずに戸口を抜けて、ノアの横を通った。
糸と、潮と、それから知らない匂いがした。
「見た? ラウロ、見た?」
「見た。手ぇ握っただけだったぞ」
「かっこいい!」
ノアは自分の手のひらを見た。
ラウロが横から覗いて、笑った。
「お前が握っても熱は下がんねえよ」
「分かんないよ。やってみないと」
波止場裏は、昼でも日が差さない。
石の壁が湿っていて、歩くと足の裏が冷たい。
ノアはシレンの工房へ行くつもりで、途中の古道具屋の前で足を止めた。
店先に木箱が積まれて、小柄な男が中身を出している。
背はノアとそう変わらず、手が細くて、指の動きが早い。
「ノア」
後ろから、間延びした声がした。
イルウェンだった。
人間の七つくらいにしか見えない背丈で、手には買い物の籠を提げている。
「イルウェン、おつかい? 今日は迷わなかった?」
「……うん。迷った」
「どっち?」
「……うん」
ノアは聞くのをやめて、木箱を覗いた。
古い釘、欠けた皿、ほどけた綱。
その下に、白いものがあった。
貝の殻に見えた。
でも貝ではない。
継ぎ目があって、内側がつるりとしていて、卵を割ったあとの形に似ていた。
「これなに?」
手を伸ばすと、細い指が先に取った。
「あぁ、それはお客さんの預かりもんでおますな。触らんといてもらえますか」
小柄な男が、布でくるりと包んだ。
声が小さくて早い。
語尾が布の中に消えたみたいだった。
「預かりもの? 誰の?」
「船に乗せるもんですわ。うちは積むだけで、中身は聞かんことにしてます」
男は包みを箱の一番下に押し込んで、上に綱を載せた。
ノアはその手を見ていた。
綱を載せる手つきが、皿を置くときより丁寧だった。
「……変なの」
イルウェンが言った。
それだけ言って、籠を提げ直した。
「なにが?」
「……うん」
ノアはもう一度箱を見た。
綱しか見えなかった。
長屋の裏に回ると、テオが立っていた。
朝は寝ていた子が、干した網の間で棒を振っている。
日が当たって、網の影が縞になって地面に落ちていた。
「テオ、もう起きていいの?」
「じいちゃんがいいって言った」
テオは棒を振り上げた。
袖が肘まで落ちた。
二の腕の内側に、硬いものがあった。
白くて、皮膚の下で、貝の殻みたいに丸く張っている。
ノアの目がそこで止まった。
棒が下りて、袖が戻った。
テオは笑っている。
熱の引いた顔で、ふつうに笑っている。
「見舞いなら済んだ」
横で声がした。
ヴィトが網の束を抱えて立っていた。
朝と同じ束だ。
ノアはその顔を見上げた。
顎が、太い。
朝はもっと細かった気がする。
目の間も、少し広い。
「なんだ」
「……なんでもない」
「帰れ。それだけだ」
ヴィトは網元の戸口に入っていった。
背中の幅は、朝と同じに見えた。
ノアは自分の二の腕を、袖の上から握ってみた。
柔らかいだけだった。
坂の井戸に、夕方の風が上がってきていた。
桶を引く縄が濡れていて、手のひらに冷たい。
ブランが井戸の縁に腰かけて、水を飲んでいた。
酒の匂いは、まだしない。
「ブラン、聞いて。網のヴィトさんが、テオの熱を治したんだよ。手を握っただけで」
ブランは桶を置いた。
「うん。それで」
「お金、いらんって。奇跡だって、みんな言ってた」
「そうか」
「かっこよかった」
ノアは言い終わってから、ブランの顔を見た。
笑っていなかった。
いつもなら、子どものくせにと笑う。
今日は桶の水を見ている。
「ブラン?」
「代価を取らねえ施しほど高いもんはねえ」
ブランは水を捨てた。
「あいつらには近づくな」
「あいつら? ヴィトさんだけだよ」
「だけじゃねえ」
「なんで?」
「子どもの聞く話じゃねえ」
ブランは桶を井戸の縁にかけて、立ち上がった。
ノアの手を見た。
この前、剣の握り方を教えたときと同じ目だった。
それから何も言わずに、坂を下りていった。
ノアは井戸の縁に残った。
波止場のほうで、帆をたたむ音がしている。
「テオ、笑ってたのに」
自分の二の腕を、もう一度握った。
柔らかいままだった。




