第26話 工具箱に残された名前
イネスさんが工具箱の留め金を開いた。
中には大小の鑢、ねじ切り刃、細い金属棒が、仕切りに沿って収まっていた。持ち手の汚れ具合がどれも違う。使う人間が、道具ごとに手入れをしていたらしい。
「……これだけきっちり並べられる人、うちにも欲しいな」
「最初に片づけるのは店主の仕事でしょ」
リゼが即座に返す。
「いや、俺は道具に自由を与えてるんだ」
「床に落とした鑢を踏んだの、先週の私なんだけど」
「……帰ったら片づけます」
イネスさんは俺たちの会話を聞き流し、鑢の柄を検査鏡へ向けた。
「刻印があります。旧保守工房の備品とは番号の形式が違いますね」
木の柄には、小さな四角い焼き印。その下に数字と文字が並んでいた。
『南棟設備課 貸与品 二七』
「これ、組合の道具ですか?」
「ええ。職員や契約技師へ貸し出す移動用の一式です。廃止された工房に、常備するはずがありません」
隊長が、戸口の衛兵を振り返った。
「貸出台帳を持ってこい。現物は動かすな」
衛兵が駆けていく。
俺は工具箱の中を覗き込んだ。真鍮を削る刃には、新しい傷がついている。鐘楼の裏口で見つかった鍵の欠片と、傷の幅が似ているという。
だが、似ているだけだ。誰が使ったかまでは、刃も教えてくれない。
それでも、少しずつ先が見えてきた。
「この一式を借りた人間なら、わかるんですよね」
「記録が正しければ、です」
イネスさんは淡々と答え、柄の番号を写し取った。
◇
貸出台帳が届いたのは、昼前だった。
旧工房の埃っぽい机を囲み、イネスさんが該当する頁を開く。
「二七番……ありました。貸し出しは三週間前。返却予定は、二週間前です」
「返ってきてないわけか」
「はい。それで利用者への催促状も出ています」
イネスさんが指を滑らせる。
署名欄に書かれていたのは、知らない名前だった。
『マルド・ケイン』
「誰ですか?」
「外部契約の設備技師です。古い安全装置の点検を請け負っていました。守護竜の鐘楼にも出入りしたことがあります」
隊長の目が細くなった。
「今はどこにいる」
「契約は今月で終了予定です。住所は……東水路の倉庫街ですね」
そこで、リゼが台帳の端を示した。
「借りた理由に『封鎖設備の安全確認』ってある。この人が調べたかったのは、どこの設備?」
「申請書を確認します」
イネスさんは別の紙を重ねた。
そこに記されていた対象設備は、鐘楼でも揚水場でも防護灯でもない。
『旧保守工房』
背筋が冷たくなる。
「……工房を調べるために借りた工具が、その工房に残ってたんですね」
俺が言うと、隊長は短くうなずいた。
「本人に聞く。修理屋、お前らも来い」
「いいんですか?」
「技術の話になれば、お前らのほうが早い。ただし、勝手に動くな」
「了解です」
リゼが俺の袖をつまんだ。
「包帯、ちゃんと巻き直してからね」
捜査の前に包帯の点検。俺への優先順位は、相変わらず揺るがない。
◇
東水路の倉庫街は、昼でも薄暗かった。
川沿いに背の高い倉庫が並び、荷を運ぶ飛行板が頭上をゆっくり通り過ぎていく。水と古い木箱の匂いが混ざっていた。
衛兵が先に調べたところ、マルド・ケインは倉庫の二階を作業場として借りているらしい。
隊長が階段を上がり、扉を叩いた。
「衛兵だ。マルド・ケイン、話を聞きたい」
返事はない。
もう一度叩く。奥で、がたん、と何かが倒れる音がした。
「……いるわね」
リゼが声を落とした。
隊長は部下へ目配せし、廊下の両端を押さえさせる。
「マルド。扉を開けろ」
数秒後、鍵が外れた。
現れたのは、痩せた中年の男だった。作業着の袖が肘までまくられ、頬には深い隈がある。目が真っ赤だった。
「……何の用です」
「旧保守工房に残された工具の件だ。お前の名前で借りられている」
男の視線が、一瞬だけ床へ落ちた。
「……あれか」
忘れていた道具を思い出した、という顔じゃなかった。
「中で話す」
隊長の声に、男は抵抗せず道を空けた。
部屋には図面が散らばり、机には小さな魔晶石の検査器が置かれていた。壁際には荷造り途中の木箱が一つある。
「工具は確かに借りました」
マルドは椅子へ腰を落とすなり、そう言った。
「旧保守工房にある、鐘楼の裏階段の鍵型を調べる仕事があると言われた。だから一式を持っていった」
「誰に言われた」
「名前は知らない。施設担当を名乗る男です。組合の書類も持っていました」
隊長の声が低くなる。
「その書類は」
「……ありません」
男は震える指を膝の上で組んだ。
嘘をついているのか、怯えているのか。それだけでは判断できない。
イネスさんが用意した工具箱の写しを、隊長が机へ置く。
「この箱を、なぜ工房へ置いたままにした」
マルドの喉が動いた。
「持ち出せなかったんです」
「どういう意味だ」
「三週間前、工房に入って鐘楼の裏階段用の鍵を削りました。俺がやったのは、それだけです。なのに、工具を取りに戻ったとき、工房の扉が別の錠に替えられていた」
俺は思わず口を開いた。
「……合鍵、作ったんですか?」
マルドがこちらを見た。
「作った。依頼書にそう書いてあったから」
胸の奥が重くなった。
ようやく、鍵を削った本人にたどり着いた。
けれど、守護竜を壊した本人かは、まだわからない。
「その依頼書、読んでおかしいと思わなかったんですか?」
俺の声は、自分でも少しきつかった。
マルドは俯いた。
「……思ったよ。使用禁止の裏階段だ。なんで今さら鍵が要るんだって」
「なら、どうして」
「金が必要だった。前金を受け取った」
あまりに生々しい理由だった。
俺だって、修理代が入らなければ店の家賃を払えない。だから金が欲しい気持ちはわかる。
それでも、あのパン屋が崩れた光景を思い出すと、簡単にうなずけなかった。
リゼが静かに尋ねた。
「依頼した人の顔は見たの?」
「帽子を深くかぶっていた。声は低かった。背丈は……俺くらいだったと思う」
リゼは追及せず、隊長へ視線を移した。曖昧な証言を無理に固めても仕方がない、ということだろう。
隊長が机の上を示す。
「作った鍵は、どこへ渡した」
「依頼主が取りに来ました。そのあと工房へ工具を取りに戻った。でも中へ入れず……」
男はそこで言葉を切った。
「それで?」
「怖くなったんです。勝手に鍵を作ったことが知られたら、仕事を失う。工具のことも、そのままにした」
隊長はしばらく黙っていた。
「無許可の複製なら責任は問う。だが、ここで隠せば余計に重くなる。持っている記録を全部出せ」
「……はい」
マルドが引き出しを開ける。
中から出てきたのは、前金の受領書だった。
隊長が紙を受け取り、目を走らせる。
「支払い印があるな。……組合の旧式確認印か」
丸の中に、三本の短い線。
あの匿名の警告状に押されていたのと、同じ形だった。
「隊長さん」
「わかっている。印が同じでも、依頼主まで同じとは限らん」
先回りされた。いや、実際そのとおりだ。
ただ、今回は一つ違う。
書類だけじゃない。鍵を作った職人が、目の前にいる。
「マルドさん。鍵を取りに来たとき、その人は何か言ってませんでした?」
男は少し考えたあと、ゆっくり顔を上げた。
「……言いましたよ。変なことを」
「何を?」
「『これで止まらずに済む』って」
部屋の空気が、冷たくなった気がした。
止まらずに済む。
守護竜の黒い糸。揚水場の弁。西門の防護灯。
みんな、止まることを許されなかった。
マルドが、もう一度口を開く。
「それから……鍵を渡したあと、俺に別の仕事を頼もうとしたんです」
「別の仕事?」
「鐘楼より古い設備の、点検だそうです」
俺は息を呑んだ。
「……どこの設備ですか」
男は小さく首を振った。
「断りました。場所までは聞いていない。ただ、その人はこう言いました」
マルドの声が、かすかに震える。
「『ベルナが止まっても、守るべきものは止められない』って」
俺は机の上の受領書を見た。
目の前の男から、鍵を受け取った誰か。
そいつは魔導具を壊すためじゃなく、何かを動かし続けるために、街の安全装置をねじ曲げたのかもしれない。
でも――。
街が壊れても止められないほど、大事なものって何なんだよ。




