残った者
「この種は首に根を張って、声のほうを食っていく」
ベッドの脇で膏薬を練りながら、施術師の年寄りがぼそぼそと言った。
フォンターレの下町の奥にあるその家は、昼でも戸に布を下ろして薄暗く、煮つめた草の匂いが天井の梁までこもっている。
ピエトロは、壁ぎわのベッドに仰向けになっていた。
切り通しでガレナに大剣の峰で叩きのめされた左の肩口と背中が、まだ熱を持って疼く。
岩屋の集いで植えた奇跡の、花の形の跡がある首の付け根も、焼けるように熱かった。
施術師は背の丸い、指の節の太い男で、印の者を何も聞かずに黙って診てきたのだという。
「グラッソの薬は、ここには無い。これ以上進まんようにするには、毎日手当てを続けるしかない」
それから、思い出したように付け足した。
「あんたの連れの娘たちは、今朝、ボッカ大穴のほうへ発ったそうだ」
ボッカ大穴、だと。
ベッドに転がしておいて、もう先へ行ったのか。
また、置いていかれた。
声が消える。
声が無ければ、自分に何が残る。
グラッソのところへ行けば薬はあるだろうが、行けば今度こそ、根っこまで食われる。
分かっている、そんなことは。
ベッドから体を起こしかけて打たれた肩の痛みで止まり、首元の跡を、コートの襟で隠すように手で押さえる。
枕元に置いてあったガレナの水袋を、つかんで引き寄せた。
施術師をにらんで口を開いたが、喉がかすれて、言葉が一つずつしか出なかった。
「……おれを、置いて、か。……ばぁか、あいつら。……爺さん、毎日やったら、声、残んのかよ」
施術師は、膏薬の匙を止めずに言った。
「やってみなけりゃ分からん」
それから、手当ての日々が続いた。
朝ごとに首元の跡に膏薬を塗りこまれ、苦い煎じ薬を飲まされる。
下町の窓の外で、梅が咲いて、散った。
喉から出る声は日ごとに細くなり、三月の終わりには、かすれた息の音しか出なくなった。
四月の半ば、施術師が首元の跡を指で押して、しばらく見ていた。
「これで止まった。もう広がらん。……けど、食われた声は戻らん」
首元の花の跡は、縁が喉の脇まで灰色に固まって、消えずに残っている。
戻らない、だと。
冗談だろう。
粉屋の親父の声も、網元の声も、姐さんの声も、もう一つも出せないのか。
声色ひとつで犬も鼠も呼べて、それで食ってきたのだ。
それが無ければ、自分はただの、坂の下の網を裂いた漁師のせがれだ。
ノアたちは今ごろ大穴の向こうにいるのに、自分はここで口もきけない。
ざまあない。
喉に手を当て、いつもの声色を出すつもりで口を開いて息だけを押し出したが、かすれた音も出なかった。
もう一度、もっと強く押し出す。
出ない。
ベッドの脇の壁を拳で殴り、そのまま拳を壁につけて、うつむいた。
しばらくして枕元のガレナの水袋をつかむと、施術師のほうへ向き直り、自分の喉を指さして首を横に振る。
本当にか、と。
施術師は、黙って頷いた。
翌朝、コートの襟を立てて首元の灰色の跡を隠し、施術師の家を出た。
施術師が持たせてくれた膏薬の残りを懐の上から押さえて確かめ、ガレナの水袋を肩にかけ直す。
ヴァレンツァか。
帰れないと背を向けた坂の家に、今さら声も無くして帰るのか。
親父の舟は、浜に上がっていた。
網を裂いて、舟を沈めかけて、今度は口もきけないのでは、笑い話にもならない。
けれど、ほかに行く所は無かった。
声色で食えないなら、腕と灯りで網でも引くしかない。
ガレナは、待ってると言った。
待ってろよ、ばぁか。
今は追えないだけだ。
フォンターレの西の門を抜けて振り返り、高台と聖堂の塔を見上げてから、西の街道をヴァレンツァのほうへ大股で歩き出した。
口を開けても、鼻歌ひとつ出なかった。




