印
アガタは盥の湯を替えながら、指先の荒れをそっと揉んだ。
聖堂の施療院の窓から朝の光がベッドの列に斜めに差しこみ、酢で煮た布の匂いが、まだ冷えの残る石の床にこもっている。
見習いに入って、七年目の春だった。
誰かが、戸を乱暴に開けた。
「ロジーナさんはいるかい! 急いでくれ!」
漁師が二人、両脇から若い男を抱えて入ってきた。
二十ほどの日に焼けた漁師で、首筋の灼けたような小さな花の形の印から右の二の腕へ、肌が灰色に変わっていた。
ベッドに寝かせると、若い漁師は灰色の腕を動かせないまま、天井をにらんだ。
ロジーナが、袖を肘までまくった太い腕で腰の鍵束を鳴らしながら奥から出てきて、ベッドの脇に屈んだ。
首の花の形の印を指でなぞり、灰色の境目を親指で押して硬さを確かめる。
二の腕を軽く叩き、指先をつねってから、若い漁師の顔をのぞきこんだ。
「あんた、ここ押されて分かるかい? 指は動くかい?」
アガタのほうを見ずに、続けた。
「アガタ、湯を沸かして、きれいな布を持ってきな」
アガタは鍋に水を張って竈にかけ、棚からきれいな布を三枚取った。
ベッドの脇へ置くとき、灰色の腕に指先が触れた。
冷たくて、石のように硬い。
額に手を当てても熱は無く、腫れてもいない。
三十年ここにいるロジーナが、黙って傷を見ている。
見たことの無い傷なのだ。
若い漁師は、二の腕は押されてももう分からない、指はまだ少し動く、と答えた。
灰色は三日前から広がりはじめたと、付き添いの一人が言った。
「この首の印は、誰にもらったんだい。隠したら手当てのしようがないよ」
ロジーナに聞かれると、若い漁師は目をそらした。
「代価を取らねえ男に、もらった」
それだけ言って口を閉じ、付き添いの二人も顔を見合わせて黙った。
代価を取らない男。
花の形の印。
アガタは、十年前の坂の噂を思い出していた。
網元の家の子の熱が引いて、みんなが奇跡だと喜んだあとで、腕に貝殻のようなこぶが出たと、坂の人たちがひそひそ話していた。
あのときは怖くて、聞かなかったふりをした。
同じかどうかは、まだ分からない。
分からないことを、この人の前で言えば、怖がらせるだけだ。
湯が沸くのを待つあいだに、ロジーナのそばへ寄って、漁師たちに聞こえない小声で言った。
「ええと……ロジーナさん、あとで、少しだけ。十年くらい前、網元さんの家の子が、熱が引いたあと腕にこぶが出たって、坂で噂になって……同じかどうかは、分からないんですけど」
ロジーナは、灰色の腕から目を離さずに、小さく頷いた。
昼すぎ、施療院の戸口に、痩せて背の高い男が立った。
鼻の下の薄い髭をきれいに整えていて、襟もとでは聖都の灯改めの銀の留め具が光っている。
町に居ついている灯改めだと、アガタも噂で知っていた。
男は片耳に軽く手を当ててベッドの若い漁師の首の花の形の印を指さし、ロジーナに向き直って、奥へ一歩入ろうとする。
「えらいすんまへんなあ、聖都の灯改めのロドルフォいいます。その子の首の花な、帳には無い力を受けた印や。偽りやねん。こっちで改めさせてもらうさかい、連れていかせてもらえまっか」
心臓が、跳ねた。
アガタは布を握ったまま、動けなかった。
ロジーナがベッドの脇から立って戸口まで歩き、男の前で太い腕を戸の柱に突っぱって、体ひとつで奥へ入る道を塞いだ。
「お役目はご苦労さんですけどね、ここは傷を縫う所なんですよ。改めるなら、この子が歩いて出られるようになってからにしてもらいますよ」
ロドルフォは、ロジーナの腕と、ベッドの漁師とを、しばらく黙って見比べてから、帽子を軽く上げた。
「ほな、しゃあないなあ。歩いて出てきはったら、また来させてもらいますわ」
廊下を出口のほうへ戻っていく足音が遠ざかるまで、ロジーナは戸の柱から腕を下ろさなかった。
夜、施療院の明かりが一つだけ残り、若い漁師は奥のベッドで眠っている。
アガタは机の上に施療院の日誌を開いて、明かりを脇へ寄せた。
ロジーナが塞いでくれなかったら、自分は何も言えずに通していた。
ロドルフォは、いつか日誌を見に来るかもしれない。
だから、見たことだけを書き、嘘は書かない。
けれど、分からないことを分かったように書けば、それを理由に、誰かがこの人を連れていく。
網元の家の子のことも噂でしかないから、ここには書かない。
名前も、あの人が自分で言うまでは。
ペンを取って、一行ずつ、間を置きながら書いた。
朝、若い漁師一名、仲間二人に抱えられて来る。
名は伺っていません。
首筋に、灼けたような小さな花の形の印。
印から右の二の腕まで、肌が灰色で、石のように硬く冷たい。
押しても分からない。
指は、まだ少し動く。
熱なし。
腫れなし。
灰色は三日前からと、付き添いの話。
印は、代価を取らない男にもらったと、本人の話。
その男が誰か、何をされたかは、確かめていません。
灰色が何なのかも、確かめていません。
書き終えて、読み返した。
見たものは全部書き、分からないことは分からないと書いた。
いまの自分に書けるのは、ここまでだ。
奥のベッドから、漁師の寝息が聞こえる。
アガタは日誌を閉じずに机の上に置き、インクが乾くまで、明かりは消さなかった。




