第21話 十年前の異常記録
先代が残した《別紙七号》は、見つからなかった。
「……ない、ですか」
「正確には、元の保管場所にありません」
イネスさんは、分厚い索引帳を閉じた。
魔導具組合の資料室。高い棚が壁を埋め尽くし、古い紙と乾燥剤の匂いがする。窓の外では荷車が行き交っているのに、ここだけ十年前から時間が止まっているみたいだった。
「点検票の本体は残ってるのに?」
「添付書類は別に保管する場合があります。特に、安全上の問題を報告したものは」
なるほど。俺が店の帳面へ修理代を書き忘れるのとは、事情が違うらしい。
「ジオ。今、妙な比較をしてない?」
隣でリゼが俺を見る。
「してない。心の中で事務仕事を尊敬してた」
「それなら帳面をつける習慣も尊敬して」
なぜ心の中まで読まれるんだろう。
俺たちが探しているのは、十年前、先代ロアン・セイルが守護竜の点検に立ち会った際に残した異常記録だ。
先代は魔法の糸を見ることはできなかった。それでも、誰よりしつこく検査器を覗き、数字が一つでもおかしければ調べ直す人だった。
『確かめるまで、直ったと言うな』
作業帳に残っていたその言葉が、まだ耳の奥にある。
「別紙が破棄された可能性は?」
リゼが尋ねた。
「あります。ただ、破棄したなら処分記録が残ります。今のところ、それも見当たりません」
イネスさんの額に小さな皺が寄った。
そこへ扉が開いた。
「進んだか」
衛兵隊長だ。外では部下が廊下の出入りを確認している。
「保管先を照合しています。もう少し時間をください」
「構わん。資料室は封鎖してある。見つけても勝手に持ち出すな」
短く指示を残し、隊長は棚の反対側へ回った。
俺も索引帳へ顔を寄せる。
細かい字がびっしりだ。先代なら嬉々として読み始めただろう。俺は三行で眠くなる。
「……あれ?」
リゼが紙の端を指した。
「この印、さっきの一覧にもあったわ」
小さな三角の印。俺には汚れにしか見えなかった。
「保管場所を移した印です」とイネスさん。「たしかに。こちらの書類にも……」
彼女は別の棚から、さらに古い索引帳を持ってきた。
項目をたどる指が止まる。
「ありました。《危険判定・未解決》の資料庫へ移されています」
「未解決?」
十年前の点検票には『作業完了』とあったはずだ。
イネスさんは首をかしげた。
「設備の点検は完了。でも、見つかった異常の原因は解明されなかったのかもしれません」
胸が妙にざわついた。
◇
地下の資料庫は、上の部屋よりずっと冷たかった。
鍵の掛かった棚から、イネスさんが薄い封筒を取り出す。表に、赤い文字が残っていた。
『別紙七号 守護竜緊急停止試験・異常応答』
間違いない。
隊長が封の状態を確認し、開封を許可した。取り出された紙は三枚。端が黄ばんでいるが、文字は読める。
「……あった」
俺の声が、ひどく頼りなく響いた。
一枚目には試験の手順が書かれていた。
守護竜へ危険を知らせる。人を守る動作を始めさせる。その途中で緊急停止を命じ、止まるまでの時間を測る。
「十年前にも、こういう試験をしてたんですね」
「守護竜は巨大な魔導具ですから。止められるかどうかの確認は必須です」
イネスさんが二枚目をめくった。
表には細かい数値が並び、一か所だけ赤く囲まれていた。
『停止指示後、七呼吸相当の動作継続を確認』
「七呼吸……?」
俺は思わず、自分の息を数えた。ひとつ、ふたつ。それだけの間にも、守護竜なら通りを一本壊せる。七つ数え終わる頃には、いったい何人が逃げ遅れるだろう。
「危険な長さです」とイネスさん。「攻撃動作中なら、命令を出してから七呼吸も動かれたら被害が出る」
そして、そのすぐ下。
『主回路遮断後も、旧式保護系統より動作指示あり』
俺は紙から顔を上げた。
「主回路を切ったのに、守護竜が動いた?」
「完全に動き続けたわけではありません。停止まで時間がかかった、という記録です」
イネスさんは続く欄を指した。
「そのとき、共同炊事炉からの危急信号も試験で入れていたようですね」
「……パン屋の、あの窯か」
百年以上前、街のみんなのために作られた炉。
守護竜はあの日、壊れた店の中でも焼き窯だけを庇い続けた。
「古い保護系統が、炉の信号を受けたまま働き続けた可能性があります。でも、十年前にはその原因を特定できていません」
リゼが静かに言った。
「十年前は七呼吸で止まった。でも今回は、止まろうとしても止まれなかったのね」
「ああ」
俺は守護竜の胸で見たものを思い出した。
金色の糸が伸びようとするたび、黒い糸が締め直していた。普通の停止命令とは別に、何か古い働きが残っている。そこを、誰かが強引に引っ張ったんじゃないか。
けれど、それは俺の推測だ。
「イネスさん。今の細工が、これを利用したって証拠はありますか」
「まだありません。ただ、古い保護系統が残っていたことを、知る手段はあったわけです」
そう言って、最後の紙を開いた。
そこには守護竜の胸部断面図が描かれていた。
赤い丸。先代の帳面に挟まっていた図と、同じ位置だ。
『旧式保護系統は単独で作動する場合あり。停止確認を二系統で実施すること』
さらに、試験担当者が独立遮断器を操作してようやく停止させた、とあった。何もせず七呼吸待てば勝手に止まったわけじゃない。
先代はそんな危険を見逃さず、止めるための道を別に残そうとしたんだ。
その横に、見慣れた右上がりの字で追記がある。
『止まれない守り神を、守り神と呼べるのか』
……先代だ。
ぶっきらぼうな字なのに、妙にその人らしい。
思い出すのは、仕事場での背中だった。
小さな炉を直したあとでも、先代は必ず火を落とし、ちゃんと消えるか確かめていた。急いで帰ろうとする俺を呼び戻し、最後の確認をさせた。
『明日も使うんだぞ。今日動けばいいってもんじゃねえ』
俺は長いこと、それをただの小言だと思っていた。
「……あの人、ここでも同じこと言ってる」
リゼは俺の横に立ち、追記をしばらく見つめた。
「ジオが守護竜を壊したくなかった理由、少しわかった気がする」
「俺は単に、請求書の宛先がわからなかっただけかもな」
リゼは笑わなかった。
「そういうことにしておくわ」
それだけ言って、紙の端を押さえてくれた。
隊長は三枚を見比べていた。
「この資料に触れた者の記録はあるか」
「閲覧簿を確認します」
イネスさんが封筒の裏から小さな台紙を抜き取る。
十年前の入庫日。その下には、いくつかの古い閲覧記録。古い帳面を読みたいだけなら誰でもいいわけじゃない。取り扱いが制限された資料なので、申請には理由が要るらしい。
そして一番下に、比較的新しい日付があった。
「……一か月前に閲覧されています」
室内の空気が変わった。
「誰が見た」
「申請は、旧式設備の保守資料照会。名前の欄は……」
イネスさんが目を細めた。
「組合の部署印だけです。個人名は残っていません」
隊長の表情が険しくなる。
「その部署の照会記録を出せ。許可した者も調べる」
「はい」
俺はもう一度、先代の追記へ目を落とした。
十年前にわかっていた危険。七呼吸だけ、止まれなかった守護竜。
それが今回、街を焼きかけた。
先代は止め方を残した。
誰かは、その反対をやった。
資料を見た人間が細工をしたとは、まだ言えない。けれど、古い異常を知っていた人間が、少なくとも最近いた。
「……なあ、先代」
声に出さず、心の中で尋ねた。
あんたの書いた警告を、誰が読んだんだ?
そして、どうして――守るための魔法を、止まれないようにしたんだ?




