第34話 元の願いを知らない修理
人を閉じ込めた布は、いまも白かった。
ハルゼンの魔導具組合、その検査室。机の上には第七織工場で作られた防護布が、二重の封印箱に収められている。
あれだけの騒ぎを起こしたくせに、見た目はただの布だ。縁に織り込まれた黒い糸だって、俺以外には見えない。
「……厄介な布だな」
「持ち帰って寝具にしようなんて考えないでね」
「俺を何だと思ってる?」
「昨日まで、危ない魔法を針でつつこうとしてた修理屋」
リゼの返しが的確すぎる。
俺は包帯の減った右手を、そっと上着のポケットへ隠した。
今日は布を直しに来たわけじゃない。逮捕されたガルド・フェインが提出した、十年前の試験記録を読むためだ。
サーラさんが、革紐で束ねた薄い冊子を机へ置いた。
「押収品の閲覧許可が出ました。原本は私が扱います。ジオさんたちは、こちらの写しを」
「助かります。俺が読んで破いたら、あとが怖い」
「紙より先に、指を治して」
俺たちのやり取りを聞きながら、サーラさんは一枚目を開いた。
表題は《外郭防護網・継続応答試験》。記入日は十年前。作成者の欄は空白だった。
そのすぐ下に、小さく書かれている。
『元の願いを確かめずに、縫い直すな』
ガルドが口にした警告だ。
「これが、例の……」
「はい。ほかにも注意書きがあります。でも、ガルドは後半の試験式だけを使ったようです」
サーラさんが頁をめくった。
◇
書かれていたのは、魔法の回路を強制的につなぎ直す方法だった。
黒い糸そのものの絵はない。代わりに、命令の流れを矢印で結んだ図がある。停止の信号を横へそらし、守るための動作を繰り返す。そこには、見覚えのある結び目の形が描き込まれていた。
「……これを見て、あの細工を作ったのか」
守護竜の胸。揚水場の弁。西門の防護灯。
場所も形も違ったのに、止まる命令を押しのけるやり方だけは同じだった。
「図面を使えば、糸そのものが見えなくても似た現象を起こせます。ただし、どこにどんな影響が出るかまでは、計算しきれません」
サーラさんは図の端を指した。
『仮説式。実機使用を禁ず』
文字は赤い。
「禁止されてたんですね」
「ええ。この頁の試験結果も、成功とは書かれていません。制御不能になるおそれがある、と」
俺は奥歯を噛んだ。
ガルドは読めなかったんじゃない。危ないとわかる言葉が、最初からそこにあった。
「……あの人、守りたいものがあるって言ってました」
リゼが冊子を見つめたまま言う。
「でも、そこにいる人のことを、途中で見なくなったのね」
俺もあの救護所の男の子を思い出した。
布を剣で斬ったのかと聞いた、小さな声。
「サーラさん。そもそも《元の願い》って、技師の間では使う言葉なんですか?」
「ほとんど使いません。百年以上前の設計思想を説明する古い言葉です。術式の作動条件とは、少し意味が違います」
彼女は冊子の前半へ戻った。
『防護とは、壁を残すことにあらず。壁の向こうの者を、生きて帰すことなり』
ずいぶん古めかしい文章だった。
「外郭防護網が作られた頃の碑文を引用したものだそうです」
「生きて帰す……」
俺は声に出した。
守護竜の胸で見た金色の糸が、頭に浮かぶ。
あの糸は、炉の中の火と、明日を生きる子どもたちへ伸びていた。
動き続けることだけが願いじゃなかった。
パンを焼くための火なら、焦げる前に弱めなきゃいけない。人を守る布なら、人を通すときには緩まなきゃいけない。
「……守るためなら、止まることも必要なんですね」
「ええ。ところが、この試験式はそこを扱っていません」
サーラさんが図の末尾を示す。
『継続条件の再現を目的とする。保護対象の判定は対象外』
「対象外……」
「つまり、働き続けられるかどうかだけを調べる途中の式なんです。誰を守っているか、いつ役目が終わるかは、別に確かめなければいけない」
ガルドは、その途中の式だけを使った。
動け、働け、止まるな。
何を守るためなのか、置き去りにして。
◇
「ひとつ、見てほしいものがあります」
サーラさんは封印箱の横へ、別の記録紙を置いた。
救護所から回収した布の検査結果だ。通常の魔力供給を断ったあとも、布はしばらく締まり続けていた。その変化が、細かな数字で記されている。
「停止命令が届かず、残った魔力を使い切るまで収縮を続けたと考えられます。ですが、最後の数値が妙なんです」
「何がです?」
「子どもが外へ出た直後、布の一部だけ張力が落ちています。私たちが巻き取り軸を戻すより、少し早く」
俺は目を瞬いた。
確かに、救護所の非常口で、布の下端が一瞬だけ緩んだ覚えがある。あのときはサーラさんが調整したからだと思っていた。
「外へ出たのを、布がわかったってことですか?」
「そう断定するには足りません。単なる魔力の揺らぎかもしれません」
サーラさんは真面目な顔で付け加えた。
「ただ、旧式の防護布には、人が通るときだけ緩む仕組みがありました。完全に壊れたわけではなく、その働きが押し込められていた可能性があります」
俺は封印箱の中へ目を凝らした。
白い布の縁に、黒い糸が眠っている。
その下に、細い金色の光があった。
「……あ」
思わず声が出た。
「どうしたの?」
「金色の糸がある。黒い糸の、もっと下だ」
リゼとサーラさんが同時にこちらを見た。
「守護竜で見たものと同じ?」
「似てる。でも、つながってる先が違う」
守護竜の金色の糸は、古い炊事炉へ伸びていた。
この布の糸は、布の真ん中ではなく、端の小さな開口部へ集まっている。人が通るときに緩むための仕組みだとすれば、辻褄が合う。
たぶん、これがこの布の原願だ。
人を閉じ込めるためじゃない。
危険が過ぎたら、外へ送り出すための願い。
「……黒い糸を先にほどければ、元の動きに戻せるかもしれない」
俺が呟くと、リゼがすっと右手を差し出した。
「はい、針は預かるわ」
「まだ何も出してないんだが」
「出そうな顔をしてた」
言い返しかけて、やめた。
いま魔力を流して試す理由はない。封印されている布を無理に直して、もう一度誰かを危険にさらすのはごめんだ。
「……使いません。先に、記録を全部確かめる」
「それなら安心」
リゼはようやく手を引っ込めた。
サーラさんが、金色の糸があるという位置を図面に書き加える。
「私には見えません。でも、開口部の構造なら調べられます。後日、安全な試験台で確かめましょう」
俺はうなずいた。
直す方法が見えたからといって、今すぐ直さなくてもいい。
先代が教えてくれたのは、きっとそういうことでもあった。
◇
昼過ぎ、バルク衛兵長が検査室へやってきた。
「エルダから返事が来た」
その一言で、机を囲んでいた俺たちは顔を上げた。
「向こうの状況は?」
「峠の旧避難路で、昨夜から誘導灯が点いている。使用停止のはずの道だ。今朝、隊商がそちらへ誘導されかけた」
バルクさんは伝令の紙を机へ置いた。
「現地の衛兵が止めたから、いまのところ行方不明者は出ていない。ただ、灯りを消しても別の灯りが点くらしい」
「……守るための道が、勝手に人を連れていこうとしてるのか」
「そういう可能性がある。エルダ側は旧道への立ち入りを禁じた。だが、街道が雪で閉ざされる前に点検したいそうだ」
サーラさんが図面を取り出す。
「旧防護網の第三中継路につながる避難誘導設備ですね。こちらの連結は切りましたが、すでに届いた信号の影響までは消せません」
隊長の書面を届けたベルナの衛兵は、エルダへ向かう準備を始めているという。
リゼが俺を見た。
「行くつもりでしょ」
「……行かない理由が、だいぶ減ったな」
「手の具合は?」
「昨日よりいい。でも、針はまだお預け」
「よし」
なんだ、その合格判定は。
サーラさんが検査台の封印を確認し、冊子を閉じた。
「この布と記録は、私たちが責任を持って調べます。こちらの織機も、一台ずつ安全を確認してから再開させます」
「お願いします」
俺は頭を下げた。
ハルゼンの工房には、これからまた、がたん、ことん、と織機の音が戻るだろう。
でも俺たちが聞くべき音は、もう少し先にあるらしい。
エルダへ続く峠道。
そこでは、誰も頼んでいない道案内が、旅人を呼んでいる。
俺は先代の作業帳を鞄から取り出し、最後に書かれた言葉を見た。
『確かめるまで、直ったと言うな』
……わかってるよ、先代。
動いているだけじゃ、直ったとは言えない。
守るために作られた魔法なら、守る相手がどこにいるかも、ちゃんと確かめないとな。




