第10話 守護竜を壊したのは、誰だ
石の翼が、音を立てて開いた。
守護竜の胸にしがみついたまま、俺の足が宙を蹴る。
「うわっ、待て! 飛ぶな! 整備中だぞ!」
もちろん守護竜が聞いてくれるはずもない。足元の瓦礫が小さくなり、黒い靄が顔の横をかすめた。
左手は鱗の段差をつかんでいる。右手は銀の針を握るだけで精いっぱい。ここで指が滑ったら、地面まで一直線だ。
「ジオ! 左の継ぎ目に足を!」
下からリゼの声が飛ぶ。
言われたとおり靴先を突っ込むと、ようやく身体が安定した。いや、石造りの守り神の胸で休憩している時点で、何も安定していない気がする。
「修理屋! 顔を伏せろ!」
隊長の怒声。
反射的に顎を引いた直後、頭上を鉄の鉤が通り過ぎた。
鉤は守護竜の肩の突起に引っかかり、太い鎖がぴんと張った。地上では衛兵たちが巻き取り機を回している。
「引け! 浮かせるな! 足が着くまで押さえろ!」
巻き取り機が悲鳴を上げた。
守護竜の身体が横に傾き、広げかけた翼が壊れた店の屋根をかすめる。それでも地面を離れかけていた前脚が、再び石畳を踏んだ。
隊長の判断がなければ、俺は今頃、鐘楼より高いところで後悔していたに違いない。
「隊長さん! 胸に黒い金具があります! そいつが魔法を締めつけてる!」
「外せるのか!」
「俺の手じゃ無理です!」
右手はもう言うことを聞かない。左手を離せば落ちる。
言い訳じゃなく、現実だった。
「リゼ! 胸の右側、黒い留め具だ! あれを緩めたい!」
「見えた! でも、そこまで届かない!」
リゼは崩れた二階の外壁へ駆け上がり、窓枠から守護竜の翼を見上げた。距離はまだ数歩分ある。
隊長が地上で腕を振る。
「剣士! 鎖を伝え! 修理屋の腰を支えろ!」
「了解!」
リゼが窓枠を蹴った。
宙で鎖をつかみ、勢いを殺しながら守護竜の肩へ着地する。石の表面を滑り落ちかけた彼女は、剣を鱗の継ぎ目へ差し込んで踏みとどまった。
普通なら拍手ものだ。でも今は、彼女まで落ちそうで心臓に悪い。
「ジオ、左手は離さないで。私が支える!」
リゼが俺の作業着の腰帯をつかんだ。
身体が引き上げられる。ようやく右腕を動かす余裕ができたが、指が腫れて工具を握れない。
「……悪い。金具、頼めるか」
「何をすればいい?」
「いきなり抜くな。先に半回転だけ緩めてくれ。黒い糸を押さえてる力を抜きたい」
工具箱から短い六角レンチを抜き、リゼへ渡した。
彼女は金具に手を伸ばす。
ぎり、と音がした。
「固い!」
「石に食い込んでる。無理に回すと折れる!」
「じゃあ、どうするの」
「少し戻して、もう一回。固いねじは一気に回すなって、先代が――」
「わかった。説明はあとで聞く!」
リゼは余計な力を抜き、レンチを小さく往復させた。
かちり。
金具が、ほんのわずかに浮いた。
その瞬間、俺の目にだけ見える黒い糸が緩んだ。
「そうだ。そのまま止めて!」
ここからは俺の仕事だ。
銀の針を左手へ持ち替える。利き手じゃない。震えるし、針先も定まらない。
けれど、黒い糸がどこを通っているかは見える。
金具から伸びる黒い輪の内側へ針を差し込み、絡め取られていた青い糸を一本ずつ逃がした。
守護竜の肩が跳ねる。
「っ……ジオ、揺れる!」
「まだ抜かないでくれ!」
「わかってる!」
地上で石が割れる音。巻き取り機を支える支柱が、根元から傾き始めていた。
「隊長! 支柱がもちません!」
「固定具を捨てろ! 退避路へ下がれ!」
隊長は守護竜を押さえるよりも、部下を逃がすことを選んだ。
鎖が緩む。守護竜が首を持ち上げた。
赤い光が喉の奥に集まっていく。
まずい。今ここで炎を吐かれたら、リゼも俺も逃げられない。
だが、火口は俺たちのほうではなく、下街の家並みへ向いていた。
「隊長さん! 家のほうに炎が!」
「見えている! 全員、通りから離れろ!」
隊長は盾を掲げ、最後に残った住民を路地へ押し込む。
俺は黒い糸を追いながら、奥の金色の糸を見た。
焼き窯から届く『平常』の知らせが、まだ細く光っている。守護竜の本来の命令は、ちゃんと残っているんだ。
なのに黒い輪が、その光を外へ押し出している。
急ぐな。順番だ。
最初に通された輪を浮かせる。次に、その下の青い糸を外す。もう一本。
指先が痺れた。
「ジオ、息をして」
リゼの声で、自分が息を止めていたことに気づいた。
「……言われなくても、その予定だ」
「なら、ちゃんと実行して」
腰を支える腕に力がこもる。
俺は一度息を吸い、最後の青い糸を黒い輪から逃がした。
金色の糸が、ふっと明るくなる。
「リゼ、今だ。金具を抜いて!」
彼女がレンチを回し、浮いた金具を指でつまむ。
ずるり、と黒い金具が抜けた。
途端に黒い糸が跳ね上がる。
金色の糸へ食いつこうとする、その手前。
俺は銀の針を差し込んだ。
「……そっちは、お前の場所じゃない!」
針をひねり、黒い輪を外側へ返す。
ぱちん、と何かが弾けた。
黒い糸がほどけ、煙のように散る。
同時に、守護竜の身体から力が抜けた。
「ジオ!」
「まずい、落ちる!」
リゼは俺の腰帯を引き寄せ、そのまま守護竜の肩から跳んだ。
背後で守護竜の巨体が沈む。
すさまじい音とともに、守護竜は広場へ膝をついた。翼は焼き窯を覆うようにたたまれ、倒れ込む寸前で静止する。
リゼと俺は、粉塵の中へ転がった。
「いっ……! 今ので俺の背骨、無事か?」
「口が動いてるから、あとで確かめられるわ」
「その診断、だいぶ雑だぞ……」
リゼは返事をせず、守護竜を見上げた。
俺もつられて顔を上げる。
黒い靄は消えていた。
赤かった両目が、ゆっくり青へ変わっていく。
守護竜は立ち上がらない。ただ焼き窯を翼の内側に残したまま、静かにうずくまっていた。
終わった、のか。
俺は針を持った左手を見つめる。指が震えている。右手は相変わらず痛い。
その肩を、隊長の大きな手がつかんだ。
「修理屋。動くな。治療班を呼んである」
「でも、守護竜の点検が……」
「後だ。まずお前の手だ」
短く言い切ると、隊長は部下へ周囲の安全確認を命じた。
リゼは何も言わず、俺の手から銀の針をそっと抜き取る。
「……よく頑張ったわね」
「珍しく優しいな」
「あとで怒る分は残してあるから」
「それは聞きたくなかった」
少し笑えた。やっと、息ができる気がした。
そのとき、リゼの手の中で小さな金属音が鳴った。
引き抜いた黒い金具だ。
表面は煤で汚れていたが、裏側には細かな加工の跡があった。石から長い年月をかけて生まれた亀裂とは違う。まっすぐな切削痕。新しいねじ山。
そして、根元に刻まれた小さな番号。
「……これ、古い部品じゃないな」
隊長が振り向いた。
「どういうことだ」
「守護竜が作られた百年前のものじゃありません。最近、誰かが取り付けた金具です」
隊長の表情が険しくなる。
「誰かが、意図して守護竜を暴れさせたと?」
「それはまだ、わかりません。でも、勝手につくような部品じゃない」
金具には、針で引っかいたような三本の線が刻まれていた。
製作者の印なのか、別の意味があるのか。俺には見当もつかない。
守護竜はもう暴れていない。
メル婆さんもトトも無事だった。
それなのに、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。
もし誰かが、あの金具を打ち込んだのなら。
その誰かは、百年かけて守ってきた街を壊すと知っていたのだろうか。
俺はリゼの手の中の金具を見つめた。
修理が終わったあとに、こんな疑問が残るなんて。
「……誰が、守護竜を壊したんだ?」




