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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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14/82

坂から波止場まで

坂の上の長屋は、朝から潮の匂いがする。

ノアは戸口の敷居に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。

「休み。今日はぜんぶ休み」

言ってから、坂の下を見る。

屋根が段になって降りていって、いちばん下に海がある。

「…端から端まで、行けるかな」


「ノアー!」

坂を駆け上がってくる声がした。

ラウロだ。

息を切らして、敷居の前で止まる。

「なにしてんだよ。暇なら来い、ピエトロたちが波止場で…」

「行かない。今日は町を端から端まで歩くんだ」

「端って、どこ」

「上はここ。下は波止場」

ラウロが後ろを振り返って、坂の下を見た。

「それ、いつも通ってるとこじゃん」

「通ってるだけ。歩いてない」

「…わかんねえけど、行く」

ラウロは考えるより先に、決める。


足元の影が、ちらりと揺れた。

「端から端、ですか。それは報告の対象ですねえ」

ピリムだ。

ノアは影に向かって小さく言う。

「うるさい。ついてくるなら黙ってて」

「黙るのは僕の仕事のうちですよ。欄が埋まりませんけど」

光が速く揺れて、それきり静かになった。

ラウロには聞こえていない。

いつものことだ。


坂の途中から、ゆっくり登ってくる小さい影があった。

イルウェンだ。

見た目は六つくらいなのに、ノアより五つ上だ。

敷居の前まで来ると、何も言わずにノアの隣に座った。

「イルウェン、今日、町を端から端まで歩くよ。来る?」

「……うん」

イルウェンが、ノアの背中を見る。

「……途中から、背負って」

「途中って、どこから」

「……疲れたら」

ラウロが吹き出した。

「いま座ってんのに、もう疲れてるだろ」

イルウェンは返事をしなかった。

返事をしないのも、たぶん面倒なんだと思う。

ノアは立ち上がって、坂の下を指さした。

「行こう。まず聖堂」



聖堂の前は、石畳が濡れていた。

朝の打ち水の匂いがする。

入口の段で、箒を持った子が背中を丸めていた。

アガタだ。

手習いで、ノアの隣に座っている子。

箒はアガタの背より長くて、持ち手が肩より上に出ている。

ノアが近づくと、箒の動きが止まった。

「あの、ええと……おはよう、ノア」

「おはよう。掃除?」

「うん。父さまが、朝のうちに、って」

アガタは目を伏せて、それからノアの手のひらをちらりと見た。

すぐ箒に目を戻す。

ノアは気づかないふりをした。


「今日、町を端から端まで歩くんだ。アガタも来る?」

「わ、わたしは……掃除が、まだ半分で」

アガタは石畳を見た。

半分どころか、まだ入口の段しか掃いていない。

「そっか。じゃあ帰りに、どこまで行ったか教えるね」

「うん。……気をつけて、ね」

言い切るときだけ、声が少しはっきりした。


聖堂の脇に、施療院の戸が開いていた。

中から、草を煮たような匂いが流れてくる。

ラウロが鼻をつまんだ。

「くせえ」

「薬だよ。病気の人がいる」

「知ってるよ。くせえって言っただけ」

戸の奥で、誰かが咳をした。

イルウェンがノアの袖を引く。

「……疲れた」

「まだ聖堂だよ!」

「……うん」

ノアはしゃがんで、背中を向けた。

イルウェンが乗る。

軽い。

米の袋より軽い。



網元の屋敷は、坂の途中で道が広がったところにある。

瓦の塀が長くて、門の中から男の声がいくつも聞こえた。

「寄合だ」

ラウロが小声で言った。

「今日、漁場を決める日なんだ。父ちゃんが言ってた」

塀の脇に、雨水を溜める桶が置いてあった。

ラウロが桶の縁に足をかけて、格子窓に手を伸ばす。

ノアはイルウェンを背負ったまま、塀の出っ張りに足をかけて登った。

背中でイルウェンが「……揺れる」と言った。


窓の中は、板の間に男たちが二列に座っていた。

みんな日に焼けて、腕が太い。

いちばん奥に、白い髭の老人が座っていた。

肩幅が広くて、座っているだけで他の男より大きく見える。

膝に小さな女の子を乗せている。

女の子は、老人の髭を引っ張って遊んでいた。

「北の瀬は、カルロの家じゃ」

老人が言った。

声は低くて、短い。

「去年はうちが入れた。今年はカルロ。来年はマッテオ。順は変えん」

座の真ん中で、若い男が膝を立てた。

「網元。北の瀬は今年、魚が寄ってる。うちに回してもらえりゃ…」

「魚が寄る年に決まりを曲げたら、決まりでなくなる」

老人は若い男を見ない。

「わしの家も同じに割る。文句があるなら、寄合の後で来い」

若い男が座り直した。

座が静かになった。


膝の女の子が、髭を引っ張って何か言った。

老人の顔が、途端にくしゃりと崩れた。

「ベリタ、痛い痛い。じいじの髭は網ではないぞ」

声がとろけている。

さっきの声と同じ人とは思えない。

ノアは笑いそうになって、口を押さえた。

その拍子に、塀の上で足が滑った。

石が鳴った。

老人の目が、窓へ向いた。

「そこの、窓の子ら」

ラウロが桶から飛び降りた。

ノアも飛び降りる。

イルウェンが背中で「……落ちる」と言った。

「見世物ではないぞ!」

塀の中から声が飛んできた。

怒鳴っているのに、語尾が笑っている。

三人で坂を駆け下りた。

息が切れてから、ノアは言った。

「あの人、かっこいい」

「網元だぞ。町でいちばんえらい人」

「えらいのに、髭を引っ張られてた」

「孫だからだろ」



波止場は、風が強い。

潮の匂いに、魚の匂いが混じっている。

船が一艘ついていて、荷が板の上に並んでいた。

波止場の裏に、小さな小屋がある。

小屋の前で、太った男が紙を読んでいた。

体が公服の中に押し込められていて、ボタンが今にも飛びそうだ。

ずっと読んでいる。

前に立った商人が、足を組み替えた。

ノアは小屋の前に立って、男の顔を見上げた。

「なに読んでるの?」

男は顔を上げなかった。

「血統証明である。海の向こうから来た荷は、持ち主の血筋が確かでなければ通せない」

「血筋って、何が書いてあるの。読むの長いね」

「父と母と、その父と母の名。それから灯りの色である。一字違えば別人に相違ない。だから長い」

男はやっと紙から目を上げて、商人に返した。

「通れ」

商人が荷を担いで行った。


ラウロが船を指さした。

「あの船、どこの?」

男の顔が、ふっと動いた。

「あれはトリノ港の船である。

船主はアルドゥイーノ家の次男、妻はガエタの網元の娘、子は三人、いや去年一人増えて四人。

上の子はサンドロ、その下が…」

早口になった。

さっきまでの声とぜんぜん違う。

ラウロが目を丸くした。

「なんで知ってんの」

「証明に書いてある」

「子どもの名前も?」

「聞いた。世間話である」

男はそう言って、また次の紙に目を落とした。

顔がもとの顔に戻る。

紙を読んでいるときと船の話をしているときで、別の人みたいだった。


荷の脇に、女が一人立っていた。

黒い上着に、帳面を抱えている。

背が高くて、髪を後ろで硬く縛っていた。

「十二。十三。十四」

木箱を指で一つずつ差しながら、数えている。

「検数人だ」

ラウロが囁いた。

「荷を数える人。組合の」

女の指が止まった。

顔が上がる。

ラウロを見た。

それからノアの背中のイルウェンを見た。

最後にノアを見た。

目が、ノアのところで一拍長く止まった。

瞳の色が薄い。

何も言わない。

ノアは首の後ろが冷たくなった。

足元の影が、揺れていない。

ピリムがいるはずの影が、じっと止まっている。

「数が合わない」

女が言った。

ノアに言ったのか、荷に言ったのか分からなかった。

女は帳面に目を落として、また数え始めた。

「十四。十五」

「…行こう」

ノアが言うと、ラウロが「なんだあの人」と言った。

ノアは答えなかった。

影が、また少し揺れた。

「……いまの人、欄が埋まりませんねえ」

ピリムの声が小さい。

それだけ言って、黙った。



夜警の詰め所は、波止場の端の板小屋だ。

戸が開けっ放しで、中に椅子が一つある。

椅子に女が座っていた。

帽子を顔に載せて、足を前に投げ出している。

胸が上下しているから、寝ている。

腰に、鞘の擦れた短い剣。

「コスタンツァだ」

ラウロが囁いた。

「夜警の。昼はいっつも寝てる」

「夜の仕事だから」

「だからってさ」

ラウロがにやりとした。

足元の小石を拾う。

「帽子、落とせるかな」

「やめなよ」

「ちょっとだけ」

ラウロが忍び足で椅子に近づく。

石を持った手を伸ばす。

帽子まで、あと指一本。


女の手が動いた。

帽子は動いていない。

目も開いていない。

ラウロの手首だけが、女の手に掴まれていた。

「…あ」

ラウロの声が裏返った。

「ガキが」

帽子の下から、気だるい声が出た。

「刃物じゃなくてよかったべ」

「ご、ごめん」

「石、落とせ」

石が板の床に落ちた。

女の手が離れた。

帽子はまだ顔に載ったままだ。

「行け。日が落ちる前に坂へ戻れ」

それだけ言って、また胸が上下し始めた。

三人で小屋を出た。

ラウロが手首をさすっている。

「寝てなかったの?」

ノアが小屋の中に聞くと、帽子の下から返事があった。

「寝てた」

ラウロが「うそだ」と言った。

イルウェンが背中で「……かっこいい」と言った。

ノアは振り返った。

「イルウェン、いま、かっこいいって言った」

「……言ってない」



波止場の酒場は、夕方になると戸が開く。

店先に、女が干し魚を吊るしていた。

耳の先が尖っていて、瞳が細い。

髪は灰色で、腕に魚の鱗がついている。

「ドーラのおばさん」

ラウロが言った。

「ブランが毎晩来るとこ」

女が振り返った。

「なんだい、坂の子が三人。いや、二人と半分か」

イルウェンをちらりと見て、喉を鳴らして笑った。

「ノアだよ。今日、町を端から端まで歩いた」

「端から端まで。それでどこだい、端は」

「上は坂の上の長屋。下はここ」

「ここが端かい。そりゃあ光栄だね」

女は干し魚を三枚外して、一枚ずつ渡した。

「食べな。歩いたんだろ」

魚は硬くて、塩の匂いがした。

ラウロがすぐかじる。

イルウェンは背中で受け取って、かじらずに握っていた。


「で。端から端まで歩いて、なにかあったかい」

「いろんな人がいた。網元と、役人と、数える人と、夜警と、ドーラのおばさん」

「アガタも」

ラウロが足した。

「六人だ」

女がまた喉を鳴らした。

「いるだけさ。あたしがここに来て何十年たっても、同じとこに同じ人がいる」

干し魚をもう一枚、紐に吊るす。

「世の中は変わらないよ」

「変わらないの?」

「変わらないね。あんたが大人になっても、あたしはここで魚を吊るしてる」

言い方が投げやりで、怒ってはいなかった。

ノアは干し魚をかじった。

硬い。

噛んでいると、じわっと塩が出てくる。

「おいしい」

「そうかい。じゃあ帰りな。コスタンツァに言われたろ、日が落ちる前に」

「なんで知ってるの」

「あいつ、毎日同じこと言うのさ」



坂は登りになると長い。

日が海に沈みかけて、屋根の影が段になって伸びていた。

イルウェンは背中で寝ている。

握った干し魚だけ、落とさずにいる。

ラウロが前を歩いて、指を折っていた。

「アガタ。網元。役人。数える人。夜警。ドーラ」

「六人」

「ぜんぶ知ってる人だと思ってたけどさ」

ラウロが振り返る。

「役人の早口、初めて聞いた」

「網元の髭も」

「夜警の手も」

ラウロが手首をさすった。

まだ痕がついている。


ノアは、数える人のことを言わなかった。

言うと、また首の後ろが冷たくなりそうだった。

影を見る。

夕日で長く伸びた影の中で、光が小さく揺れている。

ちゃんと、ついてきている。

「ピリム」

「はい」

「なんでもない」

「なんでもない、は報告できませんねえ」

光が速く揺れた。

笑っている。

ノアは坂を登った。

背中のイルウェンは軽くて、口の中には、まだ塩が残っていた。

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