第9話 守護竜は、まだ守ろうとしている
守護竜の胸元へ、もう一度近づく。
口にするのは簡単だ。実際にやるとなれば、話はまるで違う。
守護竜は石畳を踏み砕き、赤く光る目で俺たちを追っていた。さっきから片方の翼を引きずっているが、動きが鈍る気配はない。
「ジオ。どうやって近づくつもり?」
「正面は無理だな。胸の下も、もう一度入ったら今度こそ潰される」
「わかってるなら、変なこと考えないでよ」
「窯の横に倒れてる梁、使えないか?」
崩れたパン屋から斜めに突き出た太い梁。その先は、守護竜の胸の高さに近かった。
リゼが梁と俺の顔を見比べた。
「……あれを走って跳ぶの?」
「走れるかな」
「私が聞いてるの!」
正直、足場としては最悪だ。木は焦げ、途中で折れかけている。普段の俺なら、梯子を持ってきて翌日に出直す。
でも今日は翌日まで待てない。
「剣士、こっちへ来い」
隊長が短く呼んだ。リゼが振り返ると、隊長は衛兵たちの運ぶ鎖を指さした。
「右の翼に掛ける。長くは押さえられんが、胸の向きは変えられる」
「私が左から誘導します」
「よし。修理屋、お前は二人目の射手の合図で動け」
「了解です」
隊長は俺の赤く腫れた右手を見たが、何も言わなかった。代わりに、弩を構える部下のところへ戻っていく。
衛兵たちの鎖には、ところどころ焦げた跡があった。さっき守護竜の脚を捕らえたとき、巻き込まれて転んだ衛兵もいる。彼らだって、まだ痛む身体で踏ん張っている。
ここで俺が怖いからやめると言ったら、隊長はきっと責めない。それが逆に、胸に刺さった。
ここで問われるのは腕前じゃない。自分の持ち場を、最後までやれるかどうかだ。
俺は工具箱から銀の留め具を一つ取り出し、左手の袖口に引っ掛けた。右手は針を握るだけで痛む。落としたときのために、針の柄を細い紐で手首へ結んでおく。
「ジオ」
リゼが俺の前に立った。
「登りきれなかったら、すぐ下りて。今度は引っ張り出せる位置にいて」
「……わかった」
「返事が素直だと、逆に心配になるわね」
「今、反抗期を迎えたほうがいい?」
「余計な元気は取っておいて」
リゼが小さく笑った。その笑顔はすぐに消え、剣を握る手に力がこもる。
彼女の剣は、何度も石を受けて刃こぼれしていた。いつも店で手入れをするときは、刃の小さな傷ひとつ見逃さないくせに、今はそんなことを気にしていられないらしい。
俺はその剣を直せない。魔法の糸が使われていない、ごく普通の鋼だからだ。そんな当たり前のことが、今日は妙にもどかしかった。
そして、動いた。
崩れた陳列棚を蹴って跳び、守護竜の左脚へ斬り込む。刃は石の継ぎ目を叩き、細かな欠片を散らした。
守護竜の首がリゼを向く。
「今だ、掛けろ!」
隊長の命令で弩が鳴った。
鉤のついた鉄の矢が飛び、守護竜の右の翼の骨組みに引っ掛かる。続けて鎖が張り、衛兵たちが支柱を使って引き絞った。
ぐらり、と守護竜の身体が傾く。
鎖を握る衛兵の足元で石畳が削れた。守護竜が力任せに動けば、鎖はすぐに切れるだろう。
隊長が先に柱の裏へ下がり、部下たちを一人ずつ退避させているのが見えた。守護竜を止めるためとはいえ、誰かを鎖の犠牲にするつもりはないのだ。
その姿を見て、少しだけ腹が据わった。俺は針を使う。隊長は人を守る。リゼはその両方をつなぐ。ちゃんと、役割がある。
「修理屋! 行け!」
俺は走った。
倒れた梁に足を掛ける。靴の裏で焦げた木が砕け、身体が横へ流れた。
「おっと、待て待てっ!」
両手を広げて踏みとどまる。
下を見れば、折れた棚と割れた煉瓦。落ちたら痛いでは済まない。
「ジオ、足元!」
「見ないようにしてる!」
「ちゃんと見て!」
無茶を言う。見たら余計に怖いんだが。
それでも一歩、もう一歩。
梁の先へたどり着いたところで、守護竜が身体を振った。
鎖が大きく鳴る。
「隊長、支柱が!」
「離せ! 巻き込まれるぞ!」
衛兵たちが鎖から手を離す。守護竜の翼が跳ね、巨体がこちらへ戻ってきた。
目の前に石の胸が迫る。
「うわっ――!」
飛ぶしかなかった。
俺は梁を蹴り、守護竜の胸の鱗へしがみついた。左手が石の段差をつかむ。足が空を蹴り、腹の下を風が抜けた。
高い。
こんな高さから落ちたら、しばらく朝飯が喉を通らなくなる。いや、その前に食事どころじゃなくなるか。
「ジオ、つかまってて!」
リゼの剣が頭上で鳴った。守護竜の爪を斜めに受け流し、俺のいる側からそらしてくれている。
石の爪は彼女の肩先をかすめ、背後の壁に深々と刺さった。リゼは身を低くしてその下を抜け、すぐに守護竜の正面へ回る。踏み込むたびに靴底が瓦礫を蹴り、細かな石が跳ねた。
息が荒くなっているのが、ここからでもわかる。時間を作ってくれているのに、俺が迷っていたら意味がない。
「つかまってる! ここから先が問題だ!」
左腕だけで身体を支え、右手の針を構える。
目を凝らすと、胸の内側を走る糸が浮かんだ。
黒い糸。その奥で、細く震える金色の糸。
黒い糸を表から引くたび、金色の糸まで締まる。何度も試して、痛いほどわかった。
なら、逆だ。
金色の糸を引っ張るのではなく、締めつけている輪の内側へ針を通す。
俺は黒い糸の重なりを、一つずつ見分けた。
「……ここか」
ごく細い隙間へ針先を入れる。
じりっ、と指に痛みが走った。思わず力が入り、銀の針が震える。
違う。力でこじ開けたら、さっきまでと同じだ。
俺は一度手を止めた。
『ほどくときは、結んだ順番を考えろ』
先代の声が頭をよぎる。
子どもの頃、仕事で使う紐を絡ませて叱られたことがあった。先代は俺から紐を取り上げず、隣に座って最初の輪を探してくれた。
『急いで引っ張るから、余計に固くなるんだ』
あのときは、紐の結び目一つでずいぶん偉そうだと思った。
今になって、身に染みている。
黒い糸の上を目でたどる。一本の端が金色の糸をくぐり、さらに別の黒い輪へ入っていた。
端からほどくんじゃない。
最初に通された輪を、少し持ち上げるんだ。
針をゆっくり返した。
黒い輪が、ほんのわずかに浮く。
同時に金色の糸が、ふっと太くなった。
「……動いた」
守護竜の赤い目に、青い光が混じった。
足元では、翼が焼き窯を覆うように下がっている。守護竜は暴れながらも、まだあの場所を庇おうとしていた。
百年前の誰かが、この街に残した約束。
人々が明日も、温かいものを食べられるように。
「お前、ずっと守ろうとしてたんだな……」
喉の奥が少し熱くなった。
けれど、次の瞬間だった。
黒い輪が、ぐい、と元の位置へ引き戻された。
「っ、なんで!」
金色の糸が再び細くなる。
何かが、輪を締め直している。
俺が触っていない場所から。
胸の鱗の陰で、黒い糸がぴんと張った。
目で追う。
黒い糸は結び目からさらに上へ伸び、石の鱗の継ぎ目へ消えていた。
「……中だけで閉じてるんじゃないのか?」
鱗の縁に、爪ほどの黒い金具が見えた。古い石の色になじまない、新しい傷までついている。
金具の穴から黒い糸が伸び、胸の奥へ引き込まれていた。
普通の修理屋が使う留め具と、形が似ている。
魔法の糸が見えなくても、こんな金具を取り付けることならできる。
誰かが、守護竜の身体に打ち込んだのだ。
「ジオ! 離れて! もう抑えられない!」
リゼの声が響く。
守護竜の肩が大きく震え、胸の鱗が持ち上がった。
俺は石の段差へしがみついたまま、金具を見つめる。
誰が。何のために。
そんなことは、今はどうでもいい。
まずは、あれを外さなきゃならない。
だが、金具へ伸ばした右手は、痛みでほとんど動かなかった。
守護竜が、低く唸る。
黒い靄が、俺のすぐ横の鱗から噴き出した。黒い金具だけが、その靄の中でも妙にはっきりと見える。抜けば止まるかもしれない。でも、無理に抜いて金色の糸までちぎれば、今度こそ守護竜を壊してしまう。
右手に力が入らない。左手を離せば落ちる。
下からリゼが俺を見上げ、走り出そうとしていた。だが、今いる場所はもう彼女の剣の届く高さではなかった。
足元の石畳が遠ざかり始めた。
……まずい。
守護竜が、翼を広げて立ち上がろうとしていた。




