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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
1章:原罪
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1/82

5千年の希望


新生児の培養室は、地下の三階にあった。

昇降機を降りるとすぐに空気が変わる。

乾いていて、少し冷たくて、鼻の奥に金属の匂いが残る。

ミレアは廊下を三つ折れ、いちばん奥の扉の前で足を止めた。

任務から戻ったのは昨日の夕方だった。

ヴェルム聖王国の神殿に裁定局の通達を置いて、三日で帰ってきた。

三度目の派遣だった。

「ふぅ、やっとついた…。報告書は、…あとでいいか。どうせいつも誤魔化しているだけだし。」

扉に手のひらを当てると、中から錠の外れる音がした。


部屋の灯りは落としてあった。

円柱は人の胴ほどの太さで、床から天井へまっすぐに立っている。

中は青白い液体で満たされ、その色のぶんだけ、部屋がうすく照らされていた。

壁の一面は計器で埋まっていて、数字の列がゆっくり流れている。


「来たのか」

カシルは計器の前に立っていた。

振り向かない。

指は数字を追ったままだ。

「戻ったなら、先に家へ帰ればいい」

「先にここへ来ました」

ミレアは円柱の前まで歩いた。


液の底に、赤子がいた。

膝を抱えて丸くなっている。

細い管が一本、背中から槽の上へ伸びていた。

髪は白に近い淡い金で、まだ産毛ほどの長さしかない。

指が時おり開いて、また閉じた。


「あと十日だ」

カシルがようやく顔を上げた。

早口だった。

「培養は順調だ。数値はどれも読みどおりに落ちている。君が心配するようなことは、もう起きない」

「起きないの?ほんとに」

ミレアは槽のふちに手を置いた。

ガラスは思っていたより温い。


「起きない。設計は私が全部見た」カシルは一度だけ笑った。

「この記録の頭には、五千年と打ってある。私たちが数え直すよりも前の数字だ。

誰も手を入れていない、そのままの型だよ」

「原初型を使ったことが知られたら」

「知られないさ。記録は私しか触れない」

「知られたら、あなたも、この子も終わるのよ」


カシルは数字から目を上げた。

「……知られたとしても、これがあれば、世界はきっと良いほうへ進む」

言い切ってから、自分の言葉に小さくうなずいた。

ミレアは答えずに、液の底を見ていた。


「届け出は、私が書きます。規格どおりだと」

カシルの指が、初めて数字から離れた。

「君が書くなんて…危ないじゃないか。」

「私の家は、六十年ぶん嘘を積んで三位にいます」

言ってから、言いすぎたと思った。

母の顔が浮かんで、すぐ消えた。


「ねえ、どこから持ってきたの」

四年前から一度も聞かなかったことを、ミレアは聞いた。

「知らないほうがいい」

「知らないまま、届け出に嘘を書くの?おしえてよ」

カシルは黙った。

計器の光が、その横顔を下から照らしている。

「……塔だ」

それだけだった。

ミレアも、それ以上は聞かなかった。

リンドールの塔に閲覧禁止の区画があることは、派遣官なら誰でも知っている。

中に何があるかを知っている者は、ほとんどいない。


液の中で、赤子が寝返りを打った。

背中がこちらを向く。

肩甲骨のあいだに、翼のような形の痣がひとつ。

その両脇、この都の子なら十で接続口の開く二か所に、なにも無い。

皮膚がまっすぐに続いているだけだった。

ミレアはガラスに顔を寄せた。

「……本当に、作らなかったのね」

「規格の口は、要らないからだ」カシルは即答した。

「この子は、都の決めたものを何もつながなくていい」

「翼も?」

「翼も。」

そう言いながら、カシルの目は両脇ではなく、真ん中の痣のほうに一度だけ止まった。


「この都で、外装をつながない子がどうなるか、知らないわけがないでしょう。

十で接続審査があって、受けられない子は台帳から外れるのよ」

「知っている」カシルは数字から目を離さなかった。

「だから、それまでに都のほうを変える」


「……いつもそう。理想ばっかり先に走って」

ミレアは小さく笑った。

カシルは聞こえないふりをした。

それでうまく行かないことも多い。

そこが好きなんだけど。


液の中で、赤子の手のひらがゆっくり開いた。

そこに、色の無い白がともった。

豆粒ほどの光だった。

水を透かして二人の顔まで届いて、すぐに消えた。


「今の、見た?」

「見えた。……灯りだ」

カシルは計器に飛びついた。

数字の列を上から下まで目で追って、それから、もう一度追った。

「どこも動いていない。灯りの出力も、神経の反応も、全部読みどおりだ」

「じゃあ、今のは何なの?あなたが設計したんでしょう」

「……分からない」

はじめて、カシルの早口が途切れた。



計器がひとつ、短く鳴った。

培養の工程が一段進んだ合図だった。

カシルは手を伸ばして音を止め、そのまま手を止めた。


それにかぶさるように、廊下の遠くから足音が来た。

ひとりではない。

床を蹴る音がそろっていて、そろっているぶんだけ荒い。

昇降機の扉が開く音。

角を曲がる音。

近づく速さが、まっすぐこの部屋へ向かっている速さだった。


「カシル」

「動くな」

カシルは計器の端の、手のひらほどの板に手をかけた。

記録を持ち出すのに使った板だった。

指がひとつ、ふたつ、三つ動いた。

消去には手順が要る。

三つ目まで行ったところで、扉が開いた。


革の留め具と金属の触れ合う音が、部屋に入ってきた。

灯りが入って、青白かった部屋が急に白くなる。

ミレアは目を細めた。

カシルは板から手を離さなかった。

その腕を取られ、ねじり上げられて、板が床に落ちる。

拾われた。

そのまま計器の台へ押しつけられた。

頬がガラスに当たり、顔が苦しげに歪む。


「待て、待ってくれ、あと十日だ。十日で──」

腕をさらにねじられて、声が途切れた。


「離して!」

ミレアが前へ出た。

留める者のひとりが、間に体を入れる。

「派遣官のかたですね。令状は血統管理省から出ています。派遣官の権は、ここには届きません」

穏やかな言い方だった。

穏やかなぶんだけ、動かないという意味だった。


それでもカシルは首を持ち上げ、開いた扉のほうを見た。



戸口の奥に、もうひとり白衣が立っていた。

部屋には入ってこない。

肩幅が広く、背筋がまっすぐで、廊下の灯りを背負っているせいで顔だけが影になっている。


「なぜだ」

カシルが叫んだ。

台に押しつけられたまま、声だけが部屋いっぱいに響いた。

「なぜ裏切った、ユスト!」


「裏切り、ですか」

ユストは、言葉を選ぶように間を置いた。

動いたのは口元だけだった。

「私は報告しただけです。貴君の手がけた子の出生時検査に、規格に無い構成が出た。

報告しない道理が私にはありません」


「検査は出生のあとだ。まだ十日ある。誰の許可で前倒した」

「省の許可です。貴君の担当した子は、この三年で十一件。そのすべてを、私が見直しています」


カシルの息が止まった。

「三年も……私を見ていたのか」

「務めです」


ユストは一歩も動かない。

「貴君は序列十二位から上がってこられた。技能だけで。私はそれを、立派なことだと思っていました。

今も思っています。だからこそ惜しい」


「あれは、もとに戻しただけだ」カシルが言った。

「元の形に戻せば、今の歪みは──」


「理念の話をしましょう」

おだやかな声が、上からかぶさって止めた。

「いままで、この都市が崩壊せずに済んだのは、規格と序列があったからです。五千年、一度も崩れていない。

貴君はそれを、自分から破った」

ユストは、はじめて一歩だけ前に出た。

灯りが顔に当たる。

「個人の理想など、要りません。あなたが悪いのです」

そのおだやかさの下から、侮蔑がわずかに覗いた。


カシルは何か言おうとして、言えなかった。

台に押しつけられた頬が、ガラスの上で滑った。


ユストの目が、はじめて円柱のほうを向いた。

長いあいだ、そこを見ていた。

液の底の赤子を、上から下まで、計器の数字を読むように見ていた。

「……接続口が無い」

声が、少しだけ低くなった。

「貴君は、この子から、都で生きる道を取り上げたのですよ」

「違う。あの子は、どこにでも行ける。」


ユストは答えなかった。

戸口へ戻り、そこで背を向けた。

「連れていってください」


武装した者たちがカシルを引き立てていくあいだ、ミレアは一歩も動かなかった。

出ていく間際、カシルはミレアのほうへ首をまわした。

何か長いことを言おうとして、言わずに口を閉じた。

そのまま、廊下へ出ていった。


ミレアが動いたのは、足音が角を曲がってからだった。

槽のふちから手を離し、走って部屋を出ていった。



廊下は明るかった。

培養室の前だけが暗くて、そこから出ると、天井の帯が一列に光っている。

ミレアは走った。

三つ目の角を曲がったところで、昇降機の前に人の塊が見えた。

「カシル!」

声は届いた。

カシルが振り向こうとして、留める者に頭を押さえられる。

それでも足は止まった。

ミレアは十歩ぶんの距離まで詰めて、そこで前をふさがれた。

「それ以上は」

「夫です。通して」

「存じています」


昇降機の扉が開いた。

中は白い。

押し込まれる前に、カシルは一度だけ顔をこちらへ向けることができた。

「ミレア、十日後だ」

「はい」

「十日後に、あれを出してやってくれ。君が、最初に触れ」


そこで扉が閉まった。

数字が下へ動きはじめる。

二、三、四。

省の拘置は地下七階にある。

数字が七で止まって、動かなくなった。


ミレアは扉の前に立っていた。

自分の呼吸の音が、廊下の静かさのなかで大きすぎる。

手のひらに、まだガラスの温さが残っている気がした。


「派遣官どの」

振り向くと、ユストが少し離れて立っていた。

白衣の襟を直している。

「ひとつだけ、申し上げておきます」

「聞きません」

「聞かれたほうがいい」

ユストはおだやかに言った。

「あの子の構成は、もう台帳に載りました。載ったものは消えません。

裁定が出るまで、あなたが何をしても変わらない」

「……裁定は、いつ」

「三日後です。裁定官は、あなたの母君だ」


ミレアは何も返さなかった。

ユストは一礼して、廊下の反対側へ歩いていった。

足音が遠ざかって、消えた。


廊下の帯の光が、一列だけちらついている。

ミレアは昇降機の数字をもう一度見た。

七のままだった。

それから、上を見た。

裁定局は、地上から数えて十二階にある。


昇降機を呼んだ。

上へ行くつもりだった。

母に会って、届け出を止めさせる。

止められないなら、せめて裁定の席に立たせてもらう。

扉が開いて、中へ入って、階の数字に手を伸ばして、そこで止まった。


「……何て言うの」

誰もいない箱の中で、声に出してみた。

「規格の外だと知っていました?知りませんでした?」

どちらも言えなかった。

四年前から知っていて、届け出なかった。

それが事実の全部だった。


ミレアは階を選ばずに、扉が閉まるまで立っていた。

閉まって、また開いた。

誰も乗っていない箱が、そのまま止まっている。


結局、三日後に裁定の席へ踏み込むまで、母には一度も会わなかった。



あとには、白く光る円柱だけが残った。

灯りはまた落とされている。

液はさっきと同じ速さで巡り、赤子は、さっきと同じようにときどき指を開いた。

計器の数字も、読みどおりに落ちつづけている。

培養の終わりまで、あと十日。

この部屋で起きたことは、そこには何も記録されていない。


しばらくして、扉がもう一度開いた。

入ってきたのはアウレアだった。

小柄で、背筋が伸びていて、足音を立てない。

九十二になる。

裁定局の裁定官で、派遣官の家系の家長で、ミレアの母だった。

手には何も持っていない。

台帳は置いてきていた。

槽の前で立ち止まり、長いあいだ中をのぞいていた。


丸まった背中が、ゆっくりこちらを向く。

髪の色を見た。

指の数を数えた。

それから、肩甲骨のあいだの痣を見て、その両脇へ目を移した。

孫の背中に、接続口は見当たらなかった。


アウレアは目を閉じた。

六十年、家を守ってきた。

序列を五位から三位まで上げた。

そのあいだに何を通して何を止めたか、自分でも数えられない。


「三日後に、裁定の席に着くのは私よ」

ガラスの向こうへ、低く言った。

「届け出はもう上がっている。あなたのことを書くのは、順番でいけば私なの」

赤子の指が、ゆっくり開いて、また閉じた。

「こういう形のものを通したことは、一度も無いのよ」

槽のふちに置いた指が、しばらく動かなかった。


「……これは、存在してはいけない」

短くそう言って、アウレアは光から目をそらした。

部屋を出るとき、一度も振り返らなかった。

足音は、来たときと同じで、立たなかった。


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