第2話 守り神に修理代は請求できますか?
共同井戸は、下街の中央広場にある。
古い井戸には魔晶石をはめ込んだ滑車がついている。取っ手に触れるだけで水桶が上がってくる。
ただし、今日は動かない。
「さて、患者の具合を診ますか」
俺が工具箱を開くと、隣でトトが背伸びをした。
「ねえ、ジオ兄ちゃん。なんで針が七本もあるの?」
「ふふふ。よくぞ聞いてくれた。これこそ俺の秘密兵器――」
「縫い物するの?」
「最後まで聞いてくれない!?」
リゼが横で吹き出した。
なんだよ。秘密兵器はもう少し格好よく紹介させてくれよ。
「魔法を縫うんだよ。俺には、普通の人に見えないものが見えるんだ」
「お化け?」
「そっちは見たくないな」
針を一本抜き、井戸へ顔を近づける。
目を凝らすと、魔晶石から青白い光の糸が何本も伸びているのが見えた。
糸は滑車の内部で複雑に結びついていた。
魔法の《縫い目》だ。
こんなものが見えるのは、俺だけらしい。
ほかの修理屋は検査器で魔力を測り、検査鏡で術式の働きを調べる。部品の故障なら交換し、術式が傷んでいれば刻み直す。
腕のいい職人には、俺より早い人だっている。
俺は縫い目を直接見つけられる。その分、普通の工具では触れないところに針を入れられる。
でも、見えるだけじゃ何の役にも立たない。
「……お。いたいた」
輪の奥で一本、青い糸がねじれていた。
針先を差し込み、絡まった部分を少しずつほどく。
指がちりっと熱くなった。
「いっ……」
「ジオ、大丈夫?」
リゼが手元を覗き込む。
「平気。ちょっと熱かっただけ」
「昨日もそう言ってたわよ」
「修理屋の指先は繊細なんだ。いたわってくれ」
「じゃあ無茶しないことね」
まったくもって正論だ。
糸を無理に引けば身体を傷めるし、壊れた部品や空の魔晶石は別の方法で直すしかない。
だから、普通の修理技術も欠かせない。
それを教えてくれたのは、育ての親でもある先代だった。
あの人には、糸が見えなかった。
それなのに、俺が幼い頃「魔法が糸になって見える」と言っても、笑わなかった。
『お前だけに見えるなら、俺には確かめようがない。だから教えろ。どこにあって、どう動くのか』
そう言って、遅くまで一緒に研究してくれた。
今握っている銀の針も、あの人が作ってくれたものだ。
『才能に頼って仕事を雑にするなよ。直したあとも使うのは、お前じゃなくてお客さんなんだからな』
何度も聞かされた言葉を思い出し、俺は結び目を慎重に整えた。
青い光がすっと落ち着く。
滑車が、きい、と小さな音を立てた。
「よし、完了!」
取っ手を押すと、水を満たした桶がゆっくり上がってきた。
「わあっ! ジオ兄ちゃん、すごい!」
「もっと褒めろ」
「天才!」
「いいぞ」
「かっこいい!」
「その調子だ」
「でも朝は起きない!」
「そこは褒めなくていい!」
リゼが声を上げて笑った。
将来有望な敵を育ててしまった。
水桶は俺が持った。
トトには重すぎる桶だった。
「ぼくも持てるよ!」
「知ってる。でも今日は俺が持ちたい気分なんだ」
「変なの」
「そう。大人は大体変だぞ」
「そこまで言わなくていいでしょ」
リゼがもう一つの桶を持って並ぶ。
水を届け、そのまま修理代を受け取ることにした。
「まったく。トトのお小遣いを出させるなんて、とんでもないね」
事情を聞いたメル婆さんは、店の奥から焼きたての丸パンを二つ持ってきた。
「出させてませんって。ちゃんと返しました」
「知ってるよ。だから今日は、これで勘弁しておくれ」
差し出された紙袋から、小麦の甘い香りがふわりと立つ。
「……神様」
「何を拝んでるんだい」
「メル婆さん、一生ついていきます!」
「じゃあ明日の朝も井戸を見ておくれ」
「修理代は別料金で!」
「現金な子だねえ!」
メル婆さんが笑う。
パンを一つ取り出す。きつね色の表面は、指で押すと柔らかく戻ってきた。
一口かじる。
香ばしい皮がぱりっと割れ、熱い湯気が口いっぱいに広がった。
「……うっま」
「本当に幸せそうね」
リゼももう一つを食べて、目を細めている。
「今日もおいしいわ、メルさん」
「そりゃよかった。トト、次の粉を持ってきておくれ」
「うん!」
トトが奥から小麦粉の袋を抱えて出てきた。足元がふらつき、慌てて踏みとどまる。
メル婆さんが笑って、そっと袋の下に手を添えた。
「この子ね、最近よく言うんだ。早く大きくなって、あたしを楽にしたいって」
「ほう」
「まだ八つなのにね。あたしは、あの子が毎日笑ってくれたら、それで十分なんだけど」
皺だらけの指が、トトの小さな頭を撫でる。
トトは少し照れくさそうに笑った。
俺は二人を見ながら、もう一口パンをかじった。
美味いものを食べられて、明日も同じ人に会える。
そういう朝が続けばいいと思う。
大げさな願いなんかじゃない。
店に戻る途中、リゼが立ち止まった。
「ねえ、ジオ。看板、まだ直さないの?」
見上げると、《針と火種》と書かれた木の看板が右に傾いていた。風が吹くたび、ぎい、と頼りない音を立てている。
「俺は魔法修理屋だぞ。大工じゃない」
「釘を一本打ち直すだけでしょ」
「専門外だ」
「便利な言葉ね、専門外って」
笑ってごまかしながらも、看板から目を離せなかった。
三年前、先代が出かけていった日も、あれは同じように傾いていた。
『帰ったら看板を直すぞ。お前も手伝え』
『俺は大工じゃねえって』
『修理屋がそんなこと言うなよ』
笑いながら頭をくしゃくしゃに撫でてきた、大きな手。
あれから、三年。
先代は帰ってこない。手紙も届かない。
もう帰ってこないかもしれない。
それでも看板を直してしまえば、あの人が帰ってきたとき、約束した仕事が一つなくなる。
だから、ずっと手をつけられずにいる。
「……ジオ?」
「ああ。悪い」
リゼは少しだけ俺を見つめ、工具箱を持ち上げた。
「今日は私が持つわ」
「なんで?」
「持ちたい気分なの」
さっき俺がトトに言った言葉だ。
「変なやつ」
「あなたほどじゃない」
リゼはそれ以上、看板の話をしなかった。
だから俺も、いつもの調子で笑った。
「じゃあ、ついでに午後の仕事も全部頼める?」
「工具箱、返すわね」
「申し訳ありませんでした」
即座に頭を下げた。
命は大切にしたい。
――そのときだった。
ごおん。
大きな鐘の音が、下街に響いた。
「……ん?」
顔を上げる。
広場の向こうにそびえる鐘楼。その頂には、巨大な石の竜が翼をたたんで座っていた。
守護竜グラウ。
百年間、ベルナを守ってきた魔法仕掛けの守り神だ。危険が迫れば目覚めるらしいが、動く姿を見た者はほとんどいない。
「今、鐘の時間じゃないよな?」
「うん。しかも、変な音……」
ごおん。
今度の鐘は、ひどく濁っていた。
耳障りな音に、通行人が足を止めた。
ごきり。
何かが割れた。
守護竜の首が、ゆっくり動いた。
「……おい」
石の鱗がぱらぱらと落ちる。
たたまれていた両翼が広がり、その目に赤い光が灯った。
「ジオ、あれ!」
リゼが剣の柄に手をかける。
俺は癖で銀の針を抜き、目を凝らした。
魔法の糸が浮かび上がる。一瞬、見慣れない色が混じった気がした。
けれど、確かめる間はなかった。
ばきん、と鐘楼が砕けた。
守護竜が大きく傾き、翼を広げたまま宙へ飛び出す。
「うわっ、ちょっと待て!」
巨大な石の身体が落ちてくる。
広場ではない。
俺たちの店でもない。
その先は――メル婆さんのパン屋だった。
窓の向こうに、トトの姿が見えた。
「おい、そっちは――!」
轟音。
地面が跳ね、熱い風と白い粉塵が押し寄せる。
さっきまでパンの匂いがしていた屋根が、目の前で砕け散った。
リゼが何か叫んでいる。
でも、頭が追いつかなかった。
俺は見ていた。最初から、最後まで。
なのに、何一つ理解できない。
百年間街を守ってきたはずの竜が、パン屋に突っ込んだ。
「……は?」




