地道 2 帯一本
都で仕立てた白い靴は底が半分剥がれ、足の裏の皮が親指の付け根からむけている。
砂が入って、立っているだけで熱い。
東の街道は、昼の日差しだけがもう春だった。
都の床はどこも平らで、行きたい所へは飛んでいけたから、地面をこれほど歩いたことは無かった。
夜は、岩陰で膝を抱えて眠った。
片翼と麻布の包みは、白い上衣の上に背負ったままだ。
翼を隠せる物が無く、通りがかる荷車の者たちがみんな振り返っていく。
地上の銅貨は、一枚も持っていなかった。
夕方、街道沿いの宿場に着くと、戸口に明かりのともった宿が一軒あった。
腹が鳴った。
けれど、自分は序列一位のレグルスの跡取りだ。
物乞いのように頭を下げてたまるか。
都から降りた者に宿と食事を出すのは、地上の者の務めのはずだ。
前例はある。
あるはずだ。
ラファルは戸口の明かりの下に立ち、片翼を背に畳んだまま胸を張って、宿の中を見据えた。
「おい、宿の者。僕はエンピレオから降りた、レグルス家の者だ。今夜の食事と寝床を用意しろ。代価は後で都から払わせる。急げ」
宿の亭主は奥から顔を出し、ラファルの顔と、背中の片翼と、剥がれた靴を順に見て、腹を抱えて笑った。
「天の使いさまのお芝居かい。金の無い奴に出す飯は無えよ」
戸が閉まり、向こうで客たちの笑い声がした。
ラファルは閉まった戸の前に立ったまま、腹が鳴るのを聞かれないように歯を食いしばった。
翌朝、宿場の外れの古着屋の前を通った。
店先には裾の擦り切れた茶色い羊毛のコートと、底の厚い古い革の靴が吊るしてあり、棚に黒パンが並んでいる。
古着屋の女が、ラファルの腰の、白い上衣の銀の帯をじっと見ていた。
十の年、接続審査の日に、父上が締めてくれた序列の帯だ。
地上の古着屋に渡すなど、家の名を売るのと同じだ。
……けれど、足はもう血だらけで、ヴァレンツァまではまだ遠い。
ここで倒れたら、父上の言う「次」も無い。
帯が無くても、自分がレグルスであることは変わらない。
そうだ。
変わらない。
ラファルは腰の銀の帯をほどいて女の手の前へ突き出し、もう片方の手で、吊るしてあるコートと靴、棚の黒パンを順に指さした。
「この帯は都の銀だ。地上の銅貨より値打ちがある。そのコートと靴と、パンをよこせ。……釣りは要らない」
女は帯を両手で受け取って目を丸くし、コートと靴を外して、黒パンを二つ布に包んで渡してくれた。
古いコートは背が広くて、片翼と麻布の包みが、すっぽり中に収まった。
靴は少し大きくてかかとが減っていたが、砂は入らなかった。
命じても通らなかったものが、帯一本で手に入った。
ラファルは黒パンをかじりながら、西へ歩いた。
固くて、酸っぱかった。
十日ほど歩いて、白い石灰岩の台地、ブルチャ野に上がった。
北の窪みに立ち並ぶ白く枯れた木の幹は、葉が一枚も無く、皮が剥げて、骨のように白い。
窪みの縁で山羊を連れて休んでいた老人が、旅人を見て声をかけてくる。
「あれかい。昔はあそこに森があったんだよ。わしの爺さまの頃にはな。森が枯れてから、村は散っちまった」
森が、枯れる。
森は、灯りの湧く所だ。
都の台帳には地上の森の数も場所も載っていたが、枯れたとは一行も無かった。
台帳が間違うはずがない。
なら、これは何だ。
目の前に立っているのは、白い骨のような幹だけだ。
村が散って、人が住めなくなった。
タッソの森で、灰色の腕を抱えてうめいていた者たちの顔が浮かんだ。
都は知っていて書かないのか、それとも知らないのか。
どちらでも、気分が悪い。
ラファルは窪みの縁まで歩き、並んだ枯れ木をしばらく見下ろしてから、コートの前を握ったまま老人のほうへ向き直った。
「おい、年寄り。森はいつから枯れた? 聖堂には知らせたのか」
老人は、山羊の首を撫でながら笑った。
「さあな。気がついたら、枯れとった。知らせたって、誰も見に来やせんよ」
三月の末に着いたドラージョでは、焼けた聖堂の屋根が落ちて、黒い梁が空にむき出しになっていた。
広場の井戸端で、女たちが話している。
「白い翼の娘が、聖堂を焼いたんだってさ。黒い翼の悪魔と並んで立ってたのを、見た人もいるんだよ」
「印持ちが、広場で斬られたって」
黒い翼の悪魔のほうは一月にも聞いて、その噂を追ってフォンターレへ降りたのだ。
けれど、聖堂を焼いた、だと。
あの規格外が、そんなことをするか。
……するかもしれない。
あいつのことで知っているのは、河原の一晩と、納屋の六日と、タッソの森で背中を合わせた半日だけだ。
町の西の門で旅人を調べていた灯改めの男は、ラファルの番が来るとコートの裾を持ち上げ、下の白い翼を見て顔色を変えた。
その場に膝をついて、石畳に頭を下げる。
「天使さま。……お通りください」
宿場の亭主には笑われ、この男には拝まれ、あいつは追われる。
羽の色は同じ白で、違うのは台帳に名が正しく載っているかどうかだけなのに、それだけで、これほど違う。
それを正しいと言ってきたのは、自分で、父上で、都だ。
今この男に何を命じればいいのか、何も浮かばなかった。
ラファルは膝をついた男を見下ろしたまま、コートの裾を自分の手で下ろして翼を覆った。
何も言わずに男の横を通り、西の門を抜けて街道へ出た。
後ろで男がまだ頭を下げているのに気づいたが、振り返りはしなかった。




