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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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港の船

十月の波止場は風が冷たい。


帆柱が三本ある船が桟橋に横づけになって、舫い綱が軋んでいた。

坂の子はぜんぶ来ている。

ピエトロが一番前で、ラウロがノアの袖を引いた。


「ノア、あれ。樽の上」


樽の上に女の人が立っていた。

背が高くて、肩が広い。

腕に銅の輪を三つ嵌めて、笑うと歯が全部見える。

声が波止場の端まで届いた。


「ヴァレンツァ! 半年ぶりね! あたしの船は沈まなかったよ!」


水夫たちが笑って、荷を下ろし始めた。

女の人は足元の袋を破って、中身を掴んで投げた。

干した実が飛んできた。

ノアは片手で取った。


「嬢ちゃん、いい手ね」

「これ、なに?」

「ザハラの棗ね。砂の大陸の砂の中に木が生えて、実だけ甘いの」


ピエトロが横から腕を出した。


「おれにもよこせよ! おれが一番前だろうがよ!」

「坊やは声が大きい。大きい声には小さい実ね」


小さいのが一つ飛んで、ピエトロの額に当たった。

みんなが笑った。

ピエトロは笑った顔を順に睨んでから、樽の上を見上げた。


「船長! 噂は? 噂も持ってきたんじゃねえの!」

「今年は三つね。一つ、砂の大陸の南で竜が舟を焼いた。

二つ、草原の連合が馬をハザール、千頭、聖王国に売った。三つ」


女の人はそこで袋をもう一つ破った。

色のついた布が飛んで、坂の子が伸び上がった。


「三つは、買った人にだけ話す」

「ずるいだろがよ!」


ピエトロが急に声を変えた。

低くて、太い。

網元の声だ。


「おい、荷を早く下ろせ! 日が暮れるぞ!」


水夫が二人、振り向いて背を伸ばした。

それから顔を見合わせて、ピエトロを見た。

女の人が樽の上で腹を抱えた。


「坊や、その声、船に乗せてもいいね」

「乗せろよ!」

「今日はだめ。船に乗るのは水夫だけ」


ノアは棗を噛んだ。

甘くて、砂の味がした。



船縁は思ったより高かった。


ノアは桟橋の舫い綱を掴んで、そのまま上がった。

誰も止めなかった。

甲板は樽と袋でいっぱいで、水夫が行き来している。

帆柱の縄ばしごが目の前にあった。


「登っていい?」


聞いたときにはもう三段目にいた。

縄が手に食い込む。

海が下がっていく。

屋根が下がって、坂が見えて、樫の木が見えた。

一番上の輪に足を掛けたところで、下から怒鳴られた。


「降りろ! 誰の子だ!」

「嬢ちゃん、そこは見張りの席ね。降りな。落ちても拾わないよ」


船長の声のほうが大きかった。

ノアは縄を両手で掴んで、足を離した。

滑る。

掌が熱い。

甲板に着いたとき、船長が指を四本立てていた。


「四つ数えなかったね」

「なにが?」

「上から下まで。うちの水夫は八つ数える」


船長は腰から小さい帳面を出して、何か書いた。


「なに書いたの?」

「白い髪、帆柱、四つ。あとで使うかもしれないから書いておくね」


帳面を戻して、樽の上に紙を広げた。

縁が塩で白くなっている。

線と点と、字がいっぱいある。


「海図ね。ここがヴァレンツァ」


指の先に、小さい点があった。


「小さい」

「小さいね。ここがパルサ、あたしの港。あいだは全部海」


指が紙の上を長く動いた。

ノアは指の先を追った。


「ここは?」

「砂の大陸、ザハラ。竜が舟を焼いたのはこの下ね。ここが草原、セイラン。馬はここから来る」

「ここ。線がある」

「山ね。山の向こうは、あたしも行ったことがない」

「なんで?」

「船が入る川が無い。歩いて行った奴の話は聞かないね。帰ってきた奴の話も」


ノアは山の線に指を置いた。

ざらざらしている。


「かっこいい!」

「海図が?」

「ぜんぶ」


船長が笑って、紙を巻いた。


「行っていい?」

「十四になったら水夫に雇うね。それまでは、落ちても拾わない」



波止場の突端は魚の匂いがする。


バルドが網を繕っていた。

針が通るたびに、糸が鳴る。

ラウロが先に座った。


「爺さん、あの船長、知ってる?」

「ナッシールの娘じゃろ。娘は知らん。親父のほうを知っとる」


針が一度止まって、また動いた。


「あやつの親父とは、南の海で並んで走ったわい。ザハラの岬を回って、パルサの前の海までじゃ。

あの船は、わしらより帆が一枚多くてな。先に港に着いて、こっちが着くころには荷を売り終わっとった」

「岬って、どこ?」


ノアが聞いた。

バルドは網から手を離さずに、顎で海を指した。


「砂の大陸の南の端じゃ。岬の向こうに潮が二つあってな、片方に乗ると草原の港へ流される。

ハーンの港というてな、馬の匂いがする港じゃ」

「ハーン」

「その先が山じゃ。山の向こうはわしも知らん。船長の親父も知らんかったわい」


ノアは指を折った。

パルサ、ザハラ、岬、ハーン、山。

今日だけで五つ増えた。


「それで、親父はどうなったんだよ」


ラウロが聞いた。

バルドが黙った。

針を三度通して、糸を引いて、まだ黙っている。

ノアは膝を抱えた。


「帰ってこんかった」


糸が鳴った。


「娘が十八のときじゃ。船だけが帰ってきて、あやつが継いだ」

「なんで帰ってこなかったの?」

「海に聞け」


バルドは網を裏に返した。

それきり親父の話は出なかった。

ラウロが立って、ノアの背中を叩いた。


「行こうぜ。日が落ちる」



坂の井戸は夕方だった。


ブランが桶を上げていた。

酒の匂いがする。

ノアは井戸の縁に手を掛けた。


「ブラン、わたし、冒険者になりたい」

「おれも」


ブランは桶を置いた。


「やめとけ」

「なんで?」

「登録は十四からだ。あと五年、鼠でも追ってろ」

「おれは七年」


ラウロが言った。


「なら七年追え」

「船長は十四で雇うって言ったよ」

「じゃあ船に乗れ。俺は知らねえ」


ブランは桶を持ち上げかけて、止めた。

ラウロが井戸の縁に肘を乗せている。


「剣、どうやって持つの」

「教えねえ」

「持つだけ」

「持つだけって……」


ブランは桶を下ろした。

井戸端に立て掛けてあった棒を拾って、土を払った。


「一度だけだ。二度は聞くな」


棒を両手で持った。

握った手を、ノアとラウロの目の前に出す。


「小指と薬指で締める。親指と人差し指は添えるだけだ。ぎゅっと握るな。握ると振れねえ」


棒がラウロに渡った。

ラウロが握る。

ブランが上から手を被せて、指を一本ずつ直した。


「親指、力入れすぎだ。……そう。そのままだ」

「おれ、できてる?」

「できてねえ。だが今日はそれでいい」


棒がノアに来た。

ノアは言われた通りに小指から締めた。

ブランが手を被せた。

被せたまま、動かなくなった。

ノアの手を見ている。


「なに?」

「……いや」


ブランは手を離した。

棒を取り上げて、井戸端に戻す。


「終わりだ。桶が冷える」


桶を提げて、坂を下りていった。

ラウロが棒をもう一度取って、握った。


「五年って、長い?」

「わかんない」


ノアは自分の手を見た。

小指と薬指に、まだ棒の形が残っていた。


「鼠、何匹だろ」

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