第11話 壊れたパン屋と、三枚の銅貨
翌朝、ベルナの下街には、いつものパンの匂いがなかった。
窓を開けると、焦げた木と濡れた石の匂いが流れ込んでくる。広場へ続く道には砕けた瓦が積まれ、見慣れた家の壁に白い布が張られていた。
昨日まで当たり前だった景色が、一晩で変わってしまった。
「……静かだな」
「まだ朝が早いもの。それと、あなたは起きなくていいの」
背後からリゼの声がした。
振り返ると、彼女は洗った布を腕に抱えて立っていた。自分だって肩に湿布を貼っているくせに、もう普段どおり働く気らしい。
「俺も店主として働こうかと」
「昨日、治療師になんて言われた?」
「右手を休ませろ、と」
「それだけ?」
「……左手も無理に使うな、と」
「よく覚えてるじゃない」
俺の両手には包帯が巻かれている。銀の針を使いすぎた右手は指を曲げるだけで痛み、左手も薄く火傷していた。
「せめて工具箱くらい持たせてくれ」
「蓋を開けられないのに?」
「精神的な支えになる」
「それなら私が持つわ」
反論できない。工具箱にまで面倒を見られる日が来るとは。
結局、俺はリゼの監視つきで広場へ出た。
守護竜は鐘楼へ戻されず、広場の端で翼をたたんでいた。青い目は閉じ、胸には検査用の札が何枚も貼られている。周囲には柵が立てられ、衛兵が見張っていた。
昨夜のうちに専門の技師が到着し、守護竜の魔晶石と術式を調べているらしい。大がかりな魔導具を動かすには、俺の針よりずっと多くの人手と道具が必要だ。
「修理屋」
柵の向こうから隊長が声をかけてきた。
「手はどうだ」
「見た目ほど悪くないです」
「なら、その見た目が治るまで休め」
短い言葉で片づけられた。
隊長は続けて、昨日の黒い金具を証拠として保管したことを教えてくれた。番号と三本の線は記録したが、どの工房の品かはまだわからないという。
「修理屋。部品の出どころがわかれば知らせる。勝手に探るな」
「……顔に出てました?」
「出ている」
そう言うと、隊長は巡回へ戻っていった。あの人の前では、隠し事に向いていないらしい。
広場の向かいに目をやる。
そこには、屋根を失ったパン屋があった。
柱は折れ、壁は半分以上崩れている。焼き窯だけが瓦礫の中に残っていた。その前で大工たちが図面を広げ、曲がった梁を指さして話し合っている。
「ジオ!」
メル婆さんが、長椅子から片手を上げた。肩には包帯が巻かれ、顔色もまだよくない。それでも声だけは昨日までと同じだ。
「よく来たねえ。あんた、手は?」
「しばらく使い物になりません」
「そりゃ困った。あたしも肩が上がらないんだよ」
「じゃあ、今日は二人で見張り番ですね」
「いいねえ。あんたがサボらないか見張ってやるよ」
「俺だけ監視対象!?」
メル婆さんが笑った。けれど視線が店へ向くと、その笑みはゆっくり消えた。
「……また、ここで焼けるかねえ」
答えに詰まった。
焼き窯が無事でも、屋根がなければ雨に濡れる。煙突が曲がっていれば火も焚けない。魔導具の修理だけで解決できる話じゃなかった。
そのとき、太い声が飛んできた。
「おい、通り道を空けてくれ。材木が通るぞ!」
大工の親方が、若い職人たちと梁を担いで現れた。後ろから靴屋の爺さんが縄を運び、花屋の娘が飲み水を配っている。
親方は壊れた壁を見上げ、顎をさすった。
「基礎は生きてる。だが柱は入れ替えだ。見栄えを気にするのは後にしな」
「屋根はすぐに付きますか?」
俺が尋ねると、親方は鼻を鳴らした。
「付くかどうかじゃねえ。安全に付けるまで店を開けるなって話だ」
……そりゃそうだ。
俺は魔法の縫い目なら見える。でも、梁の強度も煙突の傾きも、専門家の目にはかなわない。
さらに街の魔導具組合から来た技師が、焼き窯の点検を始めていた。検査鏡で術式を追い、温度計を差し込む。俺が何か言う前に、彼女はきっぱり告げた。
「炉心は無事。でも排気路に亀裂がある。ここを塞ぐまでは点火禁止よ」
「了解です。俺は見てるだけにします」
「その包帯なら、それが一番助かるわ」
少し悔しい。でも、そのとおりだった。
みんな、自分にできることを持ち寄っている。
守護竜を止めたときと、同じだ。
「ジオ兄ちゃん」
服の裾を引かれた。
トトが立っていた。昨日と同じ前掛けだが、小麦粉の代わりに木屑がついている。
「これ、使えるかな」
差し出された手のひらには、銅貨が三枚。
井戸が壊れた朝、俺に渡そうとしたものだった。
「……まだ持ってたのか」
「うん。ぼく、何か買ってくる。お店に必要なもの」
トトは大工たちを見つめた。
「ぼくじゃ屋根は作れないけど、何もしないのは嫌なんだ」
俺は三枚の銅貨を見つめた。
木の剣を買うために、少しずつ貯めた金だ。簡単に使わせていいものじゃない。
「トト。それはお前の金だ。ばあちゃんのために、全部使わなくてもいいんだぞ」
「……でも、ぼくが決めたらだめ?」
顔を上げたトトの目は、まっすぐだった。
俺は口を閉じた。
ああ、そうか。
この子は、誰かに守られているだけじゃ嫌なんだ。
「だったら、親方に聞いてみよう。三枚で買える、ちゃんと役に立つものがあるか」
親方は銅貨とトトを交互に見て、少し考えた。
「小釘の袋なら買えるな。窓枠を仮留めするのに使う」
「それがいい!」
「ただし、お前が打つんじゃねえぞ。釘は俺たちが打つ。買ってきて運ぶのがお前の仕事だ」
「うん!」
トトは大きくうなずいた。
メル婆さんがその後ろ姿を見送り、膝の上で両手を重ねた。
「あの子、木の剣を楽しみにしてたのにねえ」
「また貯められますよ」
「そうだね。でも、あの三枚を使ったことは忘れないだろうね」
俺も、たぶん忘れない。
昼過ぎには、瓦礫の山が少し低くなっていた。親方たちは窓枠に仮の板を打ちつけ、組合の技師は排気路に補修材を塗り込んでいる。
俺は椅子を運ぶことすら許されず、作業の順番を書き留める係になった。字を書くたび右手が痛むので、結局リゼに代筆を頼んだ。
「本当に何もしてないな、俺」
「してるわよ。どの魔導具を先に点検するか、ちゃんと決めてたでしょ」
「それくらい、誰でもできる」
「なら、ほかの人ができることも任せて」
返す言葉がなかった。
日が傾く頃、親方が仮の窓枠を叩いて確かめた。
「今日はここまでだ。窯を使うのは、煙突を組み直してからだぞ」
「わかってるよ。職人の言うことは聞くさ」
メル婆さんが答える。
まだパンは焼けない。屋根もないし、工事の予定さえ全部は決まっていない。
それでも、昨日は瓦礫に埋もれていた店に、新しい木の匂いがしていた。
トトが窓枠へ近づく。
「これ、ぼくの釘?」
「そうだ。三枚分、ちゃんと使ったぞ」
親方が指さすと、トトは釘の頭を一つずつ数え始めた。途中で数がわからなくなり、最初から数え直している。
その姿を見て、メル婆さんが声を立てて笑った。
「そんなに見つめても、パンは出てこないよ」
「わかってる。でも、ぼくが買ったんだ」
「そうだねえ」
メル婆さんの目が、少しだけ赤くなった。
俺は壊れた店を見上げる。
修理っていうのは、魔法の糸をつなぐことだけじゃない。
折れた柱を立て直す人がいる。煙突の亀裂を見つける人がいる。三枚の銅貨で、小さな釘を買ってくる子どももいる。
それぞれが、自分にできることをやる。
その積み重ねで、明日の暮らしは戻ってくるのかもしれない。
「ジオ兄ちゃん!」
トトが振り向いた。
「お店が直ったら、最初のパン、一緒に食べようね!」
「ああ。約束だ」
今度の約束は、守りたい。
広場の端では、守護竜が静かに翼をたたんでいた。
百年間、街を守ってきた守り神。
その胸に誰が黒い金具を打ち込んだのか、まだわからない。
だけど、その謎を追うのは明日でいい。
今日は、新しい窓枠を眺めながら、パンの焼ける日を待とう。




