翼は捨てて
拘置所は地下七階にある。
昇降機の数字が七で止まると、扉の外の空気が変わる。
上の階と同じ乾き方をしているのに、もっと重い。
ミレアは四年、月に二度、この階で降りてきた。
受付で外装を預ける。
武器の扱いになる。
それから廊下を歩いて、三つ目の扉で名を告げて、面会室へ入る。
手順は四年で一度も変わらなかった。
面会室の仕切りは、腰の高さから上が曇っていた。
向こう側に灯りは入れられていない。
人がひとり座っている形だけが、灰色のなかに沈んでいる。
ミレアは椅子を引いて座った。
四年、同じ椅子に座ってきた。
向こうの顔を見たことは、一度も無い。
「来たか。今日は、話しておくことがある」
声は仕切りの下の隙間から来る。
四年で痩せて、早口だけが変わらなかった。
「処分が決まったと聞きました」
「そっちじゃない」
隙間から、手が出た。
指の節が太くなっていて、爪は短く切られている。
四年前より皮膚が薄い。
ミレアはこの手を見るのに慣れていた。
この手のことなら、顔より詳しい。
「あの子の話だ」
「ノアです」
「……ノアの話だ」
「接続口のことを、君は聞かなかった」
「聞いても、あなたは答えなかった」
手が、机の木目をひとつなぞった。
「台帳に残る場所では、答えられなかった。ここは残らない。四年かけて確かめた。
この部屋の会話は記録されない。」
「口は、作った」
ミレアは顔を上げた。
「作らなかったんじゃない。見えないように作った。背中の痣だ」
手が、机の上で小さく翼の形をなぞった。
「都の口は、十で開けて、開けたままにする。あの子のは閉じていて、要るときに体のほうが合わせにいく。
ユストの検査でも読めなかった。読めないように作ったんだ」
「……どうして黙っていたの」
「言えば、君は台帳の前で嘘をつくことになる」
「組み方は、どこで。型だけでは、体にならないでしょう」
「そっちは、塔じゃない」
手が、木目の上で止まった。
「十二位の家の相談役だ。上の家のものの半分も答えない。それでも、答えの切れ端が残っていた。
何年も、そこへ問いを重ねた」
「省は、それを知っているの?」
「まだ知らない。知られたら、下の家の者は、もう何も問えなくなる」
「原初型は、五千年前の、誰も削っていない形だ。私はそれをそのまま使った。体の造りだけじゃない」
手が止まった。
「あの子は、周りを変える。そばに居続けた者の体を、何年もかけて、少しずつ。どの血筋の者でもだ。
都が五千年かけて封じてきたものを、あの子は息をするだけで動かす」
ミレアは、しばらく何も言えなかった。
「……それは」
「規格なんて問題じゃない。危険かもしれないが、可能性の塊なんだ。」
「都は五千年、削って、貼り付けて、なんとか持たせてきた。でも、もう限界なんだ。」
手が、また木目をなぞる。
「あの子は可能性だ。どこへ行っても生きられる。翼をつながなくても、地上の種族と比べても強靭だ。
ちょっと落ちたって大丈夫だ。」
「落ちて」
「言葉のあやだ」
「いいえ」
ミレアは仕切りに顔を寄せた。
「あなたは、逃がすつもりで作ったのですか」
長いあいだ、向こうは黙っていた。
向こうの椅子が、一度だけ軋んだ。
「……作ったときは、世界のためだと思っていた」
手が引っ込みかけて、途中で止まった。
「今は、あの子のためだと思っている。順序が逆になってしまった。すまない。私は、そういう男だ」
「知っています」
「だろうな」
ミレアは仕切りに手を当てた。
冷たかった。
「顔、まだ見せてもらえないのね」
「決まりだ。見たいと言えば、次から会わせてもらえなくなる」
「知ってる。だから四年、一度も言わなかった」
「ノアは、大切にしています」
向こうの手が、また出てきた。
「絶対に守ります。誰にもわたしません」
「……そうか。頼む」
それだけだった。
面会の時間は四半刻で切れる。
切れるときは鐘も鳴らない。
扉が開いて、立つように言われるだけだ。
ミレアが立つとき、向こうの手はまだ机の上にあった。
三日後に通達が来た。
紙は二枚あった。
局の様式で、封は裁定局のもの。
届けたのは局の連絡員で、ピリムではなかった。
ピリムはそのあいだ、天井の隅で黙っていた。
一枚目。
カシルに、原初型の持ち出しと使用を理由として追放処分。
地下ネザルへ降ろす。
期日は書かれていない。
書かれていない理由は、読んだときにはもう済んでいるからだった。
ミレアは紙を置いて、そのまま家を出た。
昇降機で七階まで降りた。
受付で名を告げた。
「本日、該当者はおりません。面会の予約は、今朝取り消されました」
「……今朝?」
「今朝です」
面会室は、扉が開いたままになっていた。
仕切りの向こうに灯りが入っている。
四年で初めて、向こう側が明るかった。
椅子がひとつ、机がひとつ、それだけだった。
机の木目に、なぞった跡は残っていない。
ミレアはその部屋に四半刻いた。
誰も追い出しに来なかった。
家に戻って、二枚目を読んだ。
取り調べの記録から漏れたぶんが局の議に回り、規格外の遺伝子構成が万が一地上へ渡れば、
世界中の遺伝情報の均衡を崩す危険があると認められた。
よって対象に凍結処理を行う。
対象は四歳。
処置は再来月。
ミレアは二枚目を握りしめた。
「報告は、もう出ていますか」
天井の隅へ向けて聞いた。
「二枚目のぶんですか」ピリムが揺れた。
「出ていません。僕の様式は月ごとです。次は来月の頭になります。
……お尋ねになる理由の欄が、埋まりませんね。」
「埋めなくていいです」
「それ、四年前を思い出しますね」
家に帰ると、ノアが窓の桟に立っていた。
踏み台は使っていない。
四歳の脚では届かない高さだった。
窓枠に指をかけて体を引き上げる要領を、誰にも教わらずに覚えている。
「母さま、見て!僕、ここから飛べる」
白に近い淡い金の髪が、逆光でほとんど透けている。
薄い灰青の目が、まっすぐこちらを見た。
「降りなさい。危ないでしょう」
ノアは笑って飛んだ。
床に着く音は、猫が降りたくらいしかしない。
膝も折れていない。
着いたその足で、もう走り出していた。
「おかえり!」
「ただいま。……もう、どこで覚えたの」
ミレアは娘を受け止めて、抱き上げた。
四歳にしては軽い。
骨が細いのではなく、密度が違う、とカシルは言っていた。
同じ階に、同じ年頃の子が三人いる。
三人とも、もう外装の下ごしらえが始まっている。
背中の二か所に印がつけられ、十の審査まで、年に一度ずつ形を整えていく。
ノアの背中には印が無い。
子どもたちはそれに気づいていて、まだ、何とも思っていない。
「母さま、今日は灯りしていい?一回だけ」
「いいえ。一回でも、だめ」
ノアは口を尖らせて、それでも手のひらを開いた。
色の無い白が豆粒ほどともって、部屋の隅まで届いて、消えた。
「ノア」
叱りかけて、ミレアは言葉を飲み込んだ。
「……外では、しないでね。約束よ」
ノアは返事をしないで、手のひらを閉じた。
この子は、言われたことの意味を分かっていない。
分からないまま、やってはいけないと言われたことだけを覚えていく。
四年、その積み方しかさせてやれなかった。
「ねえ、父さまはいつ帰ってくるの」
唐突だった。
ノアは唐突に聞く。
「分からないの。お仕事で、遠くにいるから」
「遠くって、どこ?」
「下よ。ここより、ずっと下」
ノアは床を指した。
「ここの下?」
「もっと下」
嘘ではなかった。
それが一番つらかった。
夜、着替えさせるついでに背中を見る。
四年、毎晩見ている。
肩甲骨のあいだの、翼のような形の痣。
その両脇、この都の子なら十で接続口の開く二か所に、なにも無い。
まっすぐな皮膚が続いているだけだ。
口は、真ん中の痣のほうにある。
面会室でそう聞いてからも、見た目は何も変わらない。
指でなぞると、ノアが笑ってよじれた。
くすぐったいらしい。
再来月、ここに何かをされる。
ミレアは手を止めた。
「……ねえノア。速いの、好き?」
「好き!」
聞いてから、自分が何を決めたのかに気づいた。
決めたのは、たぶん面会室を出たときだった。
その夜、押し入れの奥から外装を出した。
四年、畳んだままだった。
留め具の油が固くなっていて、指で揉んでほぐす。
金具のひとつが白く曇っていたので、袖で拭いた。
広げると、先が天井に着いた。
部屋がいっぺんに狭くなる。
こんなに大きかったっけ。
「持ち出しは、報告の対象です。都の境を越えた場合は、その時点で報告します」
ピリムが天井の隅で揺れた。
四年、そこにいる。
月ごとに局へ報告を出しつづけている。
「知っています。越えるつもりよ」
「……そうですか」
光は揺れたが、動かなかった。
ミレアは留め具を肩に通した。
四年ぶりの重さが、肩から腰へ落ちてくる。
荷物はまとめない。
持てるものは、娘と外装だけだった。
扉が鳴った。
立っていたのはアウレアだった。
外は雪で、肩に積もったぶんを払いもしていない。
台帳は持っていなかった。
四年で、この家へ来たのは六度目だ。
そのうち五度は、孫の顔を見に来た。
「入りません」
アウレアは戸口で言った。
目は、部屋の奥の外装を一度だけ見た。
見て、何も言わなかった。
「そこの、妖精」
天井の隅へ向けて言う。
「頼みがある」
「裁定官が、連絡員に、局を通さずに頼みごとを?」
ピリムが揺れを止めた。
「そうだ」
「……聞きましょう」
アウレアは一度だけミレアのほうを見た。
ミレアは見返さなかった。
「ついて行け。局へは何も出すな。私にだけ、あの子らがどうしているかを寄越せ。それだけでいい」
「対価と、理由は」
「対価は無い。理由は言わない」
「僕が断ったら?」
「困る」
ピリムは、長いあいだ揺れなかった。
「僕は、理由の欄を埋めなければならないんですが」
「埋めるな」
どこかで聞いた返しだった。
ミレアは留め具から手を離さなかった。
「わかりました」
ピリムはあっさり言って、光をひとつ大きくした。
「離反します。楽しそうなので」
「そうか」
「二百年勤めましたが、辞め方は教わっていませんでした。これで合っていますか」
「合っている」
奥の部屋で、ノアが寝返りを打つ音がした。
アウレアの目が、一度だけそちらへ動いた。
動いて、戻った。
「どうしても、行くのね」
アウレアは、ミレアに向き直ってそう言った。
「頑固なところばかり似て、どうしてこうも…」
「ごめんなさい」
「…気をつけなさい」
アウレアは背を向けた。
孫の名を、一度も呼ばなかった。
四年、一度も呼んだことがなかった。
扉が閉まってから、ミレアは雪の上の足跡が消えるまで窓に立っていた。
消えるのに、思っていたより長くかかった。
ノアを毛布で巻いて、胸に縛りつけた。
「どこ行くの?」
「下よ。地面のあるところ」
「父さまのとこ?」
「……いいえ」
都の縁は、雲の上で切り落とされている。
柵は無い。
落ちる者を想定していないからだ。
縁まで来ると、足の下に何も無くなる。
雪はここまでは降らない。
降る前に、下へ抜けていく。
ミレアは外装を開いた。
夜の風が、一度に全部当たった。
「母さま、速いのがいい」
胸のなかでノアが顔を上げた。
怖がってはいなかった。
「……そう言うと思った」
ミレアは踏み切った。
風が下から来る。
最初の数秒は、落ちているのか飛んでいるのか分からない。
四年ぶりの体が四年前の手順を思い出すのに、それだけかかった。
翼が風をつかまえて、体が持ち上がって、それから、下向きに角度がついた。
雲を抜けると、いきなり世界が広い。
緑と、茶色と、細い川の銀。
灯りの粒がいくつか固まっているところが、街だった。
「……報告書には、こんなの一行も書かなかった」
四年ぶりに見る地上は、書かなかったぶんが、全部そこにあった。
ピリムが横をついてきている。
光が風に尾を引いて、笑っているように見えた。
実際、笑っていた。
「これ、報告したら面白いでしょうね」
「しないでしょう」
「しませんよ」
胸のなかで、ノアが声を上げた。
笑っていた。
風で顔が押されて目を開けていられないのに、笑っていた。
「母さま、速い!もっと!」
「だめ。しっかりつかまってて」
ミレアは翼を途中で畳んだ。
落ちるように降りた。
地面が近づいて、速さが戻ってきて、着くとき、娘を上にして自分が下になった。
背中から地面に入った。
刈り跡の茎が、外装の布を裂く音がした。
二度跳ねて、止まった。
しばらく、空を見ていた。
雲は遠い。
あそこに都があるとは、下からは分からない。
四年前までの三度の任務でも、そう思った。
誰も上を見ていない。
中央大陸ハルディア。
ローザ諸都市同盟。
石畳のはずれ、麦の刈り跡の上に、二人とひとつが立っていた。
「ここ、どこ」
「これから生きていくところ。まずは家を探しましょう。」
「今から?」
「今から」
ミレアは外装を外し、畳んで布にくるんだ。
二度と広げないつもりで抱えた。
留め具の油は、もう固まりはじめている。
「痛い?」
ノアが聞いた。
「いいえ」
嘘だった。
ノアは信じた。
ノアが走り出した。
刈り跡を跨いで、転んで、すぐ起きて、また走った。
転んだところに血は出ていない。
その背中に、翼は無い。




