第29話 ほころびは、街の外へ
隣街ハルゼン。
その名前を聞いた瞬間、俺は旧防災炉の壁に描かれた線を見直した。
ベルナの鐘楼、東水路、西門。三つの設備から集まった線が、この炉で一本になり、北東へ伸びている。
「これ、暖気を送る管じゃないですよね」
「信号を送る線だ。昔は街と街で防護設備をつないでいた」
オルバンさんは煤のついた指で図面を示した。
「ベルナで大きな災害が起きれば、ハルゼン側にも備えるよう知らせる。山道から避難してくる者を受け入れるためにな」
「ずいぶん気の利いた仕組みですね」
「作った頃は、な」
その言い方が気になった。
イネスさんは炉の記録紙を巻き戻し、最後の印字に検査鏡を寄せた。
『全系統応答確認。待機解除』
その下に、もう一行ある。
『外郭防護網第二中継路 継続信号送出』
「……送っちゃってるじゃないですか」
「ええ。昨日の夕刻です。記録上は、ハルゼンへ信号を送っています」
「向こうが受け取ったかは?」
「受領の記録がありません。この設備は送信できても、相手の状態を詳しく知ることはできないんです」
向こうで何が起きたかは、わからない。
わからないのが、怖かった。
「まず、こっちから余計な信号が出ないようにしましょう」
俺が言うと、イネスさんは頷いた。
「炉心の温度は安全域まで下がりました。次は、外郭防護網へ続く回路を切り離します」
彼女は制御盤の奥から、銅の連結板を引き出した。
接点には、新しい磨き跡がある。十年間閉じられていた炉の中で、そこだけが妙に光っていた。
「……ここ、誰かが触ってる」
「はい。しかも、本来は外して保管するはずの連結板が、差し戻されています」
オルバンさんの表情が強張った。
「俺が閉鎖したとき、外したはずだ。台帳にもそう書いた」
「つまり、誰かが炉を動かせる状態に戻した」
リゼの言葉に、イネスさんは慎重に答える。
「少なくとも、この部分は人の手で復旧されています。誰がやったかは、まだわかりません」
守護竜の胸に押し込まれた金具とは違う。
ここには黒い糸がない。代わりに、誰の目にも見える細工があった。
イネスさんとオルバンさんが回路の安全を確かめ、専用の絶縁具で連結板を外す。
かちん、と小さな音がした。
壁の奥へ伸びる青い糸が、ふっと光を失う。
「送信経路、遮断を確認。炉はこのまま冷却します」
俺はようやく息を吐いた。
けれど、昨日送られた信号までは取り消せない。
◇
「ハルゼンへ至急連絡を入れる」
炉の外へ出ると、隊長はすでに衛兵へ指示を飛ばしていた。
「通常の伝声具と早馬、両方だ。古い中継所には近づくなと伝えろ。向こうの衛兵隊にも調査を要請する」
「それなら、俺たちはここで待てば……」
言いかけた俺に、イネスさんが首を横に振った。
「通常の伝声具では市庁舎へ連絡できます。でも、旧中継所の制御状況までは調べられません。向こうの技師が確認する必要があります」
隊長は伝令から受け取った紙に目を通した。
「ハルゼンの衛兵隊へは連絡がついた。だが旧中継所の管理技師は不在だそうだ。後任もまだ決まっていない」
「……都合が悪すぎません?」
「偶然かどうかは調べる」
隊長は記録紙を折り畳まず、証拠袋へ収めさせた。
「修理屋。お前はあの黒い糸を見た。次の街に同じものがあれば、見分けられるな」
「見つけるだけなら。ほどくとなれば、今の手じゃ厳しいです」
「わかっている。無理に触れとは言わん」
隊長は俺の包帯を見て、それからリゼへ視線を移した。
「剣士。こいつを一人で歩かせる気はあるか」
「ありません」
「即答かよ」
「ジオ。自分の行動を振り返ってみて」
反論しようとして、やめた。
守護竜の胸に登って、両手をこんなふうにしたのは俺だ。
「ハルゼン側には、こちらの調査結果を渡す。お前らは先遣として向かえ。現地の衛兵の指示に従い、危険な設備へ勝手に踏み込むな」
隊長の声は、いつもどおりぶっきらぼうだった。
「俺はベルナに残る。まだ点検の終わらん設備がある」
「イネスさんも?」
「私はここの冷却と、三つの設備の安全確認を引き継ぎます。向こうの組合には、技術記録の写しを送りますね」
全員が同じ場所へ走ればいいわけじゃない。
ベルナにはベルナの仕事が残っている。
「……わかりました。行きます」
俺が答えると、隊長は一度だけ頷いた。
「道中で無理をするな。修理屋」
最後まで、俺をそう呼んだ。
◇
店へ戻ると、《針と火種》の看板がいつものように傾いていた。
先代が斜めに取り付けたまま、直さずにいる看板だ。
「しばらく留守にするのね」
リゼは戸口で荷物を確かめていた。
「店番を頼める人、探さないと」
「品物は預かってないし、戸締まりだけならメル婆さんに相談してみる」
「ちゃんと相談してから決めてね。勝手に鍵を置いていかないで」
「信用がない……」
「あるから言ってるの」
俺は一瞬、返す言葉を失った。
リゼは何でもない顔で包帯の替えを袋へ入れている。そういう言葉を、本人だけが何でもないみたいに言うのはずるい。
針箱を手に取る。
銀の針は、まだ布に包まれたままだ。持っていっても、今すぐ使えるわけじゃない。
「それも持つの?」
「ああ。使わずに済むのが一番だけどな」
「じゃあ、使わずに済む方法から考えて」
「先代みたいなこと言うなあ」
リゼは少し笑った。
「あなたがいつも話してるからよ」
俺は針箱を閉じ、作業帳を一冊だけ鞄に入れた。
先代が残したもの全部は持っていけない。でも、あの人の仕事の仕方なら、もう頭に入っている。
◇
メル婆さんのパン屋では、煙突の新しい煉瓦が積み上がっていた。
まだ焼き窯に火は入っていない。代わりに、店先の小さな仮炉から、香ばしい匂いが漂ってくる。
「……パンだ」
「そんなに驚くことかい」
メル婆さんが笑った。
「窯はまだ直ってないけどね。平たいパンなら、こっちでも焼けるよ」
トトが布に包んだ二枚を持って駆け寄ってきた。
「ジオ兄ちゃん! 聞いたよ、隣の街に行くんでしょ?」
「誰から聞いたんだ」
「衛兵のお兄さん! 荷車の人が通るって!」
相変わらず、この街の子どもは耳が早い。
「お店、開くときにいないの?」
トトの声が少しだけ小さくなる。
俺はしゃがんで、目線を合わせた。
「帰ってくる。そのとき、一番最初のパンを買う約束、まだ有効だろ?」
「うん。でも、これも持ってって」
差し出されたのは、仮炉で焼いた平たいパンだった。
ふちが少し焦げて、真ん中だけ妙に膨らんでいる。
「僕がひっくり返したんだよ。ちょっと早かったけど……」
「なら、上出来だ」
ひと口かじる。
外側は硬い。でも中は温かくて、噛むと小麦の甘さが広がった。
思わずもうひと口食べると、トトが嬉しそうに笑った。
「リゼ姉ちゃんのもある!」
「ありがとう、トト」
リゼが受け取る横で、メル婆さんが俺を見た。
「ジオ。店の戸締まりなら引き受けるよ。こっちの工事も、もう大工さんたちが回してくれてるからね」
「助かる。無理はしないでくださいよ」
「そりゃこっちの台詞だよ」
俺は頭をかいた。
何も言い返せない相手が、この街には多すぎる。
「帰ってきたら、ちゃんとした窯で焼いたパンを食わせてやる。だから、怪我を増やすんじゃないよ」
「……はい」
俺はもう一度パンをかじった。
守るために、働き続ける魔法。
そのせいで壊れた店が、今は自分たちの手で少しずつ直されている。
止めて、休ませて、直して。また火を入れる。
俺は、そっちのほうが好きだ。
◇
夕方、北東門には小さな荷馬車が待っていた。
衛兵の一人が御者台に座り、隊長から預かった封書を胸元へしまっている。ハルゼンの衛兵隊へ渡す正式な調査依頼だ。
「出発します。街道の途中で一泊して、明朝には着く予定です」
「了解です」
俺とリゼは荷台へ乗り込んだ。
ベルナの屋根が夕陽に染まっている。修理の終わっていない店も、まだたくさんある。守護竜だって、完全な点検が済むまでは広場で休ませたままだ。
全部を直してからでなければ、次へ進めないと思っていた。
でも、俺がいなくても直せるものはある。
俺にしか見えないものがあるなら、それを確かめるために歩けばいい。
「ジオ」
隣でリゼが言った。
「帰ってきたら、まず何をする?」
「店の掃除かな」
「本当に?」
「……パンを買ってから掃除する」
「でしょうね」
荷馬車が動き出す。
街の門がゆっくり遠ざかっていった。
懐には銀の針。鞄には先代の帳面。そして、冷めかけた平たいパンが一枚。
十年前に止められたはずの魔法が、街を越えて動き始めている。
誰が何のために起こしたのかは、まだわからない。
それでも、このまま見過ごす気にはなれなかった。
「……次はハルゼンか」
北東の街道の先には、まだ見えない街がある。
どうかそこでは、修理代を払ってくれる普通の客が待っていますように。
そう願ったところで、リゼが隣から言った。
「嫌な予感がするから、その顔やめて」
「顔でわかるのかよ」
「だいたいね」
荷馬車が石畳を離れ、土の道へ入る。
ベルナの鐘が、背中で小さく鳴った。
今度は手で鳴らした小さな鐘じゃない。
修理を終えた鐘楼の大鐘が、一度だけ、夕暮れの空へ響いていた。




