第32話 守る布が、人を閉じ込める
救護所に着いたとき、誰かが内側から扉を叩いていた。
どん、どん、と鈍い音。だが、扉そのものはびくともしない。
「中に人がいる! 扉が開かないんだ!」
入口にいた若い救護員が、俺たちへ駆け寄ってきた。
南区共同救護所は、普段は集会場として使われる大きな建物だった。今日は避難訓練の日で、庭には大勢の住民が集まっている。
その全員が、玄関に張られた白い布を見つめていた。
「……布が、扉を塞いでるのか?」
普通の布じゃない。二本の柱の間にぴんと張られ、石壁のように動かない。縁から青白い光が漏れていた。
「第七織工場から届いた防護布です」
サーラさんが息を呑む。
「救護所で試し張りをする予定だったんでしょう。でも、まだ使用許可は出ていないはずです」
「許可の話はあとだ。中に何人いる」
バルク衛兵長が救護員へ問いかける。
「玄関奥の受付に三人。それから、奥の救護室にも二人います。そちらも布で仕切っていて……急に縮んでしまったんです!」
二巻とも、もう使われている。
俺は目を凝らした。
白い布の縁を青い糸が走っている。その中に、細い黒い糸が混じり、結び目を作っていた。
工場で見た逆縫いと同じだ。
「……あの黒い糸、張る力をずっと強めてる」
リゼがすぐに俺の横へ来た。
「ほどけそう?」
「今の手じゃ無理だ。それに、布そのものを切ったら……」
支柱がきしんだ。
布が引っ張られるたび、玄関の金具が壁から浮きかけている。あれが外れれば、近くの人に飛んでくる。
「まず、周りを下がらせて!」
リゼが叫ぶ。
衛兵たちが住民を庭の反対側へ誘導した。俺たちは入口から離れ、内部の人たちへ声をかける。
「聞こえるか! 怪我はないか!」
『大丈夫! でも扉が、押しても動かない!』
若い女性の声。続いて、幼い子の泣き声も聞こえた。
救護員が青ざめる。
「奥の救護室には、足を怪我した子がいるんです。訓練で運び込んだのに、本当に閉じ込められて……」
訓練が、訓練ではなくなっていた。
◇
「防護布は、救護所の警報灯とつながっています」
サーラさんが入口脇の制御箱を開いた。
「避難訓練の開始に合わせて、警報灯から非常信号を出したようです。それを受けて布が展開した。本来なら人が通れる幅を残して張る設計なんですが」
「黒い糸は、その幅をなくしてる」
俺が言うと、サーラさんは一度だけうなずいた。
「信号を止めます。ただ、布には蓄えた魔力が残るはずです。すぐには緩みません」
制御箱のつまみが切られ、警報灯の赤い光が消えた。
布は動かない。
それどころか、縁の黒い糸がもう一度ぎゅっと締まった。
「……まるで、守り続けようとしてるみたいだな」
俺は唇を噛む。
あの中には、守られるはずの人間がいるのに。
「ジオ、こっち」
リゼが建物の横を指した。
非常口が一つある。だが、そこにも白い布が斜めに伸びて、扉の取っ手へ食い込んでいた。中の救護室を仕切った二巻目が、廊下まで引っ張られているらしい。
「ほかの出口は?」
「台所側の勝手口があります!」
救護員が答えると、バルク衛兵長はすぐに二人の衛兵を回した。
「通れるなら、受付の三人はそちらから避難させろ。救護室の位置も確認しろ」
すべてを一度に直す必要はない。出られる人から出せばいい。
ほどなく、勝手口から受付係たちが出てきた。肩を抱き合い、青い顔で庭へ駆けていく。
「奥にいる二人は?」
「救護室から廊下へ出られないそうです。布が入口に巻きついていて……」
残ったのは、怪我をした子と、その付き添いの女性。
俺は非常口の布を見た。
金具の片側が、細かく震えている。布が引っ張る力を、壁の留め具が必死に受け止めていた。
「これ、力任せに外したら危ないぞ」
「わかってる」
リゼがそう言って、剣から手を離した。
斬れば終わるわけじゃない。それがわかっている顔だった。
「支柱の張力を落とせれば、扉から離せるかもしれません」
サーラさんが図面を広げる。
「でも、この布には普通の緩め具が効かない。誰かが縁を押さえている間に、巻き取り側を戻す必要があります」
「待っておくれ」
後ろから、しっかりした声がした。
振り返ると、小柄な老婆が立っていた。朝、木の織機を使う女の子を見守っていた、あの人だ。手には布を巻くための木の棒を二本持っている。
「それ、強い布ほど端からほどこうとしちゃいけないよ」
「おばあさん、危険です。下がってください」
バルク衛兵長が止める。
「近づきゃしないよ。けど、織物の張りなら五十年見てる。ちょっと図面を見せておくれ」
サーラさんは迷わず図面を見せた。
老婆は指を滑らせ、布の上端にある細い輪を示す。
「ここ、引っ張るための輪じゃない。巻き戻すとき、布が片寄らないように通す輪だね。端を緩める前に、こっちの軸を少し戻すんだよ」
「……確かに。製織側の構造まで考えていませんでした」
サーラさんの目が変わった。
「ただ、いきなり軸を戻すと支柱が跳ねます。外側から張りを支える必要がありますね」
「それなら、道具はあるよ」
老婆が二本の木の棒を持ち上げた。
「こういうときに布を挟んで支えるのさ。力任せに引くんじゃないよ」
俺は、非常口へ伸びる糸を目で追った。
黒い結び目が固く締めているのは、布の縁。それ以外の青い糸は、軸の動きに合わせて細く伸び縮みしている。
「サーラさん。その軸を戻せば、黒い糸が残ってても布の張りは弱まるはずです。縁は勝手に締まるけど、布全部を引っ張る力は別です」
「試します。まず荷重を受けてからです」
◇
衛兵たちが木の棒と支え綱を使い、布の外側へ安全な位置から補助具を取り付けた。
リゼは手すりの陰で綱の張りを確認し、支柱が外れても人のいる側へ飛ばないよう、もう一本の綱を結ぶ。
サーラさんが巻き取り箱の歯車を一段だけ戻した。
きし、と布が鳴る。
俺の目には、青い糸が一本、緩んだのが見えた。
「効いてます! もう少しだけ!」
「一度に戻しません。支えを確認してから」
サーラさんは落ち着いていた。
二段目。
支柱の震えが弱くなる。
三段目で、黒い結び目が締まり直した。
「……っ!」
補助具が跳ね、木の棒が一本、折れた。
乾いた音に、誰かが悲鳴を上げる。
だが、リゼが張っていた綱が支柱を受け止めた。折れた棒は地面へ落ち、人には当たらなかった。
「リゼ!」
「大丈夫。次は、もう少し支えを増やして」
彼女の手袋に擦れた跡が残っている。
俺が何か言うより先に、リゼは俺を見た。
「あなたは見てて。どの糸が危ないか、教えて」
俺はうなずいた。
今回は、それが俺の役目だ。
老婆が残った木の棒を衛兵へ渡し、補助具の位置を変えるよう助言する。サーラさんがもう一度計器を確認し、待っていた魔力が十分下がったのを確かめた。
「では、戻します」
かちり。
四段目で、布の下端が床を離れた。
非常口の取っ手から、白い布がゆっくり滑り落ちる。
「開くぞ!」
衛兵が扉を押す。
内側から、泣き声がはっきり聞こえた。
「こわかったぁ……」
運び出された男の子は、片足を布で固定していた。付き添いの女性が抱き寄せると、何度もしゃくり上げた。
「もう大丈夫。外に出たよ」
リゼが膝をつき、目線を合わせて言った。
男の子は涙を拭いながら、彼女の剣を見た。
「……それで、ぬの、きったの?」
「ううん。みんなで、ほどいたの」
そう答えるリゼの顔は、いつもよりずっと優しかった。
救護員が子どもの足を確認し、衛兵たちが救護所全体の立ち入りを止めた。もう一巻の防護布も、サーラさんの指示で外から力を逃がし、これ以上縮まないよう固定された。
幸い、怪我人は増えなかった。
◇
「……布を切らなかったのは正解でしたね」
サーラさんが、回収した布を検査台へ広げた。
黒い糸はまだ縁に残っている。だが、魔力を切り離した今は、結び目が動かない。
「切ったら、何が起きたんです?」
「張力を失った部分が跳ねたでしょう。魔法の反応も読めませんでしたし」
彼女は首を振る。
「織機の知識だけでは足りませんでした。布の扱いを知る人がいて、助かりました」
老婆は笑った。
「布はね、強けりゃいいってもんじゃないんだよ。人を包むものだからね。ほどける場所も要るのさ」
その言葉が、妙に胸へ残った。
先代も同じことを言いそうだ。
バルク衛兵長が、救護所の責任者から書類を受け取って戻ってきた。
「布を使うよう指示したのは誰だ」
「今朝、組合から臨時の資材確認が来たそうです。訓練で試し張りをして、動作を記録してほしいと」
「組合から?」
サーラさんが顔をしかめる。
「私はそんな指示を出していません。第七織工場は閉鎖施設です。そこから資材を配る許可もありません」
衛兵長が書類を広げる。
押されていたのは、丸の中に三本の短い線。
ベルナの匿名の警告状と同じ、旧式の確認印だった。
「……また、その印か」
俺が呟くと、バルク衛兵長は署名欄を指で押さえた。
「印の出どころを調べる。だが、それより先に確認することがある」
「何です?」
「この試し張りの記録、回収先が指定されている」
書類の末尾に、小さな文字があった。
『稼働試験結果 北区旧中継所へ提出』
俺は顔を上げた。
布が人を閉じ込めた。その結果を、誰かが集めようとしていた。
人を守るはずの魔法が、どこまで無理に働き続けるか。
それを確かめるために、こんなことをしたのだとしたら。
「……誰かが、実験してるのか?」
問いかけに答える者はいなかった。
救護所の庭には、訓練を中止した人々のざわめきが戻っていた。
俺はまだ温かい布の縁を見つめた。
守るために作られたものが、人を閉じ込めた。
そして、そんな危険を、誰かがわざわざ調べようとしている。
俺は記録の提出先をもう一度見た。
「……だったら、次は結果を待ってる奴を探そう」




