第30話 ハルゼンの朝は、静かすぎる
ハルゼンに着いたのは、朝日が山の端を越えた頃だった。
石段のように家が連なる丘。その斜面を縫って水路が走り、軒先には青や黄色の布が何枚も吊るされている。朝の風が吹くたび、布がいっせいに膨らんだ。
「おお……。布の街って、本当に布だらけなんだな」
「それ以外の感想はないの?」
「洗濯物が乾きやすそう」
「もう少し景色を楽しむ努力をして」
荷馬車の前でリゼが呆れたように笑った。
ハルゼンは織物で栄えた街だ。水車で糸を撚り、魔導具で織機を動かし、出来上がった布を交易路へ送り出す。先代も昔、一度だけここの織機を直しに来たことがある。
そのとき聞かされた話では、朝になると街じゅうから、がたん、ことん、と織機の音が響くそうだ。
ところが。
「……静かだな」
水路を流れる水の音だけが、やけにはっきり聞こえる。
人はいる。窓を開ける人、店先を掃く人、籠を抱えて坂を上る人。なのに、建物の奥から聞こえるはずの機械音が一つもしなかった。
「休業日、とか?」
「街じゅうの工房が同じ日に?」
リゼに言われて、俺はもう一度通りを眺めた。
織物屋の扉には、同じ紙が貼られている。
『自動織機、当面休止。手織り品のみ販売』
「……休業日より、面倒なことになってそうだ」
◇
門でベルナの衛兵から封書を受け取ったのは、ハルゼンの衛兵長を務めるバルクという男だった。
大きな鼻に、眠そうな目。だが封を開けた途端、その目つきが鋭くなった。
「ベルナからの伝声は昨夜受けた。古い中継路から信号が飛んだそうだな」
「はい。こちらの設備が受け取ったかは、まだわかってません」
俺が答えると、バルク衛兵長は頷いた。
「受け取っている。少なくとも、旧中継所の記録器には残っていた」
思わずリゼと顔を見合わせた。
「じゃあ、あの信号が原因で街が静かに?」
「直接の原因とは言い切れん。だが昨夜、組合の自動織機が何台も、停止命令を受け付けなくなった。幸い、運転を続ける前に職人たちが動力を切り離せた」
ベルナと同じだ。
止めようとしても、止まらない。
「怪我人は?」
「今のところ報告はない。工房主たちが相談し、朝の操業を見合わせた。だから静かなんだ」
俺は丘の上の布を見た。
街の人間が、自分たちの判断で道具を止めた。
ベルナで起きたことを思えば、それは正しい選択だったと思う。
「ただ、何日も続けられんぞ」
バルク衛兵長が言う。
「日雇いで働く者もいる。織機が止まれば、今日の賃金を失う者もいるんだ」
そうだ。街が壊れないために止めても、暮らしは待ってくれない。
「まずは中継所へ案内する。技師も呼んである」
「了解です」
俺が鞄を担ぎ直そうとすると、リゼが先に取った。
「ジオ、右手」
「包帯、かなり減ったんだけどな」
「減ったからって、昨日の分まで働かせないの」
正論が朝から元気だ。
◇
中継所へ向かう道の途中、小さな織物屋の前で足を止めた。
戸口に腰掛けた女の子が、木製の小さな織機を動かしていたのだ。
ことん。すっ。ことん。
細い横糸を通すたび、白い布に青い線が増えていく。
「お客さん?」
女の子が顔を上げた。
「いや、ちょっと見てただけ。上手だな」
「これ、おばあちゃんのだよ。大きい織機が使えないから、今日はこっち」
言いながら、木の杼を動かす。少し曲がった青い線も、そのまま織り込まれていった。
奥から年配の女性が現れ、俺たちの後ろにいる衛兵長へ会釈する。
「早く直るといいですねえ。うちの孫は手で織るのが好きですが、注文の布はこれじゃ間に合いません」
「調べている。危ない機械はまだ動かさないでくれ」
「ええ、わかってますとも」
女性はあっさり頷いた。それから女の子の肩越しに布を見て、目を細める。
「ほら。そこ、横糸を強く引きすぎると端が縮むよ」
「わかってるもん」
女の子がむっとしながら、少しだけ手の力を緩めた。
俺はその小さなやり取りを見つめた。
止められない織機が一台でもあれば、指を巻き込まれる人間が出るかもしれない。だから止める。でも止めたままでは、布を届けられない。
修理って、結局そういう間にある仕事なんだろうな。
バルク衛兵長に促され、俺たちは坂を上った。
◇
ハルゼンの旧中継所は、街の北側、水車塔の下にあった。
石造りの小さな建物だ。入口の脇には、新しい封鎖札。扉の前で待っていた若い女性が、俺たちを見るなり頭を下げた。
「設備技師のサーラです。ベルナから来た方ですね」
袖をまくった腕には油の跡があり、腰の工具袋は使い込まれていた。
「ジオです。こっちはリゼ。よろしくお願いします」
「話は聞いています。こちらへ」
サーラさんは扉の封印を衛兵長に確認してもらい、建物へ入った。
中には、壁いっぱいに配線板が並んでいた。古い銅線が幾重にも折り返され、中央に一つだけ、琥珀色の表示窓が光っている。
『外郭防護網第二中継路 信号受領』
「これが、昨夜点灯した表示です」
サーラさんが言った。
「十年間、灯りがついた記録はありません。私が担当になってからも、一度も」
「街の織機につながってるんですか?」
「直接ではありません。ここから旧式の災害警報網へ入り、それが織物組合の共通制御盤にもつながっています。今は使用停止のはずでした」
彼女は銅線の一か所を示す。
「ところが、閉鎖時に外すはずの連結片が残っていました。昨夜の信号で、昔の『危急時は操業を継続し、避難用布を生産する』という命令が流れ込んだ可能性があります」
「避難用布?」
「怪我人を運ぶ担架や、仮設の天幕に使う布です。百年前、この街には災害時の供給を止めない役目があったそうです」
俺は目を凝らした。
青い糸が、配線板の奥を細く流れている。黒い糸は見えない。けれど通常は眠っているはずの糸が、今もゆっくり震えていた。
「誰かが連結片を戻したんですか?」
「そう考えています。ただ、いつかはわかりません。錆びの下を磨いた跡だけが新しいんです」
サーラさんは淡々と答えた。
ベルナの旧防災炉と同じだ。
十年前に止められた設備を、誰かがつなぎ直していた。
「止めるときは?」
「昨夜、組合側の制御盤を手動で切りました。各工房にも動力遮断を頼んでいます。ここの連結片は、記録と配線を確かめてから外します。焦って抜くと、まだ接続された系統へ負荷がかかるかもしれません」
俺は頷いた。
見知らぬ街でも、ちゃんと考えて直そうとしている人がいる。俺はその仕事を邪魔しないように、見えた糸を伝えればいい。
「今も糸が動いてます。受信の先から、三方向へ伸びて……あれ?」
俺は配線板を覗き込んだ。
三本のうち二本は途中で眠っている。
ところが最後の一本だけは、まだ生きていた。
「サーラさん。街の自動織機、全部止めたんですよね」
「組合に登録されたものは、すべて停止を確認しました」
「じゃあ、これは何だ?」
青い糸の先で、小さな計器が動いていた。
かちり。
針が、一目盛りだけ進む。
『稼働応答 一』
サーラさんの顔色が変わった。
「……そんなはずは。今朝、全部の工房から停止報告を受けています」
「登録されてない織機があるとか?」
リゼが尋ねる。
サーラさんは古い設備台帳をめくった。目が一か所で止まる。
「一つだけ、あります」
彼女は北の丘に目を向けた。
「二十年前に閉鎖された、第七織工場。共通制御盤からは切り離されたはずですが、古い災害網には名前が残っています」
閉鎖された工場。
誰も働いていないはずの場所。
そこから、今も『動いている』という返事が届いている。
バルク衛兵長が伝声具を取り上げた。
「第七織工場へ部下を回す。近づくなと周囲にも伝えろ」
サーラさんは計器を見つめている。
「……でも、あそこには魔晶石なんて残っていないはずなのに」
俺は青い糸を目で追った。
その先は、壁の奥へ消えている。
この街に着いて、最初に聞いた織機の音は、女の子が手で動かす小さな木の音だった。
そのとき、目の前の糸が左右に揺れた。
かたん。ことん。
音が聞こえたわけじゃない。糸の動きが、織機の杼を思わせたのだ。
「……誰もいない工場で、何を織ってるんだ?」
問いかけても、建物の外は静かなままだった。




