第6話 その糸、切ったら終わりです
守護竜の前脚が、頭上から落ちてきた。
「ジオ、伏せて!」
リゼに襟首を引かれ、身体が横へ転がる。
直後、石畳が砕けた。守護竜の爪が、さっきまで俺の頭のあった場所を深くえぐっている。
「……今、守護竜の足の裏が見えたぞ」
「感想はあと。次は自分で避けて」
「助けてもらった身で言うのも何だけど、首がもげるかと思った」
「なら、次は自分の足で逃げて。私だって手が足りないんだから」
まったく、頼れる相棒だ。容赦という言葉をどこかに置き忘れていることを除けば。俺は膝を押さえて立ち上がった。痛むところは多いが、まだ手足は動く。
リゼが剣を構え直し、ちらりと俺を見る。
「ジオ。さっき、何が見えたの?」
「守護竜の胸に、黒い糸が絡まってた。そいつがほかの糸を無理やり引っ張ってる」
「みんなが騒いでる、あの黒い靄とは違うのね」
「ああ。靄は外に漏れてるものだ。糸そのものが見えてるわけじゃない」
守護竜の鱗の隙間では、黒い靄が煙とは違う動きで揺れていた。風に逆らって鱗へまとわりつき、ときおり墨を落としたように広がる。
俺にだけ見えるのは、そのさらに奥だ。
黒い糸が幾本もの青い糸を締めつけ、脚や翼を動かす魔法を乱している。そして、もっと深いところには細い金色の糸があった。
「黒いほうを切れば、止まる?」
「切ろうとしたら、金色まで引っ張られた。あれが何なのか調べずに切ったら、守護竜の術式を丸ごと壊すかもしれない」
金色の糸が引かれたとき、守護竜の胸に流れる青い光まで弱まっていた。火を吐く力だけじゃない。あの結び目には、もっと大事な仕組みが巻き込まれているのかもしれない。
答えながら、先代の言葉が浮かんだ。
『わからんものを、わかったふりしていじるな。客の道具で試すなよ』
耳の痛い教えだ。目の前に原因らしいものが見えるのに、手を出せない。
「修理屋!」
低い怒鳴り声が飛んできた。
衛兵隊長が盾を構え、二人の部下を連れて近づいてくる。頬に煤がつき、鎧の肩当ては欠けていた。
「南側は退避させた。だが、この先は民家が詰まってる。次の炎は通さん」
「わかってます。胸の術式を、もう少し調べさせてください」
「止める見込みはあるのか」
「まだ断言できません。でも、ただ暴れてるだけじゃないんです。焼き窯へ落ちる瓦礫を、何度も翼で受け止めてる」
隊長はすぐに返事をしなかった。後ろの若い衛兵が、焦げた手袋を握り直している。さっきの炎をまともに浴びたのだろう。衛兵たちにも、もう余裕はなかった。
隊長は壊れたパン屋へ目を向けた。
店の壁も屋根も崩れている。その真ん中で、古い焼き窯だけが原形を保っていた。守護竜は窯を囲うように片方の翼を下げている。
「話はわかった。だが、住民を焼かせるわけにはいかん」
「……はい」
言い返せなかった。
守護竜を直したい。でも、それで誰かが死んだら、取り返しがつかない。隊長は、その重さを俺よりよく知っている。
隊長が顎で部下を示した。
「弩を用意しろ。頭を狙える場所へ回せ」
「隊長、頭を壊すつもりですか!」
リゼが声を上げる。
「火を吐く前に撃つ。剣士、お前は修理屋を引き戻せ。巻き込まれるぞ」
少しも迷いのない声だった。
俺は守護竜と、焼き窯を見比べた。
「……隊長さん。ほんの少しだけ、時間をください」
「合図が聞こえたら離れろ。待てるのはそこまでだ」
「わかりました」
隊長は俺の返事を確かめると、もう部下に射線の指示を出していた。言葉で説得する時間は、とっくに終わっている。
リゼが俺の袖をつかむ。
「ジオ。本当に胸の下へ入るつもり?」
「ほかに近づける場所がない。上からじゃ糸が重なって見えないんだ」
「……わかった。私が注意を引く。逃げ道だけは見失わないで」
「わかってる。帰ったら膝に湿布を貼りたいからな」
リゼは俺の手に巻かれた細い包帯を見て、何か言いたそうに口を開いた。だが、何も言わずに手を離した。代わりに俺の肩を一度だけ軽く叩く。
彼女は袖を放すと、崩れた石壁へ駆け出した。
壁の出っ張りを踏んで跳び、守護竜の翼へ刃を走らせる。
金属が石を打つ、鋭い音。
リゼははじかれた剣の勢いを殺さず、そのまま身体をひねった。迫る尾をかわして瓦礫の上に着地すると、すぐにもう一度踏み込む。
「こっちよ! その頭、動かせるんでしょ!」
守護竜の首が動く。赤く光る目が、リゼを追った。
俺は低く身をかがめ、崩れた陳列棚を越えた。
胸の下の隙間は、思っていたより狭い。しゃがんでようやく入れるほどで、守護竜が少しでも腹を落とせば逃げ道はなくなる。
そこまでして守護竜を残す意味があるのか、と頭の隅で声がする。壊して止めるほうが簡単かもしれない。けれど、あの焼き窯を庇った動きだけは、どうしても見なかったことにできなかった。
こうして近づくと、表面の傷がよく見えた。
雨に削られた鱗。古い補修材で埋められた亀裂。百年もの間、何度も手を入れられながら街を見守ってきた跡だ。
壊れていいものなんて、最初からない。
銀の針を構え、息を整える。
「修理屋、右脚だ! 避けろ!」
隊長の声と同時に、影が動いた。
俺は横へ滑り込んだ。前脚が石畳を砕き、肩に小石が降りかかる。痛みに顔をしかめながら、どうにか胸の真下へたどり着いた。
見える。
青い糸の束。その中心を強引に縛り上げる、黒い結び目。さらに奥では、金色の糸がかすかな光を保っていた。
試しに、黒い糸の端を針でほんの少し持ち上げる。
びくん、と守護竜の身体が跳ねた。
同時に、金色の光が細くなる。
「っ……!」
慌てて針を引くと、金色の光はゆっくり元に戻った。
やっぱりだ。黒い糸だけをほどこうとしても、奥の糸を締めつけてしまう。無理に切れば、元に戻せなくなるかもしれない。
指先が熱い。腫れた皮膚の下で、脈がどくどくと打っている。
「ジオ、まだ!? 押さえきれない!」
リゼの声が飛んだ。剣と石がぶつかる音が続き、何かが崩れる。
「奥に別の糸がある! あと少し!」
「了解! あなたは手を止めないで!」
返事のあと、彼女は何も言わなかった。ただ剣を振る音と、重い足音だけが続く。
ちらりと外を見れば、リゼは守護竜の爪が届くぎりぎりのところを駆け回っていた。石の尾が石畳を割り、彼女の髪をかすめる。怖くないはずがない。それでも、俺が手を動かせるように、注意を引き受けてくれている。
金色の糸を目で追った。
黒い糸に押さえられているのに、金色の糸は一方向へ伸びようとしている。
パン屋の奥だ。
焼き窯の鉄の扉。煤に汚れた取っ手の上に、翼を広げた守護竜の紋章が刻まれていた。
百年前から鐘楼にあった守護竜と、メル婆さんの家に代々残る焼き窯。こんなところにつながりがあるなんて、今まで聞いたことがない。だけど、あの金色の糸は迷うことなく窯を指していた。
「……何で、窯に守護竜の紋章が?」
そのとき、守護竜の身体が大きく傾いた。
「ジオ、離れて!」
リゼの声に、俺は反射的に飛び退いた。
直後、守護竜の胸が地面すれすれまで下がる。石畳が鳴り、息を呑むほどの風圧が背中をかすめた。
守護竜は俺を潰そうとしたのか。それとも、焼き窯を庇ったのか。
答えを探す間にも、喉の奥が赤く灯った。
炎が来る。
狙いの先には、リゼと衛兵たちがいた。
「修理屋、離れろ! 射つぞ!」
隊長が叫ぶ。弩の弦がぎしりと張られた。
その赤い光を受けて、焼き窯の扉に刻まれた紋章が、一瞬だけ青く光った。
守護竜の胸にある金色の糸も、同じ瞬間に震える。
「……待ってくれ」
今のは見間違いじゃない。
俺は焼き窯と守護竜を交互に見た。
「その窯……守護竜と、つながってるのか?」




