第19話 止まることを許さない魔法
ベルナの朝に、鐘の音が戻ってきた。
ただし、大鐘ではない。鐘楼に残された小さな鐘を、衛兵が手で鳴らしているのだ。
ごおん、ではなく、からん、からん。
「……なんか、食堂の開店を知らせる音みたいだな」
「街が無事なら、音くらい我慢しなさいよ」
リゼはそう言って、俺の襟を直した。今朝は魔導具組合へ出向くことになっている。まだ両手には包帯が残っていたが、昨日より指が曲がる。銀の針を握るには、もう少し時間が必要そうだ。
「せめてメル婆さんのパン屋が開いてれば、あの鐘にも意味があるんだが」
「再建中の店に、朝食まで要求しないの」
「要求じゃない。切実な願いだ」
リゼは返事の代わりに、俺の背中を押した。
街では、揚水場と西門の点検が続いている。全部の危険がなくなったわけじゃない。それでも、荷車が通り、花屋が花を並べ、朝が少しずつ元の形へ戻っていた。
◇
組合の会議室には、三冊の保守台帳が並んでいた。
守護竜、東の揚水場、西門の防護灯。
イネスさんは、それぞれの帳面に細い紙片を挟んでいる。
「異常が出た三か所の記録を、発生前までさかのぼりました」
「何かわかったんですか?」
「まず、点検の日付です。守護竜が十七日前、揚水場が十二日前、防護灯が八日前。いずれも臨時の保守作業があったことになっています」
隊長は壁際に立ち、腕を組んでいた。
「現場の証言は取っている。だが、作業者の名前はまだ確定していない」
「三か所とも?」
「ああ。守護竜は入塔記録なし。揚水場は交代時刻で、作業者を直接見た者がいない。西門は書類だけが門番に渡っていた」
ずいぶん都合のいい話だ。
「顔も見せずに修理できるなんて、俺より腕がいいかもしれませんね」
「修理した証拠もない」
隊長が短く返す。
確かに。仕事をしたふりなら、俺でもたまに――いや、やめよう。リゼの目がこちらを向いた。
イネスさんが三枚の点検票を広げた。
「もう一つ。作業内容が、すべて同じなんです」
票には細かな検査項目が並んでいた。魔晶石残量、出力、術式の動作、緊急停止の確認。
その最後の欄だけに、見覚えのない言葉がある。
『継続系統、調整済』
「継続系統?」
「組合の正式な名称ではありません。通常は『緊急停止回路』と記します。ほかの欄は正規の様式なのに、ここだけ書き足されているんです」
俺は三枚を見比べた。
まったく同じ位置に、同じ書き込み。
「守護竜が攻撃をやめなかったのも、揚水場の弁が閉まらなかったのも、防護灯が消えなかったのも……」
「その停止回路に細工があった可能性が高い、と昨日確認しましたね」
イネスさんはうなずいた。
「ただ、『継続系統』という言葉が、何を指しているのかは不明です。独自の呼び名を使う技師もいますから」
リゼが点検票に顔を寄せた。
「この数字も全部同じなの?」
「いいえ。出力の単位も、正常値も違います。だからこそ妙なんです。異なる設備なのに、停止の確認欄だけ同じ言葉で片づけられている」
俺は指先を見つめた。
守護竜の胸で感じた、金色の糸を締めつける黒い輪。
あれは無理に壊したというより、別の働きを押しつけているようだった。
「イネスさん。魔導具って、止まることも仕事のうちですよね」
「当然です。水を送りすぎない。火を熱くしすぎない。人が危険な場所へ入れば力を弱める。安全装置は、そのためにあります」
「じゃあ、止まるのを禁止されたら?」
「……壊れるまで働き続けるでしょうね」
室内が静かになった。
先代が俺に教えたのは、使い方より先に、止め方だった。
『止められねえ道具を、客に渡すな』
あの人なら、今の三枚を見て何と言うだろう。
リゼが口を開いた。
「その記録が正しいなら、細工をした人は最初から止める仕組みを調べていたってこと?」
「そう考えられます。でも、日付も作業内容も偽られている可能性があります」
イネスさんが答えた。
隊長はそこで、点検票の隅を指さした。
「この票はどこから出た」
「旧保守工房の予備用紙です。十年前に使われなくなった様式ですね。組合の控えと照合しました」
「番号は」
「確認します」
イネスさんが票を重ねた。
一枚目の右下に小さな数字。二枚目にも、三枚目にもある。
「……連番です」
彼女の声が、わずかに低くなった。
「守護竜の点検票が四百二十一、揚水場が四百二十二、防護灯が四百二十三。三枚続けて切り取られています」
「なら同じ束から持ち出されたわけか」
「そうですね。ただ、連番だけでは同一人物とは限りません」
隊長がうなずく。
「わかっている。用紙の保管記録を洗う。旧工房へ入れた者も、改めてだ」
その言葉を聞いて、ひとつ引っかかった。
「……待ってください。点検した日って、ばらばらですよね」
「それがどうした」
「三枚を一度に持ち出して、日を空けて使った可能性はあります。でも、用紙には日付も書いてある。最初から三か所を回るつもりだったんじゃ……」
「可能性はある」
隊長は即答し、それ以上は踏み込まなかった。
「修理屋、推測で犯人を作るな。だが、計画的だった線は調べる」
「……はい」
疑う相手を決める前に、事実を積む。
俺の先代なら、工具を並べるときと同じ顔で聞いていたかもしれない。
◇
組合を出た帰り道、俺たちはメル婆さんのパン屋へ寄った。
新しい梁が組まれ、窓には仮の硝子が入っていた。まだ焼き窯には火を入れられないが、近くの店から借りた小さな卓上炉で、メル婆さんが湯を沸かしている。
「ジオ、リゼちゃん。顔を見せに来たのかい」
「パンの匂いを確認しに」
「残念だったねえ。今日は湯の匂いしかないよ」
メル婆さんは肩の包帯を気にしながら、俺たちに茶を注いだ。トトは窓枠の新しい釘を数えている。相変わらず途中で数を見失っていた。
「メル婆さん、ちょっと聞いていいですか」
「何だい?」
「焼き窯が熱くなりすぎたら、どうします?」
「そりゃ火を落とすさ。窯を休ませて、壊れたところを直す」
「パンが焼けなくなっても?」
「焦がしたパンなんか、誰が喜ぶんだい」
当たり前のように返された。
「無理して焼いて窯を壊したら、明日のパンまでなくなるだろ。休ませるのも、長く使うためだよ」
俺は茶碗を見つめた。
黒い糸を仕掛けた誰かは、そうは考えなかった。
働け。守れ。止まるな。
命令そのものは、立派に聞こえる。
でも、止まることを許さない魔法は、守るはずの人まで傷つけた。
「ジオ兄ちゃん!」
トトが窓から顔を出した。
「お店が開いたら、一番最初のパン、ちゃんと取っとくね!」
「おう。今度こそ自分の手でちぎって食う」
「まだ痛いの?」
「少しな。でも治る」
トトは安心したように笑い、また釘を数え始めた。
治るまで休む。
そんな簡単なことを、俺も忘れかけていたのかもしれない。
帰ろうとしたところで、通りの向こうから衛兵が走ってきた。
「修理屋! 隊長がお呼びです!」
「また何か見つかったのか?」
「旧工房の予備用紙を確認したそうです。四百二十一から四百二十三まで、三枚だけがなくなっていました」
「……じゃあ、三枚は確かに持ち出されたんだな」
「それだけじゃありません」
衛兵は息を整えた。
「その三枚の直前にある四百二十番。十年前に提出された最後の点検票なんですが、署名が残っているそうです」
十年前。
旧保守工房が閉じられた頃だ。
「誰の署名だ?」
「隊長は、修理屋にも見てほしいと」
俺はリゼと顔を見合わせた。
使われなくなった印。回収された鍵。消えた型板。
そして、十年前の点検票。
今度は、そこに誰の名前があるというんだ。




