夜警の椅子
坂の長屋は、夜になると海の音が上がってくる。
七月の半ばで、戸を閉めても暑い。
ノアは布団の上で目を開けたまま、天井の梁を数えていた。
隣の部屋で母の寝息が続いている。
「…まだかな」
鎧戸に小石が当たった。
一つ、二つ。
ノアは起き上がって、音を立てないように鎧戸を押した。
下の路地にラウロが立っている。
月で顔が白い。
「遅い」
「うるさいって。うちの父ちゃんが寝るの待ってたんだよ。ほら、早く」
ラウロが手を振る。
ノアは窓枠に足を掛けて、そのまま外へ飛んだ。
土の上に音もなく降りる。
「…お前、そこ大人の背より高いぞ」
「すごいでしょ。行こう」
「おれは梯子で降りたのに」
ラウロはぶつぶつ言いながら、先に坂を駆け下りた。
二人で走ると、坂の下から潮の匂いが上がってきた。
波止場の裏通りは、昼より狭い。
樽が両側に積んであって、小便の匂いがする。
奥の壁に灯りが一つ。
その下に、大人が三人と、子どもが一人いた。
子どもと言っても、ノアより頭一つ高い。
細くて、袖を肩までまくっていて、片手の指の上で銅貨を転がしている。
落とさない。
「おい、ニーノ。ガキが見てるぞ」
大人の一人が顎で指した。
銅貨の子がこっちを向いた。
口の端だけで笑っている。
「坂のガキじゃねえか。こんな時間に何してんだ…ってわけで、帰れ」
「おれたち、港を見に来ただけだ」
ラウロが言った。
「港はあっちだ。ここは港じゃねえ」
ニーノが声を落とした。
「溝に落ちて泣いても、誰も拾わねえぞ」
「溝?」
「ここのことだよ。夜警がそう呼ぶ」
「夜警の坊やが言うと重いねえ」
大人がげらげら笑った。
銅貨が止まった。
ニーノは何も言わなかった。
指の上の銅貨を親指で弾いて、ノアのほうへ飛ばした。
「取れたら港。取れなかったら坂に帰れ」
ノアは手を出して、銅貨を掴んだ。
落ちる前に。
ニーノが舌を打った。
「…行け。二度と溝に入るな」
「ありがと」
ノアは銅貨を握ったまま、ラウロの袖を引いた。
裏通りを抜けるまで、後ろの笑い声が聞こえていた。
波止場は、魚と酒の匂いがする。
酒場の前の屋台に灯りが並んで、水夫が何人も座り込んでいた。
石畳がまだ昼の熱を持っている。
詰め所の前に椅子が一つ出ていて、女が一人、帽子を目まで下ろして座っていた。
腕を組んで、顎が胸に落ちている。
「寝てる」
ノアは指さした。
「夜警だろ。昼に見たおばさんだ」
「あの時も寝てた」
ラウロが笑った。
屋台のほうで、声が大きくなった。
水夫の一人が立ち上がって、屋台の男の胸を突いている。
勘定がどうとか、いくら払ったとか。
屋台の男が皿を置いた。
水夫の手が腰に行った。
刃物が出た。
ノアが息を吸った。
その時にはもう、女が水夫の後ろにいた。
椅子が倒れる音のほうが遅かった。
女の手が水夫の手首を取って、膝が裏から入って、刃物が石畳に落ちた。
「置け。座れ。動くな」
それだけ。
水夫は座った。
女は刃物を靴で屋台の下へ蹴り込んで、屋台の男に顔だけ向けた。
「水」
屋台の男が水を持ってきた。
女は水夫の頭にかけた。
「かっこいい…!」
ノアは小さく言った。
「見た? ラウロ、見た? 立つより先にいた」
「見たけど、声でかい」
女が振り向かないまま言った。
「そこの二人。来い」
「…逃げる?」
ラウロが囁いた。
女はもうこっちへ歩いてきていた。
ノアの襟と、ラウロの襟が、同時に掴まれた。
詰め所は、油の匂いがする。
板の椅子が二つ。
ランプが一つ。
女は倒れた椅子を起こして、また腰を下ろした。
帽子を目まで下ろす。
「坂の上の長屋だべ。テレーザんとこの」
「そう。ノア。こっちはラウロ」
「聞いてねえ」
女は詰め所の奥に声を投げた。
「坂の上に一人やれ。テレーザの家」
若い男が出ていった。
それきり女は動かない。
寝ているように見える。
ノアはさっきの手首の取り方を、自分の手で真似してみた。
ラウロが横で欠伸をした。
戸が開いた。
フランカだった。
髪を後ろでまとめていて、荷運びの前掛けを着けたままで、縄と魚の匂いがする。
「こら!ノア。あんたが窓から出るのは知ってたけどさぁ、ラウロまで連れ出すんじゃないよ」
笑いながら言う。
目は笑っていない。
「テレーザさん、明日には窓に釘を打つって言ってたよ。ラウロ、あんたのとこにも言いに行くからね」
「おれが誘ったんだ」
ラウロが先に言った。
「わたしが待ってた」
ノアも言った。
「両方叱るさね。どっちが先かは聞いてない」
フランカは二人の頭を一つずつ叩いた。
軽く。
「姉さん、あの人すごく速かった。寝てたのに」
ノアは椅子の女を指した。
「寝てた」
女が帽子の下から言った。
「寝てて動けるかい」
フランカが呆れた。
女は返さなかった。
少し間があって、帽子のつばが動いた。
「…溝のほう、行ったべ」
「うん。ニーノって呼ばれてた人がいた。銅貨を投げて、取れたら港だって」
ノアは握っていた銅貨を出した。
女の手が帽子のつばで止まった。
「…あいつは、あたしが…」
そこで切れた。
女は帽子を目まで戻した。
「帰れ。次に溝で見たら、この椅子に縛る」
フランカが女を見た。
何も言わなかった。
ノアとラウロの背中を押して、戸の外に出した。
坂は、登ると海の音が遠くなる。
フランカが二人の前を、灯りも持たずに歩いていく。
ラウロが小さい声で言った。
「また来る?」
「うん。今度は溝じゃなくて、椅子の前で見る」
「寝てるとこを?」
「寝てないよ、あれ」
ノアは銅貨を握り直した。
前でフランカが、聞こえているというふうに肩を揺らした。




