第1話 世界が終わる前に、パンを食わせろ
世界が終わろうとしていた。
空に走った亀裂は、もう王都の端から端まで広がっている。青空が裂けた向こうには、墨を流したような闇。そこから降る黒い槍が建物を貫くたび、地上で悲鳴が上がった。
王都を守る七つの魔導塔は、すでに六つが崩れ落ちていた。
残る一本も、今にも折れそうに傾いている。
「ジオ!」
背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、リゼが瓦礫を飛び越えてきた。白かったマントは泥と血で汚れ、手にした長剣は半ばから折れている。左腕は肩から力なく垂れたままだ。
それでも彼女は、俺の隣に並んだ。
「……見つかった?」
「ああ。空を直す方法なら」
「本当に?」
リゼの顔が明るくなる。
俺は答える代わりに、握った銀の針を見つめた。
方法はある。確実な方法が、たった一つ。
世界中の魔法をほどき、その力を集めて空の亀裂を縫い直す。
街灯も、井戸も、暖炉も。病院で誰かの命を支えている魔導具だって、すべてだ。ほどいた魔法は元に戻せない。
「……みんなの暮らしがなくなるのね」
リゼがつぶやく。
「ああ」
世界を残すために、そこで生きる人間の明日を奪う。
そんなものを、修理と呼べるのか。
足元が大きく揺れた。遠くで最後の魔導塔が軋む。時間がない。
「なあ、リゼ」
「何?」
「帰ったら、パンが食いたい」
「……は?」
「焼きたての。皮がぱりっとしてて、中がふわふわのやつ」
「今、その話をする?」
「今だからするんだよ」
だって、そんな明日が欲しくて、ここまで来たのだ。
「だから、別のやり方を試す」
「成功するの?」
「わからん」
「胸を張って言わないで」
「猫背で言ったら成功率が上がるのか?」
「そういう話じゃない!」
リゼは怒って、それから笑った。目尻に涙がたまっている。
「……付き合う。最後まで」
その声を聞いて、ようやく震えていた指に力が戻った。
「よし。じゃあ、最後の修理だ」
俺は世界の最後の縫い目へ、針を突き立てた。
◇
話は十か月ほど前にさかのぼる。
その頃の俺は、世界の終わりとは無縁の、実に平和な生活を送っていた。
平和な――はずだった。
「起きろおおおおっ!」
「うぎゃあああっ!」
ベッドがひっくり返った。
毛布ごと床に転がり、寝ぼけた頭をしたたかに打つ。
俺はしばらく天井を眺めてから、慎重に口を開いた。
「……地震?」
「私よ!」
「犯人が名乗り出た!」
見上げれば、リゼが仁王立ちしていた。栗色の髪を一つに結び、腰には長剣。顔立ちは整っているし、剣の腕も一級品だ。
元騎士という肩書きにも嘘はない。
それなのに、どうして朝の起こし方だけ山賊なんだろう。
「今、何時だと思ってるの!」
「……朝?」
「九時!」
「朝じゃないか」
「店の開店時間は?」
「九時」
「今は?」
「九時」
「つまり?」
「……開店記念日?」
「違うわ!」
リゼがこめかみを押さえた。
朝から頭痛とは気の毒なやつだ。
「あと五分だけ――」
「次はベッドじゃなくて、あなたを投げるわよ」
「おはようございます! 本日もいい天気ですね!」
俺は跳ね起きた。
俺の名前はジオ。二十二歳。職業は魔法修理屋。
ルーエン王国の西部、交易都市ベルナの下街で《針と火種》という小さな店を営んでいる。
ベルナは坂道の多い街だ。石造りの家が肩を寄せ合い、朝にはパンの香りが漂う。屋根の間を荷運び用の飛行板がゆっくり進み、通りには昨夜の灯りを消して回る係の姿があった。
この世界では、魔法は暮らしの道具でもある。
魔法使いは自分の魔力で火や風を生み出せるが、誰もがそんな才能を持っているわけじゃない。だから、魔晶石に蓄えた魔力で決められた術式を動かす《魔導具》が作られた。
火を起こす魔法炉。食べ物を冷やす保存箱。水を汲む井戸の滑車。
便利だけど、使えば魔力は減るし、古くなれば壊れる。
上街の金持ちは新品を買う。下街の住人は壊れるたびに俺の店へ持ち込む。
そのおかげで仕事には困らない。
収入に困らないとは、一言も言っていないけどな。
「ジオ、聞いてる?」
階下の工房で、リゼが依頼帳を広げていた。
「聞いてる聞いてる」
「今日の仕事は?」
「世界平和」
「違う」
「人類の幸福」
「違う」
「昼寝」
「そこへ着地しないで!」
机を叩かれた。
「共同井戸が止まったの。昨日から水が汲めないって」
「井戸か。あの水が出るやつだな」
「井戸の説明から始める必要ある!?」
リゼが深いため息をつく。
半年前、路地裏で怪我をしていた彼女を拾った。三日だけ泊める約束が、一週間になり、一か月になり、気づけば半年。
今では依頼帳も金庫も彼女の管理下だ。
俺は店主のはずなのに、なぜか毎朝怒られている。
乗っ取りの手口としては、なかなか見事である。
「ところで、朝飯は?」
「ないわよ」
「…………」
「何、その顔」
「昨日の残りは?」
「ない」
「パンの耳でも」
「ない」
「小麦粉なら?」
「何をする気?」
「水と混ぜて、可能性を追求する」
「せめて焼きなさいよ!」
俺は作業椅子に崩れ落ちた。
開店早々、生命の危機である。
「……リゼ。俺、今日を生き延びられるかな」
「その元気があれば大丈夫よ」
冷たい。人の心とかないのか。
もっとも、そんな言い合いをしながら店を出れば、下街にはいつもの朝が待っていた。
花屋の娘が色とりどりの花を並べ、靴屋の爺さんが店先で革靴を磨いている。石畳を荷車が通り、どこかで犬が吠えた。
焼きたてのパンの香りが風に乗る。
俺の腹が、ぐう、と鳴った。
「……聞こえた?」
「隣の通りまでね」
「困ったやつだな、俺の腹」
「持ち主に似たのよ」
言い返そうとしたところへ、小さな影が飛びついてきた。
「ジオ兄ちゃーん!」
「おっと。トトか!」
茶色い髪に小麦粉をつけた八歳の男の子。向かいのパン屋の孫、トトだ。大きすぎる前掛けを着けて、息を弾ませている。
「井戸、まだ直らないの?」
「今からだ。俺にかかれば、ちょちょいのちょいさ」
「昨日もそう言って三時間かかったよ!」
「子どもの記憶力って、時々残酷だな」
トトは笑ったが、すぐに黙り込んだ。前掛けのポケットを探り、銅貨を三枚取り出す。
「……これで足りる?」
「おい、それ、お前のお小遣いだろ」
「うん。でも、ばあちゃんの手が痛いんだ。井戸が動かないと、重い水を何回も運ばなきゃいけないから」
小さな手のひらに、使い込まれた銅貨が並んでいた。
俺はしゃがんで、トトと目線を合わせる。
「その金、木の剣を買うために貯めてたんじゃないのか?」
「……うん。リゼ姉ちゃんみたいに強くなりたいから」
トトは照れくさそうに笑った。
「強くなったら、ばあちゃんを守れるでしょ?」
俺は銅貨を握る小さな手を、そっと押し返した。
「だったら取っとけ。修理代は、ばあちゃんに払ってもらう」
「でも……」
「心配するな。俺には、とっておきの交渉術がある」
俺はパン屋から漂ってくる香りを吸い込み、厳かに告げた。
「焼きたての、でっかいパンだ」
「……パン?」
「そうだ。今の俺に金貨は要らん。パンをくれ」
「店主としての志が低すぎない!?」
リゼの声を聞きながら、トトが笑った。
銅貨をポケットへ戻すその顔は、もうさっきほど暗くなかった。
さて。腹も減ったし、さっさと井戸を直してしまおう。
この朝の俺には、それ以上に大事な仕事なんて、何一つなかった。




