第27話 街が止まっても、守りたいもの
街が止まっても、守るべきものは止められない。
マルドさんが口にしたその言葉が、妙に耳から離れなかった。
「……それ、依頼主が言ったんですよね」
「ああ。鍵を渡した帰り際だ。俺には何の話かわからなかったが」
東水路の倉庫に借りた仕事場で、マルドさんは受領書を見つめていた。
隊長は紙を証拠袋へ戻し、短く尋ねる。
「断ったという次の仕事。何を頼まれた」
「古い扉の錠を直せるか、と。場所を教える前に断ったんだ。もう関わりたくなかったからな」
「錠の形は見たのか」
「図を一瞬だけな。鍵職人なんで、形は覚えてる」
マルドさんが机の隅から木炭を取り、紙に線を引き始めた。
大きな円盤。その中心には三つの細い溝があり、外側を二重の輪が囲んでいる。普通の扉の錠にしては、妙な形だった。
「……ずいぶん厳重ですね」
リゼが覗き込む。
「人が入るだけなら、こんなもんは要らねえ。これは開けるより、閉じたまま保つための錠だ」
マルドさんの指が、円盤の外側をなぞった。
「しかも、ここの刻みを見てくれ。片方の輪を外しても、もう片方が残る。勝手に開かないようにした造りだ」
「詳しいですね」
「それで飯食ってるからな」
もっともだ。
俺だって魔導具のことなら、外から見るだけで大体の作りは想像できる。鍵にも鍵の職人の目があるのだ。
隊長が図の写しを取るよう部下に指示した。
「マルド。もう一度聞く。お前はその錠に触っていないな」
「触ってない。断った。それは本当だ」
男は初めて、俺たちの顔をまっすぐ見た。
「鍵の件は逃げずに話す。だから、あれを作らせた奴を見つけてくれ。俺の道具で誰かが死ぬなんて、御免なんだよ」
その言葉には、何も返せなかった。
俺も同じことを思う。自分が直した道具で、誰かが傷つくのは嫌だ。
◇
図を見たイネスさんの反応は早かった。
「これは……閉鎖型の遮断錠ですね」
組合の図面室で、彼女は棚から古い設計図を引き抜いた。
「魔導具が暴走しても、内部の魔力が外へ漏れないよう、区画ごと封じるための機構です。現在はもっと扱いやすい方式に替わっています」
「場所、わかります?」
「同じ型がほかにもあるか調べます。ただ、三重の溝がある古いものなら……」
彼女の指が、一枚の図面で止まった。
『北区旧防災炉』
その名には覚えがあった。
下街の北、石橋の先にある閉鎖された建物だ。子どもの頃、先代に連れられて前を通ったことがある。
「使われなくなった暖房炉ですよね」
「ええ。昔は冬の災害時に、避難所へ温風を送っていました。十年前の点検で危険が見つかり、炉は停止。いまは封鎖されています」
十年前。
先代が守護竜の点検に立ち会ったのと、同じ頃だ。
俺の顔を見たリゼが、先に言った。
「偶然かもしれないわ」
「……わかってる」
何でも先代につなげるのは違う。けれど、引っかかるものは引っかかる。
イネスさんは図面の欄外を示した。
「ここの遮断錠、閉鎖時に交換を勧告されています。でも工事費が足りず、当時の錠を残して封印した記録になっています」
隊長が設計図を受け取り、目を細めた。
「つまり、いまもその錠がある」
「記録が正しければ、です」
「見に行く。衛兵を先行させろ」
隊長の声には、いつも以上に余計なものがなかった。
俺は立ち上がり、壁に掛けた上着を取った。
「修理屋」
「はい。今日は見るだけです」
「言われる前に答えるな。現場では俺の指示に従え」
「……了解です」
少し先走ったらしい。
リゼが何も言わずに工具箱を持ち上げた。負傷した右手はだいぶ回復したが、針を使い込むにはまだ早い。
そのことを、彼女は俺よりよく覚えている。
◇
北区旧防災炉は、思い出よりずっと小さかった。
高い石壁に挟まれた建物の入口には、古い鎖が巻かれている。錆びた看板の文字は半分消えていた。
『許可なき立ち入りを禁ず』
隊長が先行した衛兵に尋ねる。
「中は」
「正面は施錠されています。ただ、裏手の換気口に新しい擦り傷が」
俺たちは建物を回った。
壁の低い位置に、金属の格子がある。下の泥が削られ、縁のねじだけ妙に新しい。
「ここから入ったのかしら」
リゼがしゃがんで覗いた。
「人間には狭すぎるな。でも、道具なら通せる」
俺が答えると、隊長がすぐに手を上げた。
「触るな。正面の管理鍵を手配する。中に人がいる可能性もある」
衛兵が走る。
俺は格子越しの暗闇へ目を凝らした。
奥の配管には、青白い糸が通っている。
「……おい」
思わず声が漏れた。
この建物は十年前に停止したはずだ。魔晶石が抜かれていれば、糸は眠ったままのはずなのに。
「どうしたの、ジオ」
「中で魔法が動いてる」
リゼの表情が変わった。
ちょうど戻ってきた衛兵が、管理鍵を隊長へ渡す。鎖が外され、扉が重い音を立てて開いた。
埃っぽい空気が流れ出してくる。
だが、冷たくはなかった。
「……暖かい?」
リゼが手袋を外して確かめる。
奥の通路から、かすかに温風が吹いていた。
「十年間止まってた炉が、勝手に動くわけないですよね」
「勝手かどうかは、見てからだ」
隊長が前へ出る。
通路の両脇には古い配管が並び、上の方で鉄がきしんでいた。壁際には魔晶石の搬送台車が一台。車輪の泥だけが乾ききっていない。
誰かが、最近ここへ来た。
イネスさんが持参した検査器を配管に近づける。
「炉心に魔力が供給されています。安全停止は……反応しません」
俺は息を詰めた。
また、止まれない魔法なのか。
けれど、目の前の糸は青いままだ。守護竜の胸にあった黒い結び目は、少なくともここからは見えない。
「黒い糸は?」
リゼが尋ねる。
「今は見えない。だから安全ってわけじゃないけどな」
イネスさんがすぐに炉の図面を開いた。
「この炉は本来、主回路を切っただけでは止まりません。内部に残った熱を逃がしてから遮断錠を閉める設計です。急に止めれば、熱が逃げ場を失います」
俺たちを見回して、続ける。
「無理に停止させないでください。まず温度を測ります」
隊長はうなずき、部下へ外の通路を封鎖するよう命じた。
俺は炉室の扉を見た。
円盤状の金具。その中央に、三つの細い溝。
マルドさんが描いたものと同じだった。
「……ここだ」
錠の下に、新しく磨かれたような銀色の筋がある。
誰かが最近、この扉を開けようとしたのだ。
リゼが俺の隣へ来た。
「ジオ。中に誰かいると思う?」
「わからん。でも、炉を動かした奴なら――」
言いかけたとき、扉の向こうで音がした。
こん、こん。
短い音が、二度。
金属を叩くような、乾いた音。
俺もリゼも、息を止めた。
「……誰かいるのか?」
問いかけると、少し間があった。
そして、くぐもった男の声が返ってきた。
「炉を止めるな」
隊長が一歩前へ出る。
「衛兵だ。名を名乗れ」
返事はない。
代わりに、扉の向こうで金属が擦れる音が響いた。
「頼む……。止めたら、今度こそ守れなくなる」
その声は、脅しでも怒鳴り声でもなかった。
何かを必死に押さえている人間の、震えた声だった。
俺は三つの溝が刻まれた錠を見つめた。
街を危険にさらしてまで、動かし続けたかったもの。
それが、この扉の向こうにあるのか。
「……何を守ってるんだよ、あんた」
答えが返るより先に、足元の床が、どくん、と脈打つように震えた。




