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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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波止場裏の工房

シレンの工房は、昼でも暗い。

戸をくぐると、焦げた油の匂いが鼻に来た。

天井から吊った鎖や輪をよけて、ノアは奥へ進んだ。

床に座っていたイルウェンが顔を上げる。

背はノアの胸までしかなく、耳の先がとがって、髪は白っぽくてまっすぐだ。

この前のおつかいのときと同じ、袖の長い上着を着ている。


「来たよ。借り、返してくれるんでしょ」

イルウェンは一拍おいてうなずいた。

「……うん」

そう言って、足元の木箱をごそごそ探る。

出てきたのは、手のひらに収まるくらいの銅の筒だった。

真ん中に緑の石がはまっている。

「これ」

「なに? 何するの?」

「……光る。あと、風」

「見せて!」

「見せてる」

「使ってよ」

「……面倒」

イルウェンは筒を持った手を、ひざの上に下ろしてしまった。


奥の作業台から、欠伸の音がした。

シレンが顔だけこちらに向けている。

背が高くて細く、髪をうしろで適当に結んで、目は半分しか開いていない。

台の上には、折れた杖が二本、並べて置いてある。

「ここで使わないでよぉ。この前、棚が一つ倒れたでしょ、たぶん…」

最後まで言わずに、また台のほうへ向き直った。

「触っていい?」

「……うん」

イルウェンが筒を差し出した。

受け取ると、見た目より重くて、冷たい。

ノアは振ってみて、緑の石を指でこすって、筒の口をのぞいた。

何も起きない。

「動かないよ」

「……そう」

イルウェンは筒を取り返して、木箱に戻した。

「かっこいいのに」

「……うん」

それで借りは返したという顔をしている。


シレンが、布でくるんだ包みを持って寄ってきた。

「ついでに届け物、頼んでいいかなぁ。ジロくんのところ。歯車が三つ…」

語尾が飲み込まれて消えた。

「いいよ! どこ?」

「……波止場の裏。ついてく」

イルウェンが、ゆっくり立ち上がった。



波止場裏の路地は、魚の匂いがした。

石の間に水が溜まっていて、イルウェンは一つずつまたいで歩く。

ノアは先に行っては戻り、また先に行った。

四軒目の小屋の戸が開いていて、中から金物を叩く音が出ている。


「ここ」

イルウェンが言うより先に、中から声が飛んできた。

「おう、シレンちゃんとこの子だべ? ちょうど待ってたんだわ、それ無いと水車の羽根が回らねぇんだわ」

出てきたのは、犬みたいな耳と尾のある獣人だった。

手が油で黒くて、腰に道具の帯を巻いている。

耳がぴんと立って、しゃべりながら尾が揺れた。

包みを渡すと、その場でほどいて歯車を光にかざし、うなずいた。

「うん、いい。シレンちゃんは仕事は早ぇんだ、仕事は」


ノアは小屋の中をのぞいた。

壁に立てかけた水車の羽根が、ノアの背より高い。

天井から滑車がいくつも吊ってあって、縄が床まで垂れている。

「かっこいい! 全部、直すの?」

「頼まれりゃ何でも直しちまうわ。鍵も、滑車も、船の舵も。おかげで金は貯まらねぇんだけども」

ジロが笑うと、犬の歯が見えた。


作業台の端に、見たことのない物があった。

革の帯がついた、金物の継ぎ目だ。

腕くらいの太さで、片側がぱかっと開いている。

「これ、なに?」

ノアは手を伸ばした。

ジロの手が先に来て、布を一枚かぶせた。

何も言わない。

それまで揺れていた尾が、止まっている。

ノアはかぶせられた布と、ジロの手を見た。

「ほれ、これやる」

ジロは急に明るい声を出して、干した杏を二つ、ノアの手に押しつけた。

「イルちゃんの分もな」


隣の小屋から、どん、と壁が鳴った。

「そりゃ無しだ! 折れてから持ってくるやつがあるか!」

ノアはびくっとして壁を見た。

「なに、あれ」

「ザッコちゃんだべ。声だけはあの調子だわ。近寄らねぇほうがいい、怒鳴られちまうわ」

ジロは歯車を一つ手に取って、もう水車のほうへ向いていた。

イルウェンは戸口の木箱に腰かけて、杏を一つかじっている。

「……待ってる」

「すぐ戻るよ」

ノアは路地に出た。



ザッコの作業場は、戸が半分開いていた。

中からにかわの匂いがする。

ノアは戸の陰から、そっと中をのぞいた。


台の上に、白いものが広げてある。

細い白い骨が、扇みたいに何本も並んで、先のほうで二本が折れて垂れている。

その前に、小さな男が立っていた。

背はノアより頭一つ高いだけで、肩幅も狭い。

それなのに、さっきの声はこの人から出ていた。

男は骨を一本、指でつまんで持ち上げ、目の高さで角度を見て、また下ろした。

その手つきだけは、さっきの声と別の人みたいにゆっくりだ。


ノアの目が、白い骨から動かなくなった。

知っている。

うちの押し入れの奥、いちばん下の包み。

去年、布がずれたときに、あの白いのが見えた。

同じ形だ。

ノアは戸を押して、一歩、中に入っていた。


「誰だ!」

男が振り向いた。

声が小屋じゅうに響いて、ノアの耳がじんとした。

「子どもが入るとこじゃねぇ、出てきな!」

「それ、なに?」

「聞くな。見るな。出てけ」

「飛ぶの?」

「飛ぶわけあるか、折れてんだろうが!」

男は骨組みを、卵でも置くみたいにそっと台に戻した。

それから大股で来て、ノアの背中を手のひらで押した。

「ここは店じゃねぇ。見るだけでも、そりゃ無しだ」

戸が閉まる。

鼻先で、かんぬきの落ちる音がした。


ノアは路地に立ったまま、戸を見た。

中から、こつ、こつ、と小さな音が聞こえてくる。

骨を一本ずつ、はめている音だ。

「……押し入れと、同じ」

口に出してから、周りに誰もいないのを確かめた。



坂の帰り道は、日が傾いていた。

石畳がまだ温かい。

イルウェンは歩くのが遅くて、ノアは三歩行っては立ち止まった。


「ねえ、イルウェン。あれ、何」

イルウェンは一拍おいた。

「……翼。高い」

「高いって、お金?」

「……うん」

「誰の?」

「……知らない」

イルウェンは杏の種を、道の脇に捨てた。

「イルウェンも飛べる?」

「……面倒」

「面倒って、飛ぶのが?」

「……うん」

ノアは笑ったけれど、白い骨が扇みたいに広がった形が、まだ目の奥にある。


坂の上で、イルウェンと別れた。

家の戸を開けると、母が鍋の前にいた。

「おかえり。遅かったのね」

「波止場の裏、行ってた。届け物」

母は振り向いて、ノアの髪を見た。

今日は砂はついていない。

「母さま、あのさ」

ノアは押し入れのほうを見た。

「押し入れの、いちばん下の――」

母の手が止まった。

ほんの少しだけだ。

「なに?」

「……なんでもない。おなかすいた」

「すぐできるわ。手を洗ってきて」

ノアは水がめのほうへ行った。

背中で、母が鍋をかき回す音がまた始まった。


手を洗いながら、ノアは押し入れの戸を見た。

閉まっている。

去年、布がずれたのは、一度だけだ。

「……高いんだ、あれ」

小さく言って、ノアは手を拭いた。

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