第24話 三枚の点検票を用意した者
紙に残った数字は、四百二十一、四百二十二、四百二十三。
どれも、事件の前に作られた偽の点検票と同じ番号だった。
「……なあ、イネスさん」
「何でしょう」
「点検票の番号って、誰が書くんです?」
イネスさんは机の上に三枚の原本を並べた。
「書きません。用紙を刷る段階で入っています」
「え?」
俺は点検票の右下を覗いた。確かに番号の部分だけ、ほかの文字と同じ色で印刷されている。
「じゃあ、手紙の紙に数字の跡が残ったのは……」
「番号を別の紙に書き写したから、という可能性があります」
リゼが顔を上げた。
「わざわざ三枚分?」
「ええ。でも、誰が何のために書いたのかまではわかりません」
イネスさんは警告状へ灯りを近づけた。紙を傷めないよう、透明な保護板の上から角度を変える。
「こんな小さな跡まで残るんですね」
「書いた人が強く筆を押しつければ、下の紙に残ることがあります。古い帳面でも、よくあるんですよ」
先代も筆圧だけは強かった。帳面の一枚目に『工具を片づけろ』と書かれたら、三枚下まで俺への説教が届いていたものだ。懐かしいような、今でも腹立たしいような。
斜めの光に、細いへこみが浮かんだ。
「数字の左にも、何かあるわね」
リゼが指ではなく視線で示す。
数字の手前に、小さな文字の跡が三つ。上から順に、少しずつ形が違っていた。
「鐘、って読めません?」
「一番上は、そう見えます」
イネスさんが図を描き写す。
二つ目は『揚』。三つ目は『門』。
俺は三枚の点検票を見た。
鐘楼の守護竜。東の揚水場。西門の防護灯。
「偽の点検日も、この順番だったわ」
リゼが日付を読み上げる。十七日前、十二日前、八日前。
点検は一度に済んでいない。それなのに、番号と場所は事件の前から一組にまとめられていたかもしれない。
「……準備する順番まで、書いてあったのか」
「そうだとしても、準備したのが細工とは限りません」とイネスさん。「通常の点検計画でも、同じ略し方はできます」
そのとおりだ。
でも、胸の奥がざらついた。
警告状は一か月前に届いている。三枚の偽の点検票は、そのあとに使われた。
あの時点で、誰かは三つの設備の名前と、使う用紙の番号を知っていたのかもしれない。
「修理屋」
隊長が戸口から呼んだ。
「その紙の出どころは追えるか」
「俺には、紙の修理は無理ですけど」
「冗談はいい」
「……はい。すみません」
すると、イネスさんが封筒の縁を示した。
「紙そのものより、配達経路を調べたほうが早いかもしれません」
隊長はすぐに部下を呼んだ。
「組合便の仕分け記録を持ってこい。警告状が入った束を確認する」
仕事が速い。俺が工具箱を開けるより速い。
いや、今の手じゃ工具箱も開けられないんだけどな。
◇
組合便の仕分け室は、建物の南側にあった。
壁沿いに木箱が並び、部署ごとの札が下がっている。朝と夕方、係が書類を集めて各部屋へ届ける仕組みらしい。
受付係の女性が、古い帳面を開いた。
「一か月前の朝便ですね。審査室宛ての封書が一通、途中から加わっています」
「途中?」
「南棟の返却口です。そこには組合の職員以外も書類を預けられます」
地図で確認すると、返却口は旧保守工房へ続く裏路地の入口にあった。
「……またあそこか」
思わず声が漏れる。
回収された鍵。消えた型板。新しく削られたらしい真鍮の屑。
調べるたびに、十年前に閉じたはずの工房へ戻ってくる。
「そこへ投函した人は見ていないんですか?」
リゼが尋ねた。
「朝の回収前は無人です。外から入れられる箱なので、記録は残りません」
係の女性は申し訳なさそうに首を振る。
「ただ、一つ。あの日は紙の束が雨で濡れていたのに、その封筒だけ乾いていたそうです」
「あとから入れられた?」
「可能性はあります。濡れない場所に保管されていたのかもしれません」
イネスさんはすぐに断定しなかった。
俺も、今度は口を挟まなかった。
紙が乾いているだけじゃ、犯人の顔は浮かばない。
だが、投函場所がわかれば、調べられる場所は絞れる。
「隊長さん。旧工房の机、もう一度見られませんか」
「何を探す」
「数字を書き写した跡です。上に紙を置いて書いたなら、机に敷いた紙にも残るかもしれない」
隊長は少し考えた。
「現場は封鎖中だ。調査員に確認させる。お前は物に触るな」
「もちろんです」
隣でリゼが、妙に満足そうにうなずいた。
信用というものを、少しずつ取り戻したい。
◇
旧保守工房の扉には、衛兵の封印が残っていた。
隊長の立ち会いで開けられると、乾いた油の匂いが流れ出す。
机の上は以前調べたときのまま。図面棚にも加工台にも、検査済みの札が付けられていた。
「紙を敷いていたなら、この辺りでしょうね」
イネスさんが作業机を見た。
天板には古い傷がいくつもあり、隅に表紙の剥がれた薄い作業帳が置かれていた。以前の調査では、残りは白紙だと確認されたものらしい。
「一枚ずつ、光に透かしてみましょう。衛兵さん、お願いできますか」
隊長が顎で合図し、手袋を着けた衛兵が慎重に頁をめくる。
二枚目を持ち上げたところで、イネスさんの手が止まった。
「……待って。そこです」
灯りを当てると、文字のない紙の表面に、細いくぼみが浮かんだ。
浅いへこみが三列並んでいた。
『四二一 鐘』
『四二二 揚』
『四二三 門』
今度は、はっきり読めた。
「同じだ……」
リゼの声が低くなる。
俺は警告状を思い出した。数字の並びも、文字を省いた形も同じだった。
「ここで予定を書いた人がいる」
「その可能性は高いです」とイネスさん。「ただ、この紙の書き込みと警告状の圧痕が同時にできたかは、鑑定が必要ですね」
慎重な言葉に、俺はうなずいた。
だが、作業帳の余白には、さらに別の跡があった。
大きな四角い枠。その中に、短い文字が二つ。
『中止』
そして、それを強く横切る一本の線。
「……中止を消した?」
リゼの声に、イネスさんが顔を寄せた。
「文字を取り消した跡には見えます。でも、何を中止する予定だったかは……」
「修理屋」
隊長が呼ぶ。
振り返ると、隊長は調査員から受け取った小帳面を開いていた。
「この工房は、一か月前に一度だけ立ち入り許可が出ている」
「……十年間、閉まってたんじゃ?」
「雨漏りと錠の状態を確かめるためだ。組合の施設係が申請している」
帳面には、立ち会い者の名前が二つ記されていた。
一人は組合の施設担当職員。
もう一人は、外部の鍵職人。
『カイ・ヘルム』
「合鍵を作れる仕事ですね」
リゼが言った。
「そうだ。だが、本人が作った証拠はない」
隊長は帳面を閉じた。
「立ち会った二人から話を聞く。まずは、その日の作業内容だ」
俺は机の上に残る三列の数字を見た。
誰かが、ここで三つの設備を並べて考えた。
守護竜の胸を壊し、揚水場を止まれなくし、西門を閉ざした――そんな結果につながったかもしれない計画を。
でも、それだけじゃない。
『中止』という文字は、確かに残っていた。
何かをやめようとした人間も、ここにいたのだろうか。
隊長が戸口へ向かう。
「修理屋。帰るぞ。あとは話を聞いてからだ」
「……はい」
リゼが俺の工具箱を持ち上げた。
「ジオ、行くわよ」
「ああ」
誰かが始めた細工なのは、ほぼ間違いない。
ただ、俺にはまだわからなかった。
あの『中止』は、誰が、何を止めようとして書いた言葉なんだ?




