第20話 十年前の署名
十年前の署名を見てほしい。
そう言われて衛兵詰所へ戻った俺は、机の上の紙を見た瞬間、息を止めた。
「……なんで、これがここにあるんだ」
黄ばんだ点検票の右下。そこには、少し右上がりの文字で名前が書かれていた。
『ロアン・セイル』
そして、名前の横には小さく《針と火種》とある。
俺を育てた、先代の名前だった。
「ジオ?」
隣のリゼが俺の顔を覗き込む。
「……先代の字だ」
口にした途端、胸の奥が妙に痛くなった。
三年前に出かけたきり、帰ってこない人。今でも店の看板を斜めのままにして待っている、あの人の名前が、こんなところにある。
「修理屋。知っている署名か」
隊長の声に、俺はうなずいた。
「育ての親です。俺に修理を教えた人で……三年前から行方がわかりません」
隊長は俺を見て、それから点検票に視線を落とした。
「十年前の書類だ。今回の件とつながるとは限らん」
「……はい」
わかっている。
でも、どうしても目を離せなかった。
◇
「確認したいのは、署名だけではありません」
魔導具組合から来ていたイネスさんが、別の帳面を開いた。
「これは旧保守工房が閉鎖される直前の点検票です。番号は四百二十。担当設備は鐘楼の守護竜」
彼女は表題の下にある記述を指さした。
『緊急停止系統の独立確認』
「当時、安全装置の改修が行われたようです。作業責任者は組合の技師。ロアンさんは外部の修理職人として立ち会っています」
「先代が、守護竜を?」
「改修そのものを担当した記録ではありません。動作確認に協力した、というところですね」
イネスさんらしい、慎重な説明だった。
俺は点検項目を追う。魔晶石の出力、翼の制御、炎の緊急遮断。その一番下に、細い字で追記があった。
『危急時、継続命令より停止命令を優先すること』
懐かしい字だった。
先代は、難しい術式の説明になるほど字が小さくなる。俺が子どもの頃、帳面を覗いても読めず、よく文句を言ったものだ。
『読めねえなら聞け。わからねえまま客に渡すな』
怒られた記憶まで、鮮やかによみがえる。
「……先代らしいな」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
「何か思い当たることがあるの?」
リゼが尋ねる。
「昔から言われてたんだ。動かす方法より、止める方法を先に覚えろって」
今回の細工は、その反対だった。
守護竜も、揚水場も、防護灯も、止まるはずの魔法が押しのけられた。
十年前の先代は、止まることの大切さを点検票に残している。
なのに、そのすぐ次の三枚には――。
「イネスさん。四百二十一から二十三の書類、もう一度見せてもらえますか」
「どうぞ。原本なので、机に置いたままでお願いします」
俺の包帯を見て言ったわけじゃないと思いたい。
三枚の点検票が並べられる。
最後の欄には、どれも『継続系統、調整済』。
四百二十番の『停止命令を優先』と、まるで逆の言葉だった。
「……これ、わざと書き換えたんじゃないか?」
俺の呟きに、リゼが首を傾げる。
「何を?」
「同じ書類で、止めるための確認を、動かし続けるための調整に変えてる。偶然にしちゃ、できすぎてる」
イネスさんは四枚を順に見た。
「もともと四百二十番まで使って、その次の白紙を十年間保管していたのでしょう。新しい三枚に別の文言を書いたのは確かです。ただ、それが古い記述への対抗なのかは、まだ判断できません」
そのとおりだ。
似た言葉が並んだからって、犯人の考えが読めるわけじゃない。
隊長が四百二十番を指で示した。
「この署名が本物か、確かめられるか」
「店に、先代の帳面が残っています。字は比べられます」
「持ってこい。お前が運ぶ必要はない。部下を行かせる」
「……そこまで俺の手、信用ないですか」
「ない」
即答だった。
リゼが横で静かにうなずいた。否定してくれ。
◇
しばらくして、若い衛兵が《針と火種》から古い作業帳を運んできた。
リゼが場所を説明し、店の鍵を預けていたものだ。
帳面を開くと、昔の修理記録が詰まっていた。魔晶石の交換、魔法炉の不調、共同井戸の点検。日付の横には、使った部品と客の名前が細かく書かれている。
「この人、ずいぶん几帳面だったのね」
「仕事だけはな。家じゃ脱いだ靴を毎回違う場所に置いてたぞ」
その靴を探すのは、いつも俺の役目だった。
リゼが笑いかけて、ふっと口を閉じる。
机の上に並べられた二つの署名。
イネスさんが文字の形を確かめた。
「似ていますね。筆圧や線の癖も近い。ただ、正式な筆跡鑑定は別に必要です」
「俺にはわかります。先代の字です」
「そうかもしれません。だからこそ、慎重に扱いましょう」
やわらかい言い方だった。
俺はうなずいた。自分が知っている字だと思うことと、公の証拠にすることは違う。
隊長は帳面を閉じず、別の頁をめくった。
「修理屋。この頃、お前は何歳だ」
「十二くらいです」
「この仕事の話を聞いた覚えは」
「ありません。先代はいろんな現場に呼ばれてましたから」
嘘じゃない。
あの人は、俺の見える糸を面白がりながら、普通の工具でも誰より丁寧に直す職人だった。組合の技師から相談を受けることも珍しくなかった。
それなのに、守護竜の仕事をしていたとは知らなかった。
「……あの人、俺に何も話してくれなかったな」
「隠していたと決まったわけじゃないでしょ」
リゼは声を落とした。
「十年前の仕事を全部、十二歳の子に報告しないと思うわ」
「それもそうか」
少しだけ笑えた。
ふと、作業帳の端から折り畳まれた小さな紙が覗いているのに気づいた。
イネスさんが紙を開いて、机に置く。
そこには、鐘楼の守護竜の簡単な断面図が描かれていた。
「……これ、先代の図だ」
線は少なく、必要な部分だけが太く記されている。俺にも読めるよう、難しい術式の名前には平易な説明が添えられていた。
そして胸の中心から少し離れた場所に、赤い丸が一つ。
『停止の確認は、ここだけで済ませるな』
その下に、もう一行。
『別紙七号、組合保管。異常反応の記録あり』
イネスさんの表情が変わった。
「別紙七号……?」
「心当たりが?」
「十年前の点検資料に、添付書類があったということです。今見ている四百二十番には、その別紙がありません」
隊長が立ち上がる。
「保管場所を確認しろ」
「はい。索引から探します」
イネスさんは図面を見つめたまま、言葉を継いだ。
「もしその記録が残っていれば、当時何を異常と判断したのかわかるかもしれません」
十年前、先代は何かを見つけていた。
魔法の糸は見えない人だった。それでも、俺とは違うやり方で守護竜の異常を調べていた。
俺は図面の赤い丸に目を落とす。
先代が帰らなくなって三年。
なぜいなくなったのかも、どこにいるのかも、まだわからない。
でも今、あの人が残した仕事の続きを、俺たちは探そうとしている。
「……先代。十年前に、何を見つけたんだよ」
返事はない。
ただ、図面の片隅には、いつもの乱暴な字でこう書かれていた。
『確かめるまで、直ったと言うな』




