第3話
「ただいま」
玄関を開けると、家の中は真っ暗だった。電気をつけ、荷物を置くために自分の部屋に向かうと、隣の部屋から効果音と「ええー」という声が続いた。
「……母さん、テレビみるときは電気つけようよ」
隣の部屋の扉を開くと、母が無表情にこちらを振り返る。そのまま無気力な声で「おかえり」と返事を返した。
「ただいま。ご飯、オムライスでもいい?」
母が僅かに首肯する。すでに母は、テレビの方向に視線を戻していた。それにも関わらず、僕は笑って頷いた。
「それでね、水島が、もうおかしいんだ」
テーブルを挟み、僕の言葉に母がうなずく。お昼ご飯を食べていなかったのだろうか。食べるペースは、いつもより早い気がした。
「近所でおいしいって評判のラーメン屋にいったら、そのスープがぬるかったんだって。ぬるいって、ラーメン屋じゃ中々体験出来ないよね」
水島くんと、加藤くんが昼休みに話していた他愛のない会話を、さも自分が参加しているかのように話した。そんな僕を見て、また母が弱々しく笑みを返す。
「それでそのことを店主に言ったら、もの凄く謝られて、ご飯とかその他諸々サービスしてくれたんだって。やっぱ時代的に、SNSとかで拡散されるとマズいからかな」
僕はおしゃべりな方じゃない。だけど、必死に言葉を探して、話し過ぎて喉が渇くぐらいに喋った。それは僕自身が、沈黙に押し潰されてしまいそうだったから。
「……圭太は、お友達が多くて何よりね」
そのか細い声が母からこぼれたとき、僕の心は動揺し、ひどく虚しくなった。
その虚しさは本当のところその会話が、僕のものではなかったからか。母に嘘をついているという、罪悪感からきたものか。それともその二つが交じり合ったが故の虚しさなのか。
何もかもが、僕にはわからなかった。そしてだからこそ、いまは「ごめんなさい」と、そう謝りたくなった。
ご飯も入浴も済ませ、ヘッドホンで音楽を聴きながら宿題と格闘する。
「公式を応用しろって言ったって、この数字はどこから出てきたんだよ……」
頭を掻きむしって、そのままペンを投げた。提出期限までまだ時間があり、範囲の三分の二を終わらせていた事実が自分を甘くした。
「んー」
ヘッドホンを外し、深く伸びをする。時計の針は、いつのまにか二時を指していた。
「まずい……」
サーッと血の気の引いた感覚が、自分でもよくわかった。三、四時間しか眠れないのでは、明日の授業中眠くなることは必至だ。
スマートフォンで目覚ましを設定し、急いでベッドに入る。三十分程度やる予定だったのに、とんだ誤算だ。
「……」
しかし焦って目をつむっても、脳は数学との格闘で未だ興奮冷めやらない。しばらく眠れないであろうことを確信した僕は、眠気が訪れるまで今日一日の反省をすることにした。僕にやれることなんて、これぐらいだ。
朝、母のスクランブルエッグにケチャップをかけすぎたこと。きっちり六時に起きたのに、現代文のノートを忘れたこと。物理の授業中、先生に指されて、しどろもどろに返答してしまったこと。四限前の十分休み、トイレから戻ったら、僕の机の上で話していた田中さんと、少し気まずくなってしまったこと。
……些細なことの積み重ねであれ、それは山積みのように感じた。皆が簡単に辿りつける正解に、自分だけが辿りつけないという事実は、いたく僕を傷つけた。どうして僕は、みなに追いつけない。悲しい。悲しい。悲しい。その感情だけが、ただ心の中で残響する。
それをかき消すように体を横にすると、まくらに当てた右耳から、地面を這って音が聞こえてきた。
不規則な、鼻をすする音。それが一度、二度ならず、何度も、何度も続いた。
「ぐっ……ぐすっ………………、うっ……」
音は、母の部屋から漏れていた。母が声を殺して、泣いているのだ。
「……また」
しかし、それはなにも今日が初めてのことではなかった。
母の感情は不安定で、定期的にこういうことがあった。僕は母にかけるべき言葉を、未だに見つけられないでいる。
長い時間聞いていたい音じゃなかったので、僕はすぐに体を元の姿勢に戻す。
「……」
そして僕の中で、反省がまた一つ増えた。
僕の必死のリビングでの会話も、何もかもが無駄だった。無力だ。母を慰めることも、元気づけることさえも、僕には出来ない。
「……」
鞄から音楽プレーヤーを取り出して、イヤホンをつける。心地よいギターのイントロが流れて、曲が始まる。音量は、いつもより上げた。
「……ごめんなさい」
そしてその一言を呟いて、僕はそれから、只々必死に目をつぶる。
◆ ◆ ◆
「圭太はさー、学校だとどんな感じなの?」
橋の欄干の上を、セカイが手を広げて器用に歩く。落ちそうな気配は、なぜだか微塵も感じられない。
「……空っぽだよ」
「……ん? か、空っぽ?」
セカイが首をかしげる。
「……空っぽなんだ。何も生み出せない。中に何もないから、誰も興味がわかない。面白いものなんて、何も出てこない」
「……」
「何にもなくて誰かの利益になれないなら、せめて邪魔はしないようにって行動している。でも、失敗ばかりで寧ろ空回りしてる。マイナスしか生み出せないんだ。悲しいよね」
「ふ、ふーん……」
まさか、こんな沈鬱な解答が返ってくると思わなかったのだろう、セカイは気まずそうに汗を垂らした。
「ご、ごめん。何かいきなり語っちゃって。こんなこといきなり言われても困るよね」
「いやいや大丈夫、むしろ本音をぶつけてくれて嬉しいよー」
勢いで言った反動と、セカイの反応で急に恥ずかしさがこみ上げてくる。今より一層、イタい奴だと思われただろう。言うんじゃなかった。
「……まあでも、ワタシは圭太がどんななのかわからないから、下手な言葉はかけれないよ」
「……ああ、有り難いよ」
下手に気を遣わせるよりよっぽど気が楽な、さっぱりした反応だった。
「だからね、ワタシも一緒に悩んであげる」
「え?」
セカイの意図が掴めず、僕は思わずそう聞き返した。
「ワタシ、圭太の心なんてわからないし、どんな言葉をかければいいのかなんて、なおさらわかんない。圭太にとって、一番必要な言葉をかけてあげたいのに。……だから、寄り添ってあげるの。悩むんなら一緒に悩んで、とにかくそばにいてあげる」
セカイは欄干の上から、僕の目の前に着地して、笑顔を見せた。
「ところで、着いたよ」
壊れた橋の先端。ちょうど中央あたりの位置に着くと、一番先に目に付いたのは外に露出した無数の鉄筋だった。そのどれもが茶色く錆びれ、思い思いの方向に曲がっている。
ところどころに生い茂る苔は、時間の経過を象徴している。それと同時に下に広がる海を見下ろして、僕は少し背中が冷える。
「圭太、あそこだよあそこ」
セカイが指さす方向に目をやると、確かにそこには、白い花が一輪咲いていた。
見せたいものがあると、僕の手を引っ張ってセカイは僕を促した。どんな大層なものが現れるのかと思っていたら、それは、小さな白い花だった。小さくて、花びらの先端がギザギザな白い花。
だけどそれは、この世界とはひどく対照的で、とても綺麗だった。
セカイがそっと、花に触れて優しく微笑む。母が子に向けるような、そんな笑みだった。
……彼女は僕をここに連れてきて、一瞬でも僕の闇をめくってくれた。
今日のことを、僕はわすれない。




