第31話 誰もいない工場が、今日も動いている
閉鎖された工場から、織機の音が聞こえた。
がたん、ことん。がたん、ことん。
規則正しく、休むことなく。
「……本当に動いてるな」
俺が呟くと、ハルゼンの衛兵長バルクさんが正面の門を見上げた。
「二十年前に閉めた第七織工場だ。今朝、近隣の住民から音がすると通報があった。誰かが出入りしたという証言はない」
門には太い鎖が巻かれ、古びた封鎖札が残っている。だが、その向こうからは確かに金属の擦れる音がした。
丘の上を吹き抜ける風が、廃工場の窓を鳴らす。
「魔晶石は全部撤去したんですよね?」
リゼの問いに、同行してきた設備技師のサーラさんが頷いた。
「閉鎖時の台帳では。制御盤も切り離され、動力設備は停止したことになっています」
「なのに動いてる。……工場に幽霊でも住んでるのか?」
「幽霊が布を織ってくれるなら、人手不足の工房は大喜びね」
リゼはそう言いながら、門の隙間から中を確かめている。冗談は言えても、手は剣の柄に近い。
バルクさんが部下に周囲の退避を命じ、管理鍵で門を開いた。
「技師が安全を確認するまで、勝手に機械へ近づくな」
「了解です」
俺は両手を見せた。包帯は昨日より薄くなったが、まだ針を握って働かせる気はない。
……少なくとも、できれば。
◇
工場の中は、埃と古い染料の匂いがした。
天井は高く、窓から差す朝日が、空中を舞う細かな綿埃を照らしている。
織機が十台ほど、長い列を作っていた。
九台は眠っている。
けれど一番奥の一台だけが、休みなく動いていた。
がたん。ことん。
木の杼が左右を往復し、細い糸を布へ通す。出来上がった白い布が、少しずつ巻き取り軸へ吸い込まれていった。
「……誰もいないわね」
リゼが工場の隅まで目を走らせる。
人影はない。作業椅子は倒れたまま。床には古い糸屑が積もり、足跡もほとんどない。
「でも、あれ」
俺は織機の下を指した。
太い軸が床を貫き、下の階へ伸びている。回転するたび、足元の板がかすかに震えた。
「水車動力です」
サーラさんがしゃがみ込んだ。
「この工場は古い水路の上に建てられています。魔晶石がなくても、下の水車が回れば織機を動かせます。ただし、閉鎖時には水門も閉じたはずです」
「じゃあ、誰かが水門を開けた?」
「確かめます」
彼女は床の点検口を開いた。冷たい水の匂いが立ちのぼる。
下では黒い水車が勢いよく回っていた。水路の奥から、次々と水が押し寄せている。
「……開いています。それも、かなり大きく」
サーラさんの声が硬くなった。
なるほど。織機を動かす力は水車から来ている。じゃあ、魔法は何をしているんだ?
目を凝らすと、織機の上に細い青い糸が見えた。杼を動かすたび、糸が小さく震える。
「サーラさん。魔法の糸、残ってます。上の制御箱から織機の針へ伸びてる」
「針の位置を合わせる補助術式ですね。水車は織機の軸だけでなく、小さな魔力変換輪も回しています。そこで生まれる魔力で模様を揃えるんです。古い工場ではよく使われました」
彼女は織機の裏側へ回ろうとして、足を止めた。
「……おかしい。停止用の操作棒が、固定されています」
見ると、壁から伸びる赤い棒が、金具で下げられたままになっていた。
通常なら棒を引けば、織機への動力が切れるはずだ。それを誰かが、わざわざ動かせないようにしている。
「無理に外しちゃ駄目ですか?」
「この回転数では危険です。急に噛み合いが外れると、軸が跳ねるかもしれません」
リゼが動く織機を見据えた。
「先に水を止めるのね」
「はい。地下に手動の分水弁があります」
バルクさんがすぐに部下を呼んだ。
「地下の経路を確認しろ。技師の指示なしに触るな」
工場の隅へ向かった衛兵の足音が、織機の音に紛れて消える。
そのとき、俺は布の端に妙なものを見つけた。
「……待ってくれ」
織り上がる白い布の縁。青い糸が一本ずつ、細い輪を作っている。
その輪の奥に、黒いものが絡んでいた。
ただの染め糸じゃない。守護竜の胸で見た、あの黒い糸と同じだ。
「ジオ?」
「……布に、逆縫いがある」
リゼの表情から笑みが消えた。
「織機じゃなくて?」
「ああ。出来上がった布そのものだ」
俺は動く巻き取り軸を見つめた。
黒い糸は布の縁に沿い、一定の間隔で小さな結び目を作っていた。機械が動くたび、一つ、また一つと増えていく。
逆縫いを、織り込んでいる。
誰かが人の手で結んだわけじゃない。そうなるように、織機の術式が組まれているんだ。
「サーラさん、あの布は何に使うものなんです?」
「旧式の防護布です。災害時に避難所の入口へ張って、飛散物や冷気を防ぐためのものですね」
「……人を守る布、か」
また、その言葉だ。
守るはずのものに、止まらない命令を押しつける。
もし布を使ったときにも、何かを無理に続けさせるとしたら――。
「何が起きるかは、まだわかりません」
サーラさんが俺の顔を見た。
「でも、細工のある布なら、使わせないようにできます。まず安全に機械を止めましょう」
俺は頷いた。
黒い糸が見えたからといって、慌てて針を刺せばいいわけじゃない。
先代が聞いたら、いつもの渋い顔をするだろう。
◇
地下から衛兵の声が響いた。
「分水弁を確認! 水門の操作輪は動きます!」
サーラさんは点検器を壁の配管へ当て、回転の振れ幅を測った。
「急に閉めないでください。少しずつ水量を減らします。軸の回転が落ちてから停止棒を戻します」
指示が伝わり、地下で金属の回る音がした。
織機の音が、ほんの少し遅くなる。
がたん……ことん。
そのとき、巻き取り軸の布が引っかかった。
ぎり、と嫌な音がする。
「布が絡んだ!」
サーラさんが叫ぶ。
巻き取り軸に厚く重なった布が、端の留め具へ食い込んでいる。回転が落ちたせいで張りが変わったらしい。
青い糸が一瞬、強く光った。
「下げすぎないで! その位置で水量を保ってください!」
衛兵の操作が止まる。
リゼが俺の前に腕を伸ばした。
「ジオ、近づかない」
「わかってる。でも、あそこ……」
俺が示したのは布の端だった。
黒い糸が巻き取り軸に届く直前で、きつく引っ張られている。あれを無理に引きちぎれば、何に結びついているかわからない。
「サーラさん、布は切らないで。軸を先に緩めてください」
「はい。張力調整輪を使います」
彼女が長い工具で側面の輪を回す。軸がわずかに戻り、布の引っ張られる音が弱くなった。
「今です。水量をさらに落として!」
地下の水音が細くなる。
がたん……。
ことん。
最後に杼が一度だけ動き、止まった。
工場へ静けさが戻る。
誰も拍手しなかった。サーラさんが駆動軸の停止を確かめ、バルクさんが封鎖を命じるまで、全員じっと機械を見守っていた。
「よし。人は近づけるな。布も動かすな」
衛兵長の声で、ようやく息を吐く。
サーラさんは織機の側面から、細長い紙の帯を引き出した。一定の間隔で穴が開いている。
「紋紙です。どの糸を持ち上げるか、この穴で指定します」
彼女は端に押された新しい赤印を見せた。
『防護布・継続型』
「……継続、ねえ」
もう、その二文字を見ただけで嫌な予感がする。
サーラさんは眉を寄せた。
「この型番、閉鎖当時のものではありません。誰かが新しい紋紙を差し込んでいます」
織機を動かし、模様を指定し、黒い糸を布へ織り込ませた。
そこまで準備する人間が、たまたま来たとは考えにくい。
「……でも、これじゃ布は工場から出ないですよね」
リゼが言った。
「ここを封鎖すれば、もう使われない」
そうなら、どれだけよかったか。
俺は巻き取り軸の隣にある木棚を見た。布を巻いておくための横長の窪みが、いくつも並んでいる。
窪みの底には、埃のない跡が二つあった。
「リゼ。ここ、最近まで何か置いてなかったか?」
サーラさんが近づき、棚の端の荷札を確かめた。
古い札に交じって、一枚だけ新しい紙が挟まっている。
『防護布 二巻搬出』
その下には、今日の日付。
さらに小さな字で、行き先が書かれていた。
『南区共同救護所』
バルクさんの表情が変わる。
「南区だと……? 今日は避難訓練で、人が集まる日だ」
俺はもう一度、完成した布の縁を見た。
黒い糸は、今もかすかに残っている。
誰かがこの布を使うつもりなら、まだ終わっていない。
「……先に出た二巻も、同じ細工があるかもしれない」
リゼはすでに扉へ向かっていた。
「ジオ、行くわよ」
バルクさんが衛兵へ怒鳴る。
「救護所へ伝令! 届いた布には絶対に触らせるな!」
俺は止まった織機を振り返った。
魔晶石も、人間もいない工場。
それでも誰かの命令だけが残り、今朝まで布を織り続けていた。
人を守るための布に、どうしてあんな糸を結ぶ必要がある?
答えはまだ出ない。
ただ、今度はその布が、人の集まる場所へ運ばれている。




