第12話 三本線の工房印
事件から二日が過ぎた。
守護竜はまだ広場の端で眠っている。鐘楼には足場が組まれ、通りには大工の槌の音が戻り始めていた。
そして俺の右手には、相変わらず包帯が巻かれている。
「……パンが食えない」
「目の前にあるでしょ」
「ちぎれないんだよ」
向かいの店が休業中なので、今朝の食卓にあるのは上街の硬い黒パンだ。左手で押さえようにも、そっちの指先までひりつく。
リゼは俺の手元を一瞥すると、パンを小さく切り分けて皿に戻した。
「はい。これなら食べられるでしょ」
「介護される日が来るとはな……」
「嫌なら一人で頑張って」
「ありがたくいただきます」
ひとかけら口に入れる。噛み応えは十分。メル婆さんの丸パンが恋しくなる味だった。
そこへ、店の扉が三度叩かれた。
「修理屋、いるか」
聞き覚えのある低い声。リゼが扉を開けると、衛兵隊長が立っていた。いつもの鎧ではなく、濃い灰色の上着を着ている。
「手は」
「まだ治ってません」
「なら、今日は触るな。目だけ貸せ」
隊長はそう言って、小さな封書を差し出した。表には衛兵詰所の印章。
どうやら俺の休暇は、朝飯の途中で終わったらしい。
◇
詰所の一室には、見覚えのある女性が待っていた。
パン屋の焼き窯を点検していた、魔導具組合の技師だ。短くまとめた黒髪に、袖をまくった作業服。机の上には検査鏡と薄い帳面が並んでいる。
「組合のイネスです。先日は、名乗る暇もありませんでしたね」
「ジオです。窯の排気路、その後どうなりました?」
「補修材は乾きました。煙突が組み直されれば試運転できます。大工さんのほうが早く終わりそうですよ」
それはいい知らせだ。
イネスさんはにこりともせず、机の中央を指した。
透明な保管箱の中に、黒い金具が入っていた。
守護竜の胸から、リゼが引き抜いたものだ。
「触らずに見てください。まだ証拠品です」
隊長が椅子を引いた。
「修理屋。お前が見た黒い糸は、まだあるのか」
俺は箱へ目を凝らした。
金具の周りには、あの日のような黒い糸は見えない。ただ、ねじ山の奥に細い傷が走り、その縁で青白い魔力の名残がかすかに滲んでいた。
「糸は消えてます。今見えるのは、魔力が通った跡くらいです」
「それなら、普通の検査器でも測定できます」
イネスさんが小さな針を検査鏡へ合わせた。目盛りはわずかに揺れ、すぐ止まる。
「残留魔力は微量。これだけで細工の種類は断定できません。ただし、金具そのものには異常があります」
彼女が帳面を開き、寸法の書かれた図を見せた。
「ねじの根元に、魔力を逃がす溝があります。本来は余分な力を外へ流すためのもの。でも、この品は溝が途中で潰れている」
「じゃあ、欠陥品?」
「ええ。正しく取り付けても内部に負荷がたまる。守護竜のような大型魔導具には、絶対に使わせません」
俺は金具を見つめた。
あの黒い糸は、この金具に引っ掛けられていた。誰かが最初から不良品を選んだのか。それとも、壊れたものを都合よく使ったのか。
「三本線は工房の印じゃないんですか?」
「そこが今回の収穫です」
イネスさんは図の端を指で叩いた。
「製造元の印ではありません。これは組合が廃棄品につける刻印。三本線は『再使用禁止』の意味です」
「……待ってください」
言われたことを、頭の中で組み立て直す。
「じゃあ誰かが、捨てるはずの金具を拾って、守護竜につけた?」
「そこまではわかりません。廃棄の前に持ち出された可能性もあります」
イネスさんの声は落ち着いていた。わかったことと、推測をきっちり分ける。技師として、信用できる話し方だと思った。
隊長は腕を組んだまま、黙って聞いている。
「製造番号は追えました」とイネスさんが続けた。「この一個は、六週間前の検査で不合格になっています」
「六週間……」
「廃棄処理の予定日は、その三日後。ですが、帳簿上は処理が済んでいません」
背中に、嫌な汗が伝った。
金具の製造元がわかっても、取り付けた人間がわかるわけじゃない。そこは理解している。
だが、廃棄品がどうやって守護竜の胸に入ったのか。それなら追えるかもしれない。
「保管場所は?」
俺の問いに、隊長が答えた。
「鐘楼の保守倉庫だ」
「……そんな近くに?」
「守護竜の交換部品と古い器具を置いている。倉庫には鍵がかかっている」
俺は思わず立ち上がりかけた。
「だったら倉庫を――」
「もう調べている。座れ」
隊長の一言で、腰が椅子へ戻った。
早いな、この人。
「保管棚にあった箱は空だった。鍵穴にこじ開けた跡はない。出入りの記録を確認中だ」
「鍵を持ってる人が使った可能性もありますね」
「そうだ。だが決めつけるな。鍵の複製も、記録の書き換えもあり得る」
隊長は箱に入った金具を見下ろした。
「こいつを仕掛けた者は、守護竜が暴れるとわかっていたかもしれん。目撃者がいれば、些細なことでも拾う」
低い声だった。誰かを疑うことより、二度と街を燃やさないことを考えている声だ。
そのとき、戸口を小さく叩く音がした。
「隊長。鐘楼の記録を持ってきました」
若い衛兵が一冊の帳面を差し出す。隊長は受け取り、数枚めくったところで手を止めた。
「……確認する。修理屋、お前たちはここで待て」
「何かあったんですか?」
「まだ確かめている」
それだけ言って、隊長は衛兵と廊下へ出ていった。
部屋に残ったのは、俺とリゼとイネスさん。
リゼが俺の包帯に目を落とした。
「また指に力を入れてる」
「……ほんとだ」
右手を見れば、拳を握りかけていた。傷がうずく。
リゼはそっと俺の袖を引き、拳をほどかせた。
「今できることだけして。調べる人も、止める人もいるんだから」
「ああ。わかってる」
頭ではな。
誰かが捨てるはずの部品を拾い、守護竜へ取り付けた。そう考えるだけで、メル婆さんの壊れた店が浮かんでしまう。
なのに俺は、箱一つ開けられない手をしている。
「一つ、気になるんですが」
イネスさんが図をめくった。
「この金具、もともとは鐘楼の昇降機用に作られたものです。守護竜の胸に付けるための部品ではありません」
「じゃあ、取り付けるには加工が必要?」
「ええ。石を削る道具も、術式を傷つけずに固定する技術も要ります。そこらに落ちているねじを拾って、差し込めば済む話ではありません」
ふと、先代の教えが浮かんだ。
『道具には、使いどころってもんがある。合わねえものを無理に使うと、直すより先に壊すぞ』
今回は、壊すために無理やり使ったのかもしれない。
戸が開いた。
戻ってきた隊長は、さっきより険しい顔をしていた。
「修理屋。鐘楼の保守記録に、妙なものがあった」
「妙なもの?」
「守護竜の胸部点検が、十七日前に完了したことになっている」
リゼが眉を寄せる。
「誰が点検したんですか?」
「それが問題だ」
隊長は帳面を机に置いた。
日付の横には、確かに『胸部点検済』と記されている。その下には、衛兵詰所の確認印まで押してあった。
「この日、鐘楼に入った者の記録はない。しかも――」
隊長は印章を指で示した。
「その確認印は、先月から使っていない旧式のものだ」
俺は黒い金具を見た。
誰かが、正規の点検を装った。
守護竜を壊した人間は、まだこの街のどこかにいるのかもしれない。
「……何のために、そんなことを」
答える者はいなかった。




