第3話 守り神よ、そこは守る側だろ
間抜けな声が、自分の口から漏れた。
ついさっきまでパンを焼いていた店が、半分なくなっていた。
崩れた屋根から白い粉が舞い上がる。小麦粉なのか、砕けた石なのかもわからない。焦げた木の匂いに、焼きたてのパンの甘い香りが混じっていた。
「ジオ! ぼうっとしない!」
リゼの声で、ようやく息が戻った。
「トトが中にいる!」
彼女は俺の返事も待たずに走り出した。剣を抜き、落ちてきた木片を横から斬り払う。
そうだ。トトだ。
メル婆さんもいる。
さっき笑っていた二人が、あの下に。
「くそっ!」
俺も地面を蹴った。
店の入り口があった場所には、守護竜の石の翼が突き刺さっている。看板は折れ、焼き窯の周りには割れた煉瓦が散らばっていた。
「トト! メル婆さん! 返事してくれ!」
呼びかけても、返るのはぱらぱらと瓦礫が落ちる音だけ。
心臓が嫌な音を立てた。
ついさっき、トトは小麦粉の袋を抱えていた。重そうに運ぶ姿を、みんなで笑って見ていた。
あんな何でもない光景が、どうしてこんなことになる。
まさか。
そんなはずがない。
「……ジオ、兄ちゃん?」
か細い声がした。
「トト!」
崩れた陳列棚の向こう。小さな手が、積もった小麦粉の中から伸びていた。
隣にはメル婆さんもいた。彼女はトトを抱くように丸まり、背中で棚を支えている。
「大丈夫か!」
「トトは……無事だよ。あたしはちょっと、腰が抜けちまってね」
いつもの調子で言おうとしたのだろう。
けれど声が震えていた。前掛けの肩口が赤く染まっている。
トトは泣くのをこらえていた。唇を噛み、メル婆さんの前掛けを離そうとしない。
「ばあちゃん、痛いって言わないんだ。ずっと、ぼくのことばっかり……」
その言葉を最後まで聞くのが怖かった。
「わかった。二人とも連れて出る。約束する」
俺は自分に言い聞かせるように答えた。
リゼが棚の下へ身をかがめた。
「私が持ち上げる。ジオ、二人を引っ張り出して!」
「待て! その上に梁が乗ってる。棚だけ動かしたら全部落ちる!」
見上げれば、折れた太い梁が斜めに引っかかっていた。支えているのは、今にも潰れそうな陳列棚一本だけだ。
「じゃあ、どうするの!」
どうする。
俺の針で木材は直せない。
力任せに引き抜くこともできない。
視線を巡らせた、そのとき。
通りに、荷運び用の飛行板が横倒しになっているのが見えた。
商人が荷箱を載せて運ぶ、小さな魔導具だ。荷車ほどの重さは持ち上げられない。ましてや、屋根を支える梁なんて本来は無理だ。
でも、ほんの少し浮けばいい。俺たちが身体を滑り込ませるだけの隙間ができれば。
「リゼ、十秒くれ!」
「長い!」
「じゃあ八秒!」
「値切れば何とかなると思わないで!」
怒鳴りながらも、リゼは棚を両手で支えた。
俺は飛行板を引きずり寄せ、梁の下へ押し込む。魔晶石は生きている。けれど、落ちた衝撃で魔力の流れが止まっていた。
銀の針を抜く。
目を凝らせば、板の内側に青い糸が見えた。端が外れ、力を伝える輪が途切れている。
「頼むぞ。今だけでいいから!」
糸をすくい、つなぎ直す。
じり、と指先が焼けた。
痛い。けれど手は止めない。
魔晶石が光り、飛行板が低く唸った。
「上がれっ!」
板が浮く。
ほんの少しだけ、梁が持ち上がった。
「リゼ、今だ!」
リゼが棚を横へ押し倒す。俺はトトの腕をつかみ、瓦礫の外へ引き寄せた。
続いてメル婆さんの手を取る。
「痛いとこあるか!」
「肩だね。でも、手は動くよ」
「よし。文句はあとで聞く!」
「そりゃ、たっぷりあるよ!」
その返事に、少しだけ胸が軽くなった。
だが、まだ終わっていなかった。
みしっ、と飛行板が鳴る。
魔晶石に細い亀裂が走った。
「まずい、持たない!」
リゼがメル婆さんを抱き上げ、俺はトトを胸に引き寄せた。
飛び出した直後、背後で梁が落ちた。
木材が砕ける音に、トトがびくりと身体を震わせる。
俺はその頭を抱えた。胸のあたりで、小さな肩が何度も上下している。
朝の俺は、トトに強くなりたい理由を聞いた。
今はその子が、こんなに必死でしがみついている。
守らなきゃいけないのは、こっちだろう。
「もう大丈夫だ。……いや、まだ大丈夫じゃないけど、とにかく俺から離れるな」
「どっちなの、ジオ兄ちゃん……」
「今、俺も整理してる!」
通りでは近所の人たちが動き始めていた。
靴屋の爺さんが水桶を運び、花屋の娘が避難する人々を誘導している。誰かが衛兵を呼びに走った。
「メルさん、こっちへ!」
リゼが二人を預ける。
メル婆さんは顔をしかめながらも、俺の袖を引いた。
「ジオ。……トトを、ありがとうね」
いつもは声の大きい人が、こんなに小さな声を出すのかと思った。
「礼はあとで。パン三個で勘弁してやる」
「二個で手を打ちな」
「命の恩人にまで値切るのかよ!」
メル婆さんが笑う。頬に涙が伝っていた。
その笑顔を見た瞬間、足から力が抜けそうになった。
生きている。
二人とも、生きている。
――よかった。
だが、安堵したのは一瞬だった。
ごりっ。
壊れた店の奥で、石がこすれる音が響いた。
守護竜が、動いた。
崩れた壁を押しのけ、巨大な頭が持ち上がる。赤く光る目が、ゆっくりと通りを見渡した。
鱗の隙間から、煤のような黒い靄が漏れ出している。
「な、何だ、あの黒い煙……!」
近くの商人が叫んだ。
やっぱり、見えているのか。
石造りの竜から煙が出ること自体は、おかしくない。だがあれは火の煙じゃない。風が吹いても流されず、鱗の周りにまとわりついていた。
糸は俺にしか見えない。けれど、あの黒い靄は別らしい。
「ジオ、下がって!」
リゼが俺を押しのけた。
次の瞬間、守護竜の尾が振り抜かれる。
石畳が割れ、拳ほどの破片が飛んだ。
リゼは剣で大きな破片を弾き、返す刃で尾の先端を斬りつけた。
金属を叩くような音。
石の鱗が数枚、砕け散る。
「硬っ……!」
「そりゃ石だからな!」
「今そういう感想いらない!」
ごもっとも。
守護竜は、翼を広げて立ち上がった。崩れたパン屋の奥で、焼き窯だけが不思議なほど原形を保っている。
その窯を囲うように、守護竜の前脚が石畳へ食い込んでいた。
……なんだ?
襲ってきたにしては、妙な位置だ。
考えかけたとき、守護竜の首がこちらを向いた。
赤い光が、ひときわ強くなる。
「リゼ、来るぞ!」
「わかってる!」
彼女が剣を構え直す。
俺も銀の針を握った。
守護竜の身体に視線を向ける。無数の魔法の糸が、暴れるように絡み合っていた。
そして、その奥に。
あのとき見えた、黒いもの。
今度は、はっきりと見えた。
一本の糸が、無理やりほかの糸を縛りつけている。
故障じゃない。
誰かが、こうなるように仕組んだんだ。
「……ふざけんなよ」
守護竜の喉の奥が赤く灯った。
あの巨体から炎まで吐かれたら、下街がどうなるか。
考えるまでもない。
「リゼ!」
「何!」
「まずは、あいつの口を閉じさせる!」
「方法は?」
「今から考える!」
「せめて考えてから言って!」
守護竜が大きく息を吸い込んだ。
熱気が通りを走る。
メル婆さんの店で、火の粉が舞った。
その向こうで、トトが俺を見ている。
さっき、木の剣でばあちゃんを守りたいと言っていた子どもが。
俺は針を握り直した。
壊れた魔法なら、直せるかもしれない。
でも、その前に――。
「全員、伏せろ!」
守護竜の口から、炎が噴き出した。




