第15話 消えた型板の行方
机の上に置かれた真鍮の欠片は、爪の先ほどの大きさだった。
「これが鐘楼の裏口から出てきたものです」
イネスさんが小さな検査鏡を差し出す。俺は覗こうとして、包帯だらけの右手を見下ろした。
「……持ってもらっていいですか」
「最初からそのつもりです」
即答された。俺の仕事道具より、俺の扱いに慣れてきている気がする。
旧保守工房の加工台には、衛兵が採取した真鍮の削り屑が並べられていた。鐘楼の鍵穴で折れた欠片と、ここの削り屑。見た目はどれも同じ黄色い金属だ。
「材質は一致しています」とイネスさん。「ただし、それだけで同じ鍵から出たとは言えません」
「傷のつき方はどうです?」
「そこを調べています」
イネスさんは加工台の刃を指した。片側だけ、小さく欠けている。
「この刃で真鍮を削ると、一定の間隔で筋が残ります。裏口の金属片にも、同じ幅の筋があります」
検査鏡の中で、細い溝がいくつも並んでいた。
「……ここで合鍵を作った可能性が高い、と」
「ええ。ただ、いつ作られたか、誰が作ったかは別の調査です」
横で隊長が腕を組んだ。
「工房を使った者を洗う。修理屋、お前は余計な物に触るな」
「今なら触ろうとしても、指が負けます」
「なら静かにしてろ」
取りつく島がない。しかも正しい。
イネスさんは古い加工台の脇へしゃがみ、木枠の裏を調べ始めた。そこには、型板を固定するための金属の爪が二つついている。
片方は黒ずんでいたが、もう片方だけは妙に光っていた。
「最近、ここへ何かを掛けていますね」
リゼが首を傾げる。
「埃を拭いただけじゃないの?」
「爪の内側に真鍮の粉が入り込んでいます。型板を何度か出し入れしたときの跡に近いです」
イネスさんが手袋の指先に付いた粉を見せた。
十年間閉じられていたはずの工房。
回収された二本の鍵。
消えた型板。
誰かが古い設備を、つい最近使っている。
「隊長さん。型板って、金属の値打ちはありますか?」
「何だ、急に」
「真鍮なら売れますよね。使い終わって邪魔になったなら、屑として出すかもしれない」
イネスさんが顔を上げた。
「廃材の回収先なら記録があります。ここの整理で出た物は、組合指定の古物商へ運ばれます」
隊長は戸口の衛兵を呼んだ。
「回収先を当たれ。型板の特徴を伝えろ。見つかっても、触らせるな」
衛兵が駆け出した。
俺は少しだけ得意になってリゼを見た。
「たまには口も役に立つだろ」
「そうね。だから今は座ってて」
「褒められた気がしない」
「褒めてるわよ。動かずに役に立てるなんて、今のジオには理想的でしょ」
反論できないのが悔しい。
◇
古物商から返事が来たのは、昼を過ぎてからだった。
店に戻る途中だった俺たちは、隊長に呼び止められ、衛兵詰所へ引き返すことになった。
「修理屋。似た物が見つかった。確認しろ」
机の上には、細長い真鍮の板が置かれていた。
角が一つ欠け、表面には何本もの線が刻まれている。板の端には、小さく《裏階段》の文字。
「……これが型板?」
「はい」とイネスさん。「旧工房の保管簿に残る寸法と一致します。欠けた角の形も、木枠に残る傷と合っています」
見つかった。
十年前のものが、こんなところから。
「誰が売りに来たんですか?」
リゼの問いに、隊長が答えた。
「売られたんじゃない。工房の廃材と一緒に、回収箱へ放り込まれていたそうだ」
「いつの廃材です?」
「守護竜が暴れた翌日だ」
背中が冷えた。
事件が起きてから、誰かが工房へ戻ったのか。
「回収人は?」
「指定の荷運び業者だ。工房の外に置かれていた木箱を、いつもの回収場所へ運んだだけだと言っている。箱を置いた者は見ていない」
隊長は机に一枚の紙を置いた。
「回収時の控えだ。廃材の中身は、古い工具と真鍮片。依頼主の署名はない」
イネスさんは型板の背をひっくり返した。
「少し、気になることがあります」
表側の線は古びていた。ところが裏には、つい最近つけられたような浅い傷が何本も走っている。
「鍵を複製するとき、形を写すために針で印をつけます。そのときの傷に似ています」
「じゃあ、ここで作った合鍵を使って、鐘楼に入ったんですね」
俺が言うと、イネスさんは首を横に振った。
「そこは慎重に。複製したことと、実際に鐘楼へ入ったことは、別の証拠が要ります」
「……はい」
口が勝手に結論へ走ってしまう。俺の足ならそんなに速く走れないくせに。
リゼが何かに気づいたように、型板の裏を覗き込んだ。
「この傷、二組ない?」
イネスさんが検査鏡を寄せた。
長い傷の横に、短い傷が重なっていた。線の始まる位置が違う。
「……確かに、二度写した可能性があります。試し削りで失敗したのか、二本作ったのか。それはわかりません」
「合鍵が、もう一本あるかもしれないってことか」
隊長の目が細くなる。
「鐘楼の裏口は封鎖させる。鍵が残っていても、二度と通させん」
隊長の答えは早かった。誰が持っているかを考えるより先に、今できる危険への対処をする。
俺は型板を見つめた。
使い終わったものを、事件の翌日に捨てた。犯人が証拠を消そうとしたなら、ずいぶん雑なやり方だ。
いや、違う。
誰かに拾われたら、ここで鍵を作ったとわかる。
それなのに、捨てた。
「……これ、見つけてほしかったんじゃないですよね」
リゼが俺を見る。
「どういう意味?」
「わざわざ古物商が回収する箱に入れてる。燃やすなり、川に捨てるなりできただろ」
「型板を隠すためじゃなく、ほかの物と一緒に捨てたのかもしれません」
イネスさんが言った。
そうだ。考えが飛びすぎている。
俺は口を閉じかけた。
そこで、ふと気づいた。
「……ほかの物?」
隊長が顔を上げた。
「何だ」
「黒い金具と同じです。あれも廃棄品だった。型板も、使い終わったら捨ててる。だったら、ほかにも廃棄品を持ち出してるかもしれない」
イネスさんの表情が変わった。
「……一つ、確認する必要があります」
彼女は保管簿を広げ、黒い金具の番号を探した。
六週間前、不合格になった昇降機用の金具。
その欄には、同じ製造ロットの部品が四点並んでいた。
「一つは守護竜から回収しました。ですが、残り三点の廃棄記録が……」
彼女の指が止まる。
「ありません」
隊長が立ち上がった。
「保管棚は確認したのか」
「空でした。てっきり別の倉庫へ移されたものだと……」
イネスさんは帳面を閉じ、唇を引き結んだ。
少なくとも一つは、使ってはいけない部品が守護竜へ取り付けられた。
残りの三つは、どこへ行ったかさえわからない。
じゃあ、残りの三つは?
壊れたパン屋が頭に浮かぶ。
メル婆さんとトトを瓦礫の下から引っ張り出したときの感触が、まだ腕に残っていた。
「隊長さん。それ、守護竜だけの話じゃ済まないんじゃ……」
「ああ」
隊長は戸口の衛兵へ告げた。
「組合の廃棄品を全部洗え。大型魔導具の管理者にも連絡しろ。点検が済むまで、異常のある設備は止めさせろ」
命令を終えると、俺を見た。
「修理屋。お前は休め。次に何か起きても、その手じゃ仕事にならん」
「……わかってます」
でも、胸がざわついていた。
一つを外したら、終わりだと思っていた。
守護竜は助かった。パン屋も、少しずつ直っている。
それなのに、直さなきゃいけないものが、まだ街のどこかにあるかもしれない。
俺は机の上の型板へ目を戻した。
消えた一枚が見つかった代わりに、行方のわからない部品が三つ。
――今度は、どこが壊れるんだ。




