第7話 百年前の約束は、まだ終わらない
守護竜の喉に、炎が集まっていた。
その先にはリゼと衛兵たち。頭上の弩はすでに引き絞られ、隊長が片手を上げている。
「修理屋! 退け!」
「隊長さん、あと少しだけ!」
「もう待てん。撃て!」
弩の弦が鳴った。
太い鉄の矢が守護竜の顎を横から打ち抜く。石の破片が散り、開きかけていた口が跳ね上がった。
次の瞬間、炎が噴き出した。
赤い光が屋根の上を走る。通りの向こうで瓦が割れ、人々の悲鳴が上がった。
盾を構えていた若い衛兵がよろめき、隊長がその襟をつかんで後ろへ引く。射手は次の矢をつがえようとしたが、隊長が手を振って止めた。
「続けて撃つな。石の頭を砕いたら、倒れる先に民家がある」
ただ壊せば済むわけじゃない。守護竜が倒れるだけで、近くの家は押し潰される。隊長だって、それを承知で頭を狙わせているのだ。
「リゼ!」
「平気! それより、何かわかったの!?」
彼女は剣を盾のように構えながら、石壁の陰へ飛び込んだ。髪の先が少し焦げている。
「パン屋の焼き窯だ。守護竜と魔法がつながってる!」
「じゃあ、窯を調べれば止められる?」
「そこまでは、まだ!」
リゼは一瞬だけ目を閉じた。たぶん、怒鳴りたい言葉を飲み込んでいる。
「わかった。私が時間を作る。ジオは調べて」
「……助かる」
「その代わり、今度は無茶する前に言って」
「無茶だと思った時点で、もう無茶なんだが」
「だったら黙ってないで!」
正論だった。
リゼは飛び出し、守護竜の注意を引く。隊長は部下へ盾を広げるよう指示すると、俺のそばへ来た。
「修理屋。窯を調べるなら急げ。次は頭を狙う」
「わかってます」
「剣士が倒れてからじゃ遅いぞ」
脅しでも何でもない、ただの事実だった。
俺は壊れたパン屋へ駆け込んだ。
焼き窯の前には、崩れた梁と割れた皿が散らばっている。朝、トトが抱えていた小麦粉の袋も破れ、白い粉が床に薄く積もっていた。
さっきまで、ここでパンを焼いていた。
俺は息を詰めて、その考えを振り払った。今は手を動かせ。
焼き窯は、腰をかがめないと中を覗けないほど小さなものだった。古い煉瓦を積んだ丸い胴体に、黒い鉄の扉。取っ手の上には、翼を広げた守護竜の紋章がある。
「……よく見りゃ、うちの街章とも違うな」
ベルナの街章は、川と橋を組み合わせた模様だ。こんな守護竜の紋章は、鐘楼以外で見た覚えがない。
銀の針を握り、目を凝らす。
焼き窯にも糸があった。
赤い糸は火を保つ術式。青い糸は熱を外へ逃がさないためのもの。その奥に、細くて見落としそうな金色の光が伸びている。
普段なら、ここまで見てから炉の温度を測り、魔晶石を確かめ、作業の順番を決める。先代となら、どちらが先に故障を見つけるか競争になっただろう。俺が糸を指さし、先代が検査鏡を覗き込む。そんな時間が、少し懐かしかった。
だが今日は、背後で剣が鳴り続けている。競争相手も、相談相手もいない。自分で決めるしかない。
光の先は、守護竜の胸。
「……本当につながってるのかよ」
焼き窯は焼き窯で、守護竜とは別の魔導具のはずだ。なのに、金色の糸だけが二つを結んでいた。
試しに銀の針を近づけると、守護竜が遠くで身を震わせた。
まずい。こっちを触れば向こうにも伝わる。
「ジオ、そっちは!?」
リゼが呼ぶ。剣と石のぶつかる音が、すぐ後ろまで迫っていた。
「つながってるのは確かだ! でも、何のための糸か――」
そこまで言って、気づいた。
金色の糸は、途中で一か所だけ途切れかけている。
焼き窯の扉の裏だ。
黒い糸ではない。古い金具が緩み、細い光の端が留め具から外れていた。守護竜が落ちた衝撃で傷んだのかもしれない。
だったら、そこだけなら直せる。
ただし、つなげたあと何が起こるかはわからない。
『知らねえ仕組みを動かす前に、逃げ道を確かめろ』
先代の声を思い出す。
逃げ道。
振り返ると、崩れた棚が通路を半分塞いでいた。俺は足で皿をどけ、瓦礫のない壁際を確認する。
それから、焼き窯の扉に指をかけた。
「あっつ!」
反射的に手を引っ込める。
よく考えろ。さっきまでパンを焼いていたんだぞ。そりゃ熱いに決まってる。
俺は作業着の袖で取っ手を包み、扉を開いた。
内側の鉄板に、古い文字が刻まれている。
『北区共同炊事炉』
その下には、擦り切れた年号と、職人の印。
百年以上前のものだった。
窯の奥に残る煤は、何度も火を入れられた証拠だ。煉瓦の色も一枚ごとに違う。割れるたびに取り替えられ、つぎはぎのまま使われてきたのだろう。トトが言っていた、亡くなった祖父が直したという話を思い出す。
作った人間がいなくなっても、誰かが手を入れれば、道具はまだ働ける。
そう思うと、古い窯が急に他人事ではなくなった。
「……共同炊事炉?」
パン屋の焼き窯じゃなかったのか。
いや、今はパン屋が使っている。でも最初は、街のみんなのための窯だったということか。
金色の糸を追うと、文字のすぐ横に小さな留め具があった。
こいつだ。
俺は針の先で糸をすくった。
じり、と痛みが指に走る。もう何度も糸を触っているせいで、針を握るだけでもつらい。
ゆっくり引く。留め具へ戻す。
あと少し。
そのとき、背後で石が砕けた。
「ジオ、伏せて!」
リゼの声。
俺は扉の陰へ身を縮めた。守護竜の爪が壁を貫き、煉瓦の欠片が肩に降りかかる。
針が跳ねた。
「うわっ、ちょ、待っ――!」
落としかけた針を、どうにか握り直す。
指に鋭い痛みが走った。
金色の糸が、留め具へ戻る。
かちん。
驚くほど小さな音がした。
焼き窯の紋章が青く光る。
外で、守護竜が止まった。
石の爪が壁に食い込んだまま、動かない。
「……止まった?」
思わず声が漏れる。
次の瞬間、守護竜の胸で黒い靄が大きく膨らんだ。紋章の青い光が弱まり、また爪が動き始める。
「長くは持たない!」
リゼの声が鋭く響いた。
俺は針を握ったまま焼き窯を見つめる。
窯を直した瞬間、守護竜は一度だけ止まった。
確かに、まだ何かが残っている。
赤い目も、黒い靄も消えていない。だが、金色の糸はさっきより強く光っていた。
「……隊長さん! 窯の前だけは壊さないでください!」
「何を言ってる。そこが一番危ない!」
「わかってます! でも、守護竜を止める手掛かりがあるんです!」
隊長は返事をしなかった。
代わりに、短く命じる声が聞こえた。
「弩は待機。次に火を吐けば撃つ。剣士、修理屋を守れ」
「了解!」
リゼがこちらへ走ってくる。顔には煤がつき、袖の一部が裂けていた。剣先も小さく欠けている。
「その腕、もう限界じゃないの?」
「まだ動く。それより、ジオの右手は?」
「見た目より元気だぞ」
「じゃあ、握ってみて」
試しに指を曲げたら、思いきり顔が引きつった。
「……あとで見せて」
嘘が下手なのは、俺のほうだったらしい。
その顔を見て、俺はやっと一つ思い当たった。
メル婆さんは、トトに毎朝パンを焼いている。
その前は、きっとメル婆さんの家族が。
そして百年以上前、この窯は街のみんなのために使われていた。
守護竜は、街を守るための魔導具。
古い炊事炉を壊さないように、何度も自分の翼を傷つけた。
何かがつながりかけている。
それでも、まだ答えには届かない。
「ジオ、次はどうする?」
俺は焼き窯の扉に刻まれた、擦り切れた文字をもう一度見た。
職人の印の下。
そこに、煤で隠れていた短い一文があった。
『火を絶やすな。明日の子らのために』
指で煤を拭う。
ふいに、胸が詰まった。
百年前、この窯を作った誰かが、願ったこと。
きっと、今朝トトが願っていたことと、そう変わらない。
守りたい人が、明日もちゃんとご飯を食べられるように。
「……リゼ」
「何?」
「これ、ただの故障じゃない。誰かの約束まで、無理やり動かされてるんだ」
守護竜の赤い目が、俺たちを捉えた。
黒い靄が渦を巻く。
俺は金色の糸から目を離さなかった。
「守護竜が本当に守りたいもの、少しだけわかった気がする」




