裁定
裁定室は天井が高い。
灯りは中央の台の上にだけ落ちていて、そこから下は白い床がひろがっている。
音がよく響くように作られていて、実際よく響く。
裁定は、聞かせるためのものだからだ。
アウレアは台の上に座っていた。
九十二年生きて、この席には三十年座っている。
座るたびに同じことを思う。
決めるのは台帳で、台帳を書いたのは五千年ぶんの積み重ねで、自分はそれを読み上げる口にすぎない。
今日は、読み上げる口でいるのが、少し難しかった。
台の縁から下を見ると、床の白さのなかに人影がひとつ、浮いて見えた。
腕を後ろで留められたカシルだった。
白衣は取り上げられ、薄い作業着のままで立たされている。
上からでは、つむじと、張った肩の骨しか見えない。
三日前まで、この男は娘の夫だった。
今も娘の夫だ。
台の隅に、円柱が運び込まれていた。
青白い液の底で赤子が眠っている。
ときおり手のひらから白い光がこぼれて、床まで落ちた。
「裁定を始める。決めるのは台帳だ。私はそれを読み上げる」
アウレアが台帳を指で撫でると、眼前の空中全体に文章が広げられた。
「血統管理省よりの届け出。調整官ユストの検査による。対象の構成は、登録されたどの規格とも合致しない。
外装の接続口が、規格の位置に設計されていない。
周りの系統へ及ぶ影響の範囲が、登録上のいずれの系統にも収まらない。
設計は血統管理省の調整官カシル、届け出のとおり」
読みながら、行をひとつ飛ばした。
飛ばした行には、対象の母の名が書いてある。
読み上げる義務は無い。
無い、と自分に言い聞かせた。
台の下手に、もうひとつ席がある。
届け出た者の席で、そこにユストが座っていた。
膝の上で手を組み、背筋をまっすぐに伸ばしている。
「届け出人。検査を前倒した理由を」
「担当官の過去三年の案件を見直しておりました。
そのうちの一件に、数値の揃いすぎているものがありまして」
「揃いすぎている、とは」
「読みどおりに落ちすぎている、という意味です。設計の質が高ければそうなります。
あるいは、読みのほうを先に書いていれば」
ユストは、そこで一度だけ目を伏せた。
「疑うのは務めではありません。確かめるのが務めです」
アウレアはうなずきもしなかった。
この男が何を積んできたかは、台帳を見れば分かる。
序列一位の家系。
三十歳。
担当実績はすべて完璧。
ひとつの瑕疵も無い。
瑕疵の無さを誇る者が、他人の瑕疵を三年も探していた。
「下がってよい」
「席は外しません。届け出人には、裁定まで立ち会う義務があります」
「……そうだったな。好きにしなさい」
「合致しないのは、欠陥じゃない!」
カシルが早口で言った。
留め具が鳴る。
「規格は、五千年かけて削られてきた形です。削る前へ戻せば、いまの偏りは──」
「発言を許していない」
アウレアは台帳の行をひとつ落とした。
「裁定する。対象は廃棄。記録は封。設計者の処分は省に残す」
言い終えて、指を止めた。
思っていたより短く済んだ。
三十年で何百と読み上げてきた文と、何も変わらなかった。
裁定室中央の、両開きの大扉が開いた。
両手で大きく押し開けて、ミレアが入ってきた。
外装も畳まないまま、地上から帰った装束のままだった。
裾に土がついている。
翼の先が扉の枠に当たって、高い音を立てた。
留める者が二人、扉の内側から動く。
ミレアはそれをよけもせずに、まっすぐ台の下まで歩いてきた。
「廃棄はさせません!」
声が天井まで上がって、返ってきた。
「あなたに、この場に立つ資格はありません」
アウレアは目を上げなかった。
台帳の上で指を止めただけだった。
「派遣官は裁定に関わらない。初めて降りる前の晩に、そう教えたでしょう」
「母さん!!」
留める者の手が、ミレアの肩にかかった。
アウレアは指を一度だけ動かして、それを止めさせた。
理由は、自分でも言えなかった。
「この都が崩れずに来た理由を、あなたも知っているでしょう。規格と序列。守り続けなければ、都は崩れる。
歴史で習ったはずよ」
「歴史の話じゃなくて、今の話をしているんです!」
「裁定官は、規格を守る。それだけです。」
「あの子は…今生きているんです!」
「台帳の上で、私は何人も落としてきた。今さら、自分の孫だけ贔屓しろと言うの?」
言ってから、孫、と口にしたことに気づいた。
裁定の席で使う言葉ではなかった。
「ひとつ、道があります」
アウレアは言った。
「いまならまだ間に合う。後付の遺伝子調整を受け、接続口を作らせなさい。
外装をつなげば、規格のうちです。登録の形に入る。台帳は書き直せます。家の序列も動かない」
一度だけ、言葉が途切れた。
「……そうすれば、あの子は生きられる」
「それでは死んでいるようなものではないですか…」
「…決めるのは、あなたではない。都です」
ミレアは一歩、台へ近づいた。
「母さん。あの子の背中には、穴が開いていません。穴を開けるということです。
生まれてもいない子の背中に」
「そういう言い方をするな」
「そういうことでしょう」
アウレアは、はじめて台帳から目を上げた。
下にいる娘の顔を見た。
土のついた装束と、畳んでいない翼と、長いあいだ正面から見ていなかった目を。
ミレアは台を見上げた。
下から見ると、灯りが逆光になって、母の顔は影になっている。
三十年、この人がこの席から何を落としてきたのかを、ミレアは一度も見に来たことがなかった。
「あの子を、見たでしょう?」
アウレアの指が、わずかに動いた。
「見ました」
「それで、廃棄と?」
「それで、廃棄と。」
「聞いてくれ」
カシルが首を持ち上げた。
息が乱れていて、それでも言葉は途切れなかった。
留める者が肩を押さえたが、声は押さえられなかった。
「削って、削って、混じらない形だけを残したんだ。そのぶん都の体は弱くなった」
カシルは顔を上げて、台の上と、下手の席とを順に見た。
「考えることも、変わることも嫌うようになった。いま、あなた方がそうしているように」
「発言を許していない」
「許さなくていい、どうなってもいいから…聞いてくれ…」
カシルは床に膝をついた。
押さえられたのではなく、自分でついた。
「五千年前の型には、削られる前の形が全部残っている。あの子はそれをそのまま持っている。
どこへでも届く。どの血筋にもだ。外装をつながなくても生きられる。そういう体だ」
「それが危険だと言っているのです」
「危険だとも」カシルはあっさり認めた。
「だが、廃棄すれば、もう先はない。あれ一件しか作っていないんだ。次はもういない」
声が、そこで初めて割れた。
「私の罰はどうにでもすればいい。地下でも、どこへでも降ろせばいい。だが、あの子は──」
「黙らせろ」
留める者たちが動きかけた。
アウレアが手を上げて、止めた。
台の上で、長いあいだ息をしていた。
口の端が下がり、眉のあいだに皺が寄って、それがほどけるまでに、痛々しい沈黙があたりを包んだ。
裁定室はよく響く。
響くものが何も無いと、そのぶん静かだった。
アウレアは台の隅へ目を向けた。
円柱のなかで、赤子が寝返りを打つ。
背中が上を向いて、肩甲骨のあいだの痣が見えた。
三日前、培養室で見たときと同じ形をしている。
三日のあいだ、あの形のことを考えなかった時間は、たぶん無かった。
アウレアは、自分が何を考えているのかを、正確に知っていた。
三十年で初めて、台帳より先に答えが出ている。
それを言葉にすれば、この席を降りることになる。
言葉にしなければ、明日も座っていられる。
どちらも選ばずに済む書き方が、ひとつだけあった。
「保留登録とする」
アウレアは行をひとつ書き足した。
「台帳には規格外として載せる。処分は保留。条件を三つ言う。都の外へ出さない。
接続口は後から作らせ、期日は局が決める。監視役をつけ、月ごとに局へ報告させる」
下手の席で、ユストが立ち上がった。
「裁定官。保留では、台帳に規格外が一件残ることになります。それは……前例になりますが」
「残る。そう書いた。届け出人の務めは、もう済んだはずだ」
アウレアは、それ以上は言わなかった。
ユストはしばらく立っていて、それから座った。
「外装をつなぐかどうかは、私が決めます」
ミレアが言った。
「決めるのは局だ」アウレアは台帳を閉じた。
「あなたが持ち帰ると言うなら、書類の上ではあなたの保護下に置く。あなたが決めたことです」
そこで、台帳の上の指が止まった。
「……抱えきれなくなったら、そのときは来なさい。局ではなく、家へ」
台の上から円柱が静かに降りてきて、ミレアの前で止まった。
ミレアがガラスに手を当てると、液の底で赤子の指がゆっくり開いて、色の無い白がともった。
手のひらに収まるほどの灯りが、ミレアの手のひらとちょうど重なる位置にある。
「ピリム、監視役を受領しました」
軽い声が、台の陰から降りてきた。
姿は無い。
光がひとつ、風の揺れのような形で円柱のまわりを一周する。
調子は一定で、上がりも下がりもしない。
「対象の様子を月ごとに報告します。
都の境を越えた場合と、対象が接続口を得た場合は、その時点で報告します」
「分かりました」
「それから、ひとつ確認があります。僕は実体を持ちません。追い払うことも、閉じ込めることもできません。
ご承知おきください。以上です」
ミレアは答えず、床を横切った。
留められたカシルの前で止まる。
留める者たちは三歩の手前で止めさせたが、それより近くへは行かなかった。
ミレアもそれ以上は詰めなかった。
「大切にする。約束する」
ミレアは言った。
声はもう震えていなかった。
「私が育てる。誰にもわたさない」
カシルはミレアを見た。
何か長いことを言おうとして、言わずに、短く息を吐いた。
「……数値は、読みどおりに落ちていた」
笑おうとして、うまくいかなかった。
それだけ言って、連れていかれた。
扉が閉まる音が、天井の高さのぶんだけ遅れて返ってきた。
「また、そんな言い方しかできないで。不器用なひと」
ミレアがつぶやいた。
誰にも届かない高さの声だった。
台の上で、アウレアが立ち上がった。
台帳を小脇に抱え、灯りの外へ出る。
一段、二段と暗くなって、三段目でもう見えなくなった。
ミレアは下から見上げていたが、暗くなった台の上に、もう顔は無かった。
呼べば届く高さだった。
呼ばなかった。
「ひとつ、聞いていいですか」
ピリムがミレアのそばまで降りてきて、揺れた。
「対象は、なぜ廃棄しないほうがいいのですか。僕は理由の欄を埋める義務があります。」
「埋めなくていいです」
「それでは様式が通りません」
「通さなくていいです」
「……なるほど」
ピリムは少し揺れて、それから言った。
「あなたは、裁定官のかたと、言い方がよく似ていますね」
ミレアは答えなかった。
円柱に手を添えて、ガラス越しに、液の底をのぞく。
赤子は眠っている。
「あと七日ね」
ガラスに額を寄せて、ミレアは言った。
「管が外れたら、最初に触るのは私よ。あの人と約束したから」
それから、顔を上げた。
「この子の名前は、ノアです」
「名前の欄は、接続のあとに埋めることになっています。」
「先に埋めてください。」
「……様式が」
「先に」
短い沈黙があった。
光がひとつ、ゆっくり瞬いた。
「埋めました。」
ミレアは歩き出した。
円柱がそれについて動き、ピリムは少し遅れて、後ろをついてきた。
裁定室の大扉は、押さなくても開いた。
廊下は明るかった。
円柱の白い光は、そこではほとんど見えなくなる。
すれ違う者が何人かいて、みな一度は円柱を見て、それから目をそらした。
誰も何も言わなかった。
「ひとつ、聞いていいですか」
ピリムがまた降りてきた。
「さっきの、ノアという名前ですが。どういう意味です」
「意味はありません」
「意味の無い名を、天上の家系はつけません」
「つけました」
光が、少し形を変えた。
「……報告に書いておきます」
「書かなくていいです」




