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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
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残った者

「この種は首に根を張って、声のほうを食っていく」

ベッドの脇で膏薬を練りながら、施術師の年寄りがぼそぼそと言った。

フォンターレの下町の奥にあるその家は、昼でも戸に布を下ろして薄暗く、煮つめた草の匂いが天井の梁までこもっている。

ピエトロは、壁ぎわのベッドに仰向けになっていた。

切り通しでガレナに大剣の峰で叩きのめされた左の肩口と背中が、まだ熱を持って疼く。

岩屋の集いで植えた奇跡の、花の形の跡がある首の付け根も、焼けるように熱かった。


施術師は背の丸い、指の節の太い男で、印の者を何も聞かずに黙って診てきたのだという。

「グラッソの薬は、ここには無い。これ以上進まんようにするには、毎日手当てを続けるしかない」

それから、思い出したように付け足した。

「あんたの連れの娘たちは、今朝、ボッカ大穴のほうへ発ったそうだ」


ボッカ大穴、だと。

ベッドに転がしておいて、もう先へ行ったのか。

また、置いていかれた。

声が消える。

声が無ければ、自分に何が残る。

グラッソのところへ行けば薬はあるだろうが、行けば今度こそ、根っこまで食われる。

分かっている、そんなことは。


ベッドから体を起こしかけて打たれた肩の痛みで止まり、首元の跡を、コートの襟で隠すように手で押さえる。

枕元に置いてあったガレナの水袋を、つかんで引き寄せた。

施術師をにらんで口を開いたが、喉がかすれて、言葉が一つずつしか出なかった。

「……おれを、置いて、か。……ばぁか、あいつら。……爺さん、毎日やったら、声、残んのかよ」

施術師は、膏薬の匙を止めずに言った。

「やってみなけりゃ分からん」



それから、手当ての日々が続いた。

朝ごとに首元の跡に膏薬を塗りこまれ、苦い煎じ薬を飲まされる。

下町の窓の外で、梅が咲いて、散った。

喉から出る声は日ごとに細くなり、三月の終わりには、かすれた息の音しか出なくなった。


四月の半ば、施術師が首元の跡を指で押して、しばらく見ていた。

「これで止まった。もう広がらん。……けど、食われた声は戻らん」

首元の花の跡は、縁が喉の脇まで灰色に固まって、消えずに残っている。


戻らない、だと。

冗談だろう。

粉屋の親父の声も、網元の声も、姐さんの声も、もう一つも出せないのか。

声色ひとつで犬も鼠も呼べて、それで食ってきたのだ。

それが無ければ、自分はただの、坂の下の網を裂いた漁師のせがれだ。

ノアたちは今ごろ大穴の向こうにいるのに、自分はここで口もきけない。

ざまあない。


喉に手を当て、いつもの声色を出すつもりで口を開いて息だけを押し出したが、かすれた音も出なかった。

もう一度、もっと強く押し出す。

出ない。

ベッドの脇の壁を拳で殴り、そのまま拳を壁につけて、うつむいた。

しばらくして枕元のガレナの水袋をつかむと、施術師のほうへ向き直り、自分の喉を指さして首を横に振る。

本当にか、と。

施術師は、黙って頷いた。



翌朝、コートの襟を立てて首元の灰色の跡を隠し、施術師の家を出た。

施術師が持たせてくれた膏薬の残りを懐の上から押さえて確かめ、ガレナの水袋を肩にかけ直す。


ヴァレンツァか。

帰れないと背を向けた坂の家に、今さら声も無くして帰るのか。

親父の舟は、浜に上がっていた。

網を裂いて、舟を沈めかけて、今度は口もきけないのでは、笑い話にもならない。

けれど、ほかに行く所は無かった。

声色で食えないなら、腕と灯りで網でも引くしかない。

ガレナは、待ってると言った。

待ってろよ、ばぁか。

今は追えないだけだ。


フォンターレの西の門を抜けて振り返り、高台と聖堂の塔を見上げてから、西の街道をヴァレンツァのほうへ大股で歩き出した。

口を開けても、鼻歌ひとつ出なかった。

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