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壊れた魔法、直します。~魔法の糸が見える修理屋、世界のほつれまで請け負います~  作者: 雪月 夜狐
第一章:百年目の故障

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第9話 守護竜は、まだ守ろうとしている

 守護竜の胸元へ、もう一度近づく。


 口にするのは簡単だ。実際にやるとなれば、話はまるで違う。


 守護竜は石畳を踏み砕き、赤く光る目で俺たちを追っていた。さっきから片方の翼を引きずっているが、動きが鈍る気配はない。


「ジオ。どうやって近づくつもり?」


「正面は無理だな。胸の下も、もう一度入ったら今度こそ潰される」


「わかってるなら、変なこと考えないでよ」


「窯の横に倒れてる梁、使えないか?」


 崩れたパン屋から斜めに突き出た太い梁。その先は、守護竜の胸の高さに近かった。


 リゼが梁と俺の顔を見比べた。


「……あれを走って跳ぶの?」


「走れるかな」


「私が聞いてるの!」


 正直、足場としては最悪だ。木は焦げ、途中で折れかけている。普段の俺なら、梯子を持ってきて翌日に出直す。


 でも今日は翌日まで待てない。


「剣士、こっちへ来い」


 隊長が短く呼んだ。リゼが振り返ると、隊長は衛兵たちの運ぶ鎖を指さした。


「右の翼に掛ける。長くは押さえられんが、胸の向きは変えられる」


「私が左から誘導します」


「よし。修理屋、お前は二人目の射手の合図で動け」


「了解です」


 隊長は俺の赤く腫れた右手を見たが、何も言わなかった。代わりに、弩を構える部下のところへ戻っていく。


 衛兵たちの鎖には、ところどころ焦げた跡があった。さっき守護竜の脚を捕らえたとき、巻き込まれて転んだ衛兵もいる。彼らだって、まだ痛む身体で踏ん張っている。


 ここで俺が怖いからやめると言ったら、隊長はきっと責めない。それが逆に、胸に刺さった。


 ここで問われるのは腕前じゃない。自分の持ち場を、最後までやれるかどうかだ。


 俺は工具箱から銀の留め具を一つ取り出し、左手の袖口に引っ掛けた。右手は針を握るだけで痛む。落としたときのために、針の柄を細い紐で手首へ結んでおく。


「ジオ」


 リゼが俺の前に立った。


「登りきれなかったら、すぐ下りて。今度は引っ張り出せる位置にいて」


「……わかった」


「返事が素直だと、逆に心配になるわね」


「今、反抗期を迎えたほうがいい?」


「余計な元気は取っておいて」


 リゼが小さく笑った。その笑顔はすぐに消え、剣を握る手に力がこもる。


 彼女の剣は、何度も石を受けて刃こぼれしていた。いつも店で手入れをするときは、刃の小さな傷ひとつ見逃さないくせに、今はそんなことを気にしていられないらしい。


 俺はその剣を直せない。魔法の糸が使われていない、ごく普通の鋼だからだ。そんな当たり前のことが、今日は妙にもどかしかった。


 そして、動いた。


 崩れた陳列棚を蹴って跳び、守護竜の左脚へ斬り込む。刃は石の継ぎ目を叩き、細かな欠片を散らした。


 守護竜の首がリゼを向く。


「今だ、掛けろ!」


 隊長の命令で弩が鳴った。


 鉤のついた鉄の矢が飛び、守護竜の右の翼の骨組みに引っ掛かる。続けて鎖が張り、衛兵たちが支柱を使って引き絞った。


 ぐらり、と守護竜の身体が傾く。


 鎖を握る衛兵の足元で石畳が削れた。守護竜が力任せに動けば、鎖はすぐに切れるだろう。


 隊長が先に柱の裏へ下がり、部下たちを一人ずつ退避させているのが見えた。守護竜を止めるためとはいえ、誰かを鎖の犠牲にするつもりはないのだ。


 その姿を見て、少しだけ腹が据わった。俺は針を使う。隊長は人を守る。リゼはその両方をつなぐ。ちゃんと、役割がある。


「修理屋! 行け!」


 俺は走った。


 倒れた梁に足を掛ける。靴の裏で焦げた木が砕け、身体が横へ流れた。


「おっと、待て待てっ!」


 両手を広げて踏みとどまる。


 下を見れば、折れた棚と割れた煉瓦。落ちたら痛いでは済まない。


「ジオ、足元!」


「見ないようにしてる!」


「ちゃんと見て!」


 無茶を言う。見たら余計に怖いんだが。


 それでも一歩、もう一歩。


 梁の先へたどり着いたところで、守護竜が身体を振った。


 鎖が大きく鳴る。


「隊長、支柱が!」


「離せ! 巻き込まれるぞ!」


 衛兵たちが鎖から手を離す。守護竜の翼が跳ね、巨体がこちらへ戻ってきた。


 目の前に石の胸が迫る。


「うわっ――!」


 飛ぶしかなかった。


 俺は梁を蹴り、守護竜の胸の鱗へしがみついた。左手が石の段差をつかむ。足が空を蹴り、腹の下を風が抜けた。


 高い。


 こんな高さから落ちたら、しばらく朝飯が喉を通らなくなる。いや、その前に食事どころじゃなくなるか。


「ジオ、つかまってて!」


 リゼの剣が頭上で鳴った。守護竜の爪を斜めに受け流し、俺のいる側からそらしてくれている。


 石の爪は彼女の肩先をかすめ、背後の壁に深々と刺さった。リゼは身を低くしてその下を抜け、すぐに守護竜の正面へ回る。踏み込むたびに靴底が瓦礫を蹴り、細かな石が跳ねた。


 息が荒くなっているのが、ここからでもわかる。時間を作ってくれているのに、俺が迷っていたら意味がない。


「つかまってる! ここから先が問題だ!」


 左腕だけで身体を支え、右手の針を構える。


 目を凝らすと、胸の内側を走る糸が浮かんだ。


 黒い糸。その奥で、細く震える金色の糸。


 黒い糸を表から引くたび、金色の糸まで締まる。何度も試して、痛いほどわかった。


 なら、逆だ。


 金色の糸を引っ張るのではなく、締めつけている輪の内側へ針を通す。


 俺は黒い糸の重なりを、一つずつ見分けた。


「……ここか」


 ごく細い隙間へ針先を入れる。


 じりっ、と指に痛みが走った。思わず力が入り、銀の針が震える。


 違う。力でこじ開けたら、さっきまでと同じだ。


 俺は一度手を止めた。


『ほどくときは、結んだ順番を考えろ』


 先代の声が頭をよぎる。


 子どもの頃、仕事で使う紐を絡ませて叱られたことがあった。先代は俺から紐を取り上げず、隣に座って最初の輪を探してくれた。


『急いで引っ張るから、余計に固くなるんだ』


 あのときは、紐の結び目一つでずいぶん偉そうだと思った。


 今になって、身に染みている。


 黒い糸の上を目でたどる。一本の端が金色の糸をくぐり、さらに別の黒い輪へ入っていた。


 端からほどくんじゃない。


 最初に通された輪を、少し持ち上げるんだ。


 針をゆっくり返した。


 黒い輪が、ほんのわずかに浮く。


 同時に金色の糸が、ふっと太くなった。


「……動いた」


 守護竜の赤い目に、青い光が混じった。


 足元では、翼が焼き窯を覆うように下がっている。守護竜は暴れながらも、まだあの場所を庇おうとしていた。


 百年前の誰かが、この街に残した約束。


 人々が明日も、温かいものを食べられるように。


「お前、ずっと守ろうとしてたんだな……」


 喉の奥が少し熱くなった。


 けれど、次の瞬間だった。


 黒い輪が、ぐい、と元の位置へ引き戻された。


「っ、なんで!」


 金色の糸が再び細くなる。


 何かが、輪を締め直している。


 俺が触っていない場所から。


 胸の鱗の陰で、黒い糸がぴんと張った。


 目で追う。


 黒い糸は結び目からさらに上へ伸び、石の鱗の継ぎ目へ消えていた。


「……中だけで閉じてるんじゃないのか?」


 鱗の縁に、爪ほどの黒い金具が見えた。古い石の色になじまない、新しい傷までついている。


 金具の穴から黒い糸が伸び、胸の奥へ引き込まれていた。


 普通の修理屋が使う留め具と、形が似ている。


 魔法の糸が見えなくても、こんな金具を取り付けることならできる。


 誰かが、守護竜の身体に打ち込んだのだ。


「ジオ! 離れて! もう抑えられない!」


 リゼの声が響く。


 守護竜の肩が大きく震え、胸の鱗が持ち上がった。


 俺は石の段差へしがみついたまま、金具を見つめる。


 誰が。何のために。


 そんなことは、今はどうでもいい。


 まずは、あれを外さなきゃならない。


 だが、金具へ伸ばした右手は、痛みでほとんど動かなかった。


 守護竜が、低く唸る。


 黒い靄が、俺のすぐ横の鱗から噴き出した。黒い金具だけが、その靄の中でも妙にはっきりと見える。抜けば止まるかもしれない。でも、無理に抜いて金色の糸までちぎれば、今度こそ守護竜を壊してしまう。


 右手に力が入らない。左手を離せば落ちる。


 下からリゼが俺を見上げ、走り出そうとしていた。だが、今いる場所はもう彼女の剣の届く高さではなかった。


 足元の石畳が遠ざかり始めた。


 ……まずい。


 守護竜が、翼を広げて立ち上がろうとしていた。

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