最終章 第30話
鉄製の階段を一つ一つ登っていく。
浜風が強く吹き、塩で少し錆びれたこの階段。天国へと続く階段はもっと綺麗なものだと思っていた。
ひとつの疑念を晴らすために、僕は歩みを進める。
平日ということもあってだろうか。並んでいる人はほとんどいなかった。スタッフの人にチケットを渡すと、慣れた手つきで観覧車の入り口を開けられる。
あと、もう少しだ。
観覧車は角度を上げていく。空の景色が徐々に開ける。
家で母と会話をした後、電車を乗り継いでここまで来た。沈みかけていた夕日は、最後の輝きを世界に残すかのように、強い赤を放っている。
「……やっぱり」
いま改めて考えてみると、どこかで既視感があった。
観覧車の先にある海、船、橋、車の群れ。
……全部、僕が小さいときに、ここで見た景色から延長したものだった。
父と母が笑っている僕の唯一の記憶、そのものだった。
――加賀くんには治療が必要なんですっ!
「……セカイも、あの世界も、僕の妄想」
……河野さんの指摘は、あながち間違いじゃないのだろう。
「……」
だがやはり僕にとって、あの記憶は妄想であって妄想じゃない。僕にはセカイも、世界も、はっきりと現実のように見えているのだから。たとえそれが、夢の中での出来事であろうと。
「……もうすぐだよ、セカイ」
独り言をつぶやくと、頂上まであと半分だというアナウンスが流れた。僕は最後の仕上げのためにひとつの確認を取った。
「……やっぱり、素手じゃダメそうだ」
入り口の施錠部分を試しにがちゃがちゃと動かしてみたが、僕の貧弱な力じゃ、ビクともしなかった。
扉を思い切り蹴る。反動をつけた勢いで、観覧車が激しく揺れた。
しかしその勢いと共に、入り口が開くことはない。
「……買っといてよかった」
カバンのチャックを開けて、ホームセンターで買ったハンマーを見た。
ここに来る前から、自分の力じゃ恐らく扉は開かないであろうことは予想できた。
僕は家族以外と観覧車に乗ったことはない。観覧車の扉のロックの仕様も、その時にぼんやりと覚えていたものだった。過去の思い出が、あの世界に旅立つために役立った。
「まもなく、頂上です。高さ百十メートルのパノラマをお楽しみください」
室内にアナウンスが流れる。それを皮切りに僕は一旦、深く息を吸った。
「……うん」
そして、意を決した。
ハンマーを大きく振りかざし、勢いのまま扉の窓ガラスに向けて右手を振り下ろす。
ガラスが割れ、悲劇的な音がする。地上にキラキラと破片が散らばり、振り下ろした右手が窓枠に残ったガラスに引っかかり、血まみれになっていた。
「……」
今まで見たことのない量の出血をしている右手を見て、血が思いの外、濃い色をしていることに僕は気が付く。
想像では、何度も血を見ていた。僕が飛び降りをしたらどうなるのだろう。僕が電車に飛び込んだらどうなるのだろう。そんな想像をする度、それはもちろん凄惨な結末を迎えた。
だがいま僕の腕から溢れだしている血は、自分の想像を遥かに超えた、深い赤だった。それは僕が想像していた血ではなく、紛れもなく本物の血だった。
「……本当に僕は、今から」
どこか他人事だった事実が、一気に現実味を帯びる。要するに僕は怯んだのだ。まれにみる母の笑顔、ときおり触れる他人の優しさ、河野さんの優しさ、ないがしろにしてしまっていいのか。それが一瞬わからなくなり、躊躇ったのだ。
「……」
だがそんな疑念もすぐに掻き消される。自分の失敗がそんなことよりも次々とわき出てきたから。見下され、バカにされ、排他され、具体例を挙げればキリがない事実が、脳裏を渦巻く。
心中で「いいのか」と問答を繰り返し「それでも」と出した結論は、結果的により自分の決意を固くするものだった。
「……いってきます」
観覧車はここのガラスが割れた異常に気づき、全体が止まっていた。僕はいま、一番頂上に位置している。
割った窓枠の上に足を乗せた。スニーカーが半分外に出る。
僕はそのまま、体重を地球に預ける。
「……メ……だ……‥」
すると面白いことに気が付いた。
――ああ、同じじゃないか。
僕の目を通せば、朱い夕焼けも、この綺麗な海も、規則的に過ぎる車も、海に架かる大きな橋も、すべてがあの世界のように、壊れている。
――僕にとって、本当はここが、世界の果てじゃないか。
「……メ……だ……‥よ……‥け」
視界が徐々に、下に落ちていく。
「……」
世界は暗転した。
「……ダメだよ、圭太」
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