第33話 実験結果を待つ者
救護所の騒ぎが収まっても、俺の耳には、あの子の泣き声が残っていた。
外へ出たとたん、ほっとして泣き出した男の子。怪我をしていた足より、扉が開かないことのほうが怖かったらしい。
あんなものを、誰かが試験と呼んでいる。
「ジオ、眉間」
隣を歩くリゼが、自分の額を指でつついた。
「何だよ」
「怖い顔してる。包帯まで握り締めないで」
慌てて右手を開く。治りかけの掌が、じんと痛んだ。
「……わかってるよ」
「ならいいわ」
リゼはそれ以上何も言わず、俺の歩幅に合わせた。
俺たちが向かっているのは、北区の旧中継所だ。
救護所に届いた試験指示書には、結果の提出先として、あの場所が記されていた。バルク衛兵長は書類を押収すると、先に衛兵を走らせている。
「試験を命じた奴が、そこにいるとは限らん」
歩きながら、バルクさんが言う。
「ただ、結果を受け取る場所として使うつもりなら、誰かが来る可能性はある。見張りは置いた」
「……来てくれると助かりますね」
「修理屋、相手は客じゃないぞ」
ベルナの隊長さんとは違う声なのに、言うことはだいたい同じだった。
◇
旧中継所の入口には、先ほどまでなかった荷馬車が一台止まっていた。
幌の下には空の木箱が二つ。側面に描かれているのは、織物組合の古い紋章だった。
「……あれは?」
サーラさんが足を止める。
「二十年前に廃止された資材車です。車体だけ残して、組合の貸倉庫に置いてあったはずなのに」
入口の衛兵が、バルクさんへ駆け寄った。
「衛兵長。中に一人います。試験資料の受け取りに来たと言っています。身分は確認中です」
「逃がすな。だが、無用に刺激するな」
俺たちは衛兵に続いて中へ入った。
配線盤の前に、灰色の外套を着た男が立っていた。四十代後半ほど。髪は短く、指先には古い火傷の跡がある。
男は俺たちを見て、最初にサーラさんへ声をかけた。
「組合の技師か。救護所の試験結果はどうなった」
挨拶より先に、それだった。
「あなたは、どちら様ですか」
「ガルド・フェイン。旧外郭防護網の技師だ。ここへ記録を集める手配をした」
サーラさんの表情が険しくなる。
「旧外郭防護網の管理部署は、十年前に廃止されています」
「所属していた、と言い直そう。今は個人で調査している」
「なら、組合の名で試験を指示する権限はありません」
男――ガルドは、そこで初めて口を閉じた。
バルクさんが一歩前へ出る。
「救護所で使われた布は、人を閉じ込めた。許可のない試験を指示したのはお前か」
「……布の試験を頼んだのは私だ」
あっさり認めた。
「ただ、人が閉じ込められるとは思っていなかった。設計上は、一定の張力で止まるはずだった」
「止まらなかったんだよ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
ガルドが俺を見た。
「君は?」
「ベルナの修理屋です。あの布に、無理やり働かせる細工があるのを見ました」
「……それを見た?」
男の目つきが変わる。
好奇心だった。救護所の子どもの話よりも、俺の言葉のほうへ身を乗り出した。
「どこに。布の縁か? それとも織り目の内側か?」
「先に、聞くことがあるだろ」
リゼの声が割って入った。
「子どもが閉じ込められたのよ。何を調べたかったの?」
ガルドは、ようやく視線を落とした。
◇
「古い防護網を、もう一度使えるようにしたかった」
取り調べのために机を挟むと、ガルドはそう話し始めた。
「北東の山沿いには、冬になると道が閉ざされる集落がある。昔はハルゼンが防護布を送り、ベルナが燃料を送り、街同士で避難路を守っていた」
「それは旧防護網の記録にもあります」とサーラさん。「でも、危険が見つかったから停止したんです」
「危険を直せばいい。全部捨てる必要はない」
その言葉だけなら、俺だって頷いただろう。
直せるものは直したい。百年前の願いが残っているなら、なおさらだ。
でも、こいつのやり方は違う。
「だから、止まる機能を邪魔したんですか」
ガルドは机の上で指を組んだ。
「安全装置は、異常を検知すると設備を止める。だが外郭防護網は、非常時に街がひとつ止まっても働くよう作られていた。私はその継続機能が、今も生きているか確かめたかった」
「守護竜も、揚水場も、西門も?」
俺が問うと、男はしばらく黙った。
「……ベルナの三か所に、試験用の部品を手配した。廃棄予定の金具を使い、旧保守工房の設備も借りた」
ついに、本人の口から出た。
衛兵が筆記を止めずに顔を上げる。バルクさんは表情を変えない。
「鍵職人マルド・ケインに依頼したのもお前か」
「そうだ。工房の鍵を複製させた。後の工事を知られたくなくて、取りに戻れないよう錠を替えた」
俺の喉が詰まった。
壊れたパン屋。危うく水が溢れかけた揚水場。門で足止めされた人たち。
みんな、試験のためだったのか。
「……トトが、瓦礫に埋もれかけたんです」
ガルドが顔を上げる。
「守護竜がパン屋を壊した。八歳の子が泣いてた。あんたの試験でだ」
「そんな事態になるとは――」
「想定しなかった? 停止を邪魔しておいて?」
今度は俺が言葉を止められなかった。
「修理って、動かすことだけじゃないんです。止められなくなるようにして、何を守るつもりだったんだよ!」
静まり返った室内で、配線盤の小さな音だけが聞こえた。
ガルドは反論しなかった。
それでも、口元を強く結ぶ顔には、自分の仕事を否定された悔しさが残っていた。
◇
「まだ、わからないことがあります」
サーラさんが、救護所から回収した布の検査図を広げた。
「ベルナの部品と、この布。通常の術式では説明できない反応がありました。あなたが作ったのですか」
ガルドの指が図の縁で止まる。
「設計したのは私だ。正確には、十年前の記録に残った試験式を組み直した」
「どうやって?」
「見本があった。止める命令を押しのける、特殊な縫合術式だ。見える形に描き直してあるから、糸そのものを見られなくても加工できた」
俺は息を呑んだ。
俺以外にも、あの黒い糸を扱う方法を知っている人間がいる。
ガルドは続けた。
「ただ、私には異常な反応が見えない。計器と結果で確かめるしかなかった。だから布を張り、どこまで保つか測ろうとした」
「人のいる救護所で?」
リゼが問い詰める。
「無人の訓練区画を使う指示だった」
「書類にはそんな指定がありませんでした」
サーラさんが、押収した指示書を示した。
ガルドの顔が強張る。
そうだ。指示のつもりで書かなかったことは、相手に伝わらない。安全を守る仕事なら、なおさら。
バルクさんが立ち上がった。
「ガルド・フェイン。設備への無許可の細工と、危険な試験の指示について、詳しく話を聞く。同行してもらう」
男は逃げなかった。
ただ、一つだけ言った。
「中継所の記録器を、確認してほしい」
「何だ」
「ベルナとハルゼンの応答が揃ったなら、外郭防護網の次の中継路が開いているはずだ。私が捕まっても、あの網は勝手に動く」
サーラさんが即座に表示盤を調べた。
琥珀色の窓の下。さっきまで消えていた小さな文字が、点灯していた。
『第三中継路 応答待機』
「……接続先が増えています」
「第三中継路って、どこです?」
ガルドは答える前に、目を伏せた。
「ハルゼンのさらに北東。峠の向こうにある、エルダの街だ」
俺は表示窓を見つめた。
こいつを捕まえたら終わると思っていた。
けれど、もう送り出された信号は、街の境界なんか知らない。
バルクさんが衛兵を振り返る。
「エルダへ至急伝令を出せ。旧防護網には近づくなと」
その声を聞きながら、俺はガルドにもう一つ尋ねた。
「十年前の試験式って、誰が残したんです?」
男は少し驚いたように俺を見た。
「記録に名前はない。ただ、表紙には一行だけ警告があった」
「何て?」
「『元の願いを確かめずに、縫い直すな』」
息が止まる。
原願。
俺が守護竜の胸で見た、金色の糸。
その言葉を、俺は先代から聞いた覚えがない。けれど、誰かが十年前、同じ危険に気づいていたということだ。
「その記録は、どこに?」
「私の荷箱だ。中身はすべて提出する」
バルクさんが証拠の保全を命じる。
リゼは隣に立ち、俺の右手へそっと目を落とした。
「ジオ。針を使うのは、まだ先よ」
「ああ。今はわかってる」
俺は握っていた手を開いた。
止まるべきものを、止める。
そのためにまず、何が動いているのかを知らなきゃならない。
旧中継所の窓の外では、風に揺れる色とりどりの布が、何事もなかったように空を飾っていた。
だけどその奥では、十年前に閉じたはずの魔法が、また一つ、目を覚まそうとしていた。




