ヴァレンツァの朝
鐘が六つ鳴るまでに家を出ないと、学校には間に合わない。
ノアは寝床から転がり出て、土間で足を止めた。
息が白い。
冬の朝の石は、裸足で立っていられる時間が決まっている。
借りている家は坂の中ほどにある。
部屋がふたつと土間がひとつ。
天井が低くて、母は梁の下を通るとき少しかがむ。
窓は海のほうに開いていて、朝はそこから先に明るくなる。
母はもう起きていた。
水瓶はいっぱいになっているし、竈には火が入っている。
ノアが起きるより前に、この人はいつも起きている。
「母さま、上着どこ!無いよ!」
「押し入れの上の段よ。冬のものは奥にしまったでしょう」
押し入れの上の段には、六つの背では手が届かない。
ノアは台を引きずってきて、その上に立って、さらに爪先で伸びた。
冬のものは奥に押し込んである。
麻の袋をつかんで引くと、袋の後ろにあった大きな包みが、一緒に手前へずれてきた。
布でくるんである。
紐は掛かっていない。
ずれた拍子に布の端がほどけて、中のものが少しだけ外に出た。
白かった。
鳥の翼の、骨のところに似ていた。
継ぎ目に金具がついていて、その金具だけが黒く曇っている。
指で押してみると、羽のようにへこまなかった。
固かった。
「母さま、これなに?」
台所から足音が来た。
朝の母にしては速かった。
ミレアはノアの手から包みを取って、布を巻き直した。
奥へ戻して、前に麻の袋を二つ積んだ。
「触らないで。それは、しまっておくものなの」
「なにか入ってるの?見たい」
「だめよ」
ノアは台の上に立ったまま、母を見下ろした。
母を見下ろせるのは、この台の上にいるあいだだけだ。
「鳥のつばさみたいだった。母さまの?」
「……昔の、お仕事の道具よ」
「どんなお仕事?遠くへ行くの?飛ぶの?」
ミレアは押し入れの戸を閉めた。
「上着はこっちよ」
出てきた上着は、隣の家のおばさんがくれたものだった。
厚い毛織りで、肘に継ぎ当てがあって、袖が手の先より長い。
ミレアはノアに着せて、袖を二度折り返した。
折り返したところを糸で留める。
針の動きが速い。
「母さま、これ大きいよ。手が出ない」
「二年は着られるの。今年は、折ったぶんで大丈夫」
天井の隅で、光がひとつ揺れた。
「押し入れ、面白いものが入っていましたねえ」
「ピリムは見たの?」
「僕は見ていません。きみが見たんです」
「ずるい」
ピリムは笑って、戸口のほうへ流れていった。
笑うと光が速く揺れる。
ノアはそれで、ピリムが笑っているかどうか分かる。
ミレアがノアの襟を直した。
それから、小銭を三枚、上着の内側の袋に押し込んだ。
「帰りに市場で、イワシを四匹とお豆ね」
「五匹買ったら?」
「四匹よ」
外でひとつ目の鐘が鳴った。
「六つ目で門が閉まるわよ」
「まだ三つある!」
「二つよ。ほら、走りなさい」
ノアは戸を開けて、外の冷たいのを全部吸い込んでから走り出した。
ヴァレンツァは坂の町だ。
港から上へ、石畳が段になって続いている。
一段の高さは大人の膝くらいある。
ノアはそれを一段ずつ降りない。
三段おきに飛んで、途中で一度だけ手すりの石を蹴って、最後のひと続きは一度で降りる。
着いた音は、袋を置いたくらいしかしない。
朝の坂は忙しい。
上から水桶、下から魚。
網を担いだ男が壁に寄って道を空ける。
パン屋の戸が開いていて、そこだけ空気が温かい。
鴎が屋根の上を歩いていて、人が来ても飛ばない。
この町の鴎は人を見慣れている。
坂の下の端に港がある。
帆柱が四本立っていて、そのうち一本は他所の船だ。
他所の船は帆の色が違うので、遠くからでも分かる。
船が入った日は市場に見ない魚が出るし、見ない言葉も出る。
坂の途中の広場に井戸がある。
その井戸のふちに、男が座っていた。
頭から水をかぶっている。
冬なのに。
頭の上についた耳が、濡れて寝ていた。
獣人だ。
「おじさん、寒くないの?なんで水かぶってるの?」
「寒いに決まってんだろ。頭ん中がまだ昨日なんだよ」
男はもう一杯くんで、今度は首の後ろにかけた。
ノアは桶の水が跳ねる範囲の外に立って、それを見ていた。
「昨日なにしたの?」
「仕事だ。港の倉庫で、鼠退治」
「鼠?」
「鼠っつっても、犬くらいある」
男は手で大きさを作った。
ノアの胸くらいまであった。
「船から降りてくるんだよ。荷を食う。穀物の袋を破られたら商家が泣くからな、そこで俺たちが呼ばれる」
「かっこいい!」
「かっこよかねえよ」
男は袖をまくった。
肘の下に布が巻いてある。
布のふちに血がにじんで、乾いて茶色くなっていた。
「噛まれた。痛えのなんのって」
男は腰の帯から札を外して、指で回した。
銅の札だった。
数字がひとつ彫ってある。
ノアは背伸びして覗き込んだ。
「それなに?三って書いてある」
「等級だ。冒険者の。銅の三、八年やってこれだ」
「八年やって三?」
「言うなよ」
男は札を帯に戻した。
「上がらねえんだよ、この町じゃな。腕の話じゃない」
「じゃあ何の話?」
「……なんでもない。子どもの聞く話じゃねえ」
ノアは井戸のふちに手をかけて、体を持ち上げて、ふちの上に立った。
男が見上げた。
「僕も冒険者になれる?」
「やめとけ。朝から井戸で頭洗うことになるぞ」
「僕、水好きだよ」
「……そうかい」
風がひとつ吹いて、男の足元の桶が倒れた。
水が男の靴を洗った。
風はそこだけで、坂の上の洗濯物は揺れていない。
男は空を見て、それから路地の暗いほうを見た。
「この町の妖精は質が悪い」
ノアの後ろで、光が嬉しそうに揺れた。
そのとき、港の鐘が鳴りはじめた。
ひとつ、ふたつ。
ノアは井戸のふちから飛び降りた。
「学校!」
「おい、上着でかいぞ」
「二年着るの!」
「そりゃいい買い物だ」
三つ目の鐘のとき、ノアはもう坂の上にいた。
学校は交易組合の建物の裏にある。
部屋はひとつで、先生もひとりだ。
五つから十二までが同じ床に座る。
門の内側の塀に、小さいのがひとり張りついていた。
ラウロだ。
五つで、ノアより頭ふたつ低い。
膝に手をついて、塀のいちばん低いところを登ろうとして、すべって落ちた。
「ノア! こっち!」
「登れてない」
「登れる!」
ノアは横から塀に手をかけた。
一度蹴って、上に乗った。
塀の上は人ひとりぶんの幅がある。
上から見ると、屋根の向こうに海が見えた。
今日は色が濃い。
ラウロがまだ下でもがいていた。
ノアは腹ばいになって手を伸ばした。
「持って」
「自分で登る」
「いいから、持って」
「……持つ」
引き上げると、ラウロは思ったより軽かった。
二人で塀の上に並んで座った。
足が届かないので、ラウロは足をぶらぶらさせていた。
「飛ぶ?」
「飛ぶ」
ノアが先に立って、そのまま飛んだ。
膝を曲げて、土に手をつかずに止まった。
音はしなかった。
ラウロが上でしばらく迷っていた。
それから飛んだ。
着いた場所は同じだったが、そのあと尻から落ちた。
「痛い?」
「痛くないし、泣いてない!」
ラウロは立ち上がって、土を払って、また塀に手をかけた。
ノアは下から見上げていた。
今度は自分で登った。
さっきより時間がかかって、途中で二回すべって、それでも上まで行った。
上から飛んだ。
今度は尻をつかなかった。
「見た?おれ、明日はもっと高いとこから飛ぶ」
ラウロは垣根から枝を一本抜いて、剣のように構えた。
「鼠やろう」
「鼠?」
「お前がさっき言ったやつ。犬くらいあるの」
ノアは倉庫の役をやることにした。
塀の内側の窪みが倉庫で、積んである薪が穀物の袋だ。
ラウロが薪をひとつ引きずり出そうとして、重くて動かせなかった。
「鼠は袋を破るんだよ。歯で」
「おれ、歯は貸せない」
結局、ノアが鼠になった。
四つ足で薪の陰から出て、ラウロの背中に回り込む。
ラウロは振り向くのが遅い。
三回やって、三回とも後ろを取られた。
「ずるい!速すぎる」
「ふつうだよ」
「ふつうじゃない。お前、ぜったいふつうじゃない」
薪を元に積み直して、二人で手を払った。
ラウロの手のひらは、付け根のところが赤く擦れていた。
血は出ていないが、明日は痛いやつだ。
ノアも自分の手を見た。
白いままだった。
石を擦ったのは同じところだ。
「お前、手」
「なに?」
「……なんでもない」
年上の子が三人、井戸のほうから戻ってきた。
いちばん背の高いのが、手のひらを上に向けて歩いていた。
そこに若草の色の灯りが乗っている。
まんなかに穴があいて、輪っかになっていた。
あとの二人が「もう一回」とせがんで、背の高いのは得意そうに輪を大きくしてみせた。
ノアは塀の上からそれを見ていた。
それから、なんとなく、手を上着の袖の中へ引っこめた。
袖が長いので、指の先まで隠れた。
背の高いのが灯りを握って消し、塀を見上げて言った。
「女が塀に登るなよ」
「なんで?」
「なんでって……」
聞かれた子は怒った顔になって、先に部屋へ入っていった。
ラウロがその背中に舌を出した。
戸口から先生が呼んだ。
床が冷たい。
ノアは足の裏を擦り合わせて温めた。
前の子の背中で板が半分隠れるので、少し横にずれて座り直す。
先生は炭を持って、壁に立てかけた板に線を引いた。
「四つです」
板の上に、大きさの違う形が四つ並んだ。
「これが大陸。ここがハルディア。私たちはここにいます」
先生は真ん中の形の、左の端を炭で叩いた。
ノアの席からは、その点が本当に小さく見えた。
「東がセイラン。南がザハラ。北の海の向こうがヴォルド。あいだは全部、海です」
「行ける?」
「船なら行けます。ヴォルドは氷があるので、夏だけです」
「人はどこにいるの?」
「どこにでもいます。人間がいちばん多いのはこのハルディア。セイランの草原には獣人が多い。
ヴォルドの山にはドワーフ。森にはエルフ」
「井戸のおじさんは獣人だよ」
「では、草原から来たのでしょう」
先生は炭を置いて、手をはたいた。
「血筋が違えば、できることも違います。それは覚えておきなさい」
ラウロが手を挙げた。
「おれは何の血筋?強い?」
「人間です。強さは、ふつうです」
ラウロは不満そうな顔をした。
ノアは笑った。
「僕も人間?」
「そうです」
ノアはそれで満足して、板のほうへ向き直った。
先生はハルディアの右の端に、小さな丸を六つ描いた。
「ローザ諸都市同盟。都市が六つです」
「ヴァレンツァは?」
「ここ。いちばん西で、いちばん小さい」
子どもたちがざわついた。
ラウロが「いちばん!」と言って、近くの子に肘で押された。
「同盟は国ではありません。約束です」
「約束?」
「六つの町が、困ったときに助け合うと紙に書いて、判を押しました。
国は王が持ちますが、同盟は紙が持っています」
ノアは手を挙げた。
「先生、空の上は?」
「空の上は雲です」
「雲の上は?」
先生は少しのあいだ黙っていた。
黙っている顔は、怒っている顔ではなかった。
「雲の上のことは、ヴェルム聖王国の神殿の人が知っています。天使さまが降りてくるのは、あそこです」
「先生は見たことある?ほんとにいるの?」
ラウロだった。
「見たことはありません。でも、います」
先生の言い方は、そこだけ硬かった。
「天使さまに祈りの篤い者ほど、灯りは強くともります。だから、聖堂へは欠かさず行くように」
ノアは板の四つの形を見ていた。
どの形の上にも、線は一本も引かれていない。
「歴史をやります」
先生は炭を持ち替えた。
「灯りが細った四十年があります。その前と後で、この世界は別のものになりました」
板に、横の線が一本引かれた。
線の真ん中に、短い切れ目が入った。
「森の力が細りました。灯りは十に一つほどしかともらなくなり、畑が実らなくなり、人が減りました。
三つの大陸で、同じころに起きています。誰の仕業でもないので、天の出来事だと言われます」
「戻ったの?」
「戻りました。四十年たって、前触れもなく」
「なんで?」
「分かりません」
「また止まる?」
「分かりません」
部屋が静かになった。
先生は分かりませんと二回言った。
大人がそう言うのを、ノアは初めて聞いた。
「同盟ができたのは、そのあとです」
先生は切れ目の右側を炭で叩いた。
「四十年の怖さを知っている人たちが、助け合おうと手を取り合ったのです。」
ノアはまた手を挙げた。
「四十年って長い?」
「君たちのお父さんやお母さんが、生きてきたより長い」
ノアは指を折ってみた。
「……指、足りない」
帰りの市場は、朝より人が多くて、におう。
魚屋の台の前でノアはつま先立ちになった。
イワシは銀色で、並べたところに水がかけてある。
おばさんが四匹すくって、紙に乗せた。
「四匹で銭三枚」
「五匹は?」
「五匹で四枚。あんた、銭は三枚だろ。じゃあ四匹だ」
そのとき台の下で桶が鳴って、おばさんがそっちを見た。
風が出ていた。
市場の中なのに。
「……ほら、おまけ」
おばさんは小さいのをもう一匹、紙の上に放った。
「言うんじゃないよ」
「言わない!」
坂を上がりながら、ノアは紙包みを胸に抱えていた。
「ピリム、今のやったでしょ」
「僕は何もしていません。きみの徳です」
豆の袋を担ぎ直す。
日が海に落ちるところで、坂の石が赤くなっていた。
上りは飛ばない。
飛ぶと魚が落ちる。
家に着くと、竈にもう火が入っていた。
ミレアは豆を水から煮る。
ノアの役は魚の腹を出すことだ。
木の板の上で、指でやる。
まだ包丁は持たせてもらえない。
「いつ持てる?」
「背がもう少し伸びたらね」
「いつ伸びる?明日?」
「さあ、どうかしらね。豆をたくさん食べたら、早いかも」
魚は焼くと煙が出る。
窓を開けると寒いので、二人とも煙のほうを我慢する。
豆は塩と、隣の家からもらった脂を少し。
並べて、座って、食べた。
ピリムは梁のところに浮いている。
食べないし、匂いも分からないらしい。
それでも毎晩ここにいる。
「今日のは、いい焼き色ですね」
「食べられないのに?」
「色は見えます」
「じゃあ半分見ていいよ」
「半分もらいます」
ノアはしゃべりながら食べる。
「それでね、井戸のおじさん、犬くらいある鼠に噛まれたんだって。八年やって銅の三なの。
あとね、ラウロが塀から飛んで尻もちついて、でももう一回登ったの。
泣いてないって言ってたけど、泣いてた」
「そう。えらいわね、ラウロ」
「それから、先生がね、天使さまは雲の上から降りてくるって」
母の手が止まった。
豆をすくった匙が、鍋のふちで一度止まって、それからまた動いた。
「そう」
「見たことある?」
「ほら、冷めちゃう」
「はーい」
魚の骨を並べる。
四匹ぶんと、おまけの小さいのが一匹ぶん。
ノアは骨をきれいに残すのがうまい。
「母さま、押し入れのやつ、やっぱり鳥のつばさみたいだった。もう使わないの?」
「道具だって言ったでしょう。もう使わないわ」
「なんで?」
ミレアは匙を置いた。
「重いのよ」
「じゃあ、僕が持つ。今はまだだけど、背が伸びたら持てるよ。包丁と同じ」
ノアは匙を振り上げた。
「持てるようになったら、貸して?」
母は答えなかった。
皿に豆をもう一杯よそって、ノアの前に置いた。
皿を運ぶのはノアの役だ。
二枚重ねて持って、水を張った桶に入れる。
手が冷たい。
竈の残りの火に手をかざすと、指の先から順に感覚が戻ってくる。
外で鐘が鳴った。
夜の鐘は朝より数が少ない。
ノアは椅子に戻って、膝を抱えて、それを数えていた。
「ねえ母さま。明日、ラウロも呼んでいい?豆、二人ぶんいるけど」
「いいわよ。あるわ」




