第九章 パンの値段
王都南区で小さなパン屋を営むミレイユの家族は、朝日が昇るより早く働き始める。
父のジャンが窯へ薪を入れ、母のソフィが生地をこねる。
十六歳のミレイユは焼き上がったパンを棚へ並べ、幼い弟のノアが店の前を掃除する。
裕福ではない。
けれど毎朝、温かなパンの香りに包まれて一日が始まることを、ミレイユは気に入っていた。
その朝、窯には火が入っていなかった。
「お父さん、小麦は」
ミレイユが倉庫を覗くと、粉袋は一つも残っていない。
「問屋の荷車が来なかった」
ジャンは空の棚へ拳を置いた。
「西の運河が点検で止まり、北の街道でも橋が通れないそうだ」
「なら、別の問屋は」
「どこも同じだ」 「
残っている小麦は、昨日の三倍になっている」
「三倍」
「そんな値段で買ったら、パンをいくらで売るの」
「銅貨二枚では無理だな」
ソフィが古い財布の中身を机へ広げた。
銀貨が二枚と、わずかな銅貨。
冬にノアが病気をしたため、貯えのほとんどは薬代へ消えている。
「一袋だけ買いましょう」
ソフィが言う。
「常連さんには事情を話して、少しずつ売ればいい」
「この金は家賃の支払いに」
「店を閉めれば、家賃も払えないでしょう」
ジャンは長い間、銀貨を見つめていた。
やがて一枚を握り、問屋へ向かう。
帰ってきたとき、肩には半分ほどしか入っていない粉袋があった。
「一袋ではないの」
「これで銀貨一枚だ」
「昨日までなら、三袋は買えた」
ミレイユは粉袋へ触れた。
薄い布の向こうにある小麦が、金貨のように重く感じられる。
その日のパンは、いつもの半分ほどしか焼けなかった。
開店前から客が並び、棚へ置くそばから売れていく。
「一人二つまでです」
「家には子どもが五人いるんだ」
「お願いだ、もう一つ」
「うちだって昨日から何も食べていない」
怒声と懇願が飛び交う。
ミレイユは何度も謝りながら、同じ数だけパンを渡した。
最後の一個が売れると、列の後ろから罵声が上がる。
「隠しているんだろう」
「金持ちには別に売るつもりだ」
「隠していません」
「倉庫を見せろ」
男が店内へ入ろうとする。
ジャンが前へ立ち、娘を庇った。
「帰ってくれ」
「本当に、もう何もない」
騒ぎを聞いた巡回兵が駆けつけ、ようやく人々は散っていった。
店の扉を閉めた後、ミレイユは床へ座り込む。
つい昨日まで、パンは誰もが買えるものだった。
それが一日で、人を争わせるほど貴重なものに変わった。
「王宮では、結婚式のために小麦を集めているらしい」
ジャンが吐き捨てるように言う。
「貴族どもは菓子を焼き、俺たちには空の棚を眺めろというのか」
「そんなことを言ったら、捕まるわ」
ソフィが窓の外を警戒する。
「聞かれないようにして」
「捕まえるなら、勝手にしろ」
「何も悪いことをしていない」
「お父さん」
ミレイユは父の袖を掴んだ。
「明日には、荷車が来るよね」
誰も答えなかった。
三日が過ぎても、穀物は届かなかった。
運河の水門は開いた。
街道の橋も通行できるようになった。
だが値上がりを見た商人たちは、倉庫から小麦を出そうとしない。
明日はもっと高くなる。
来週には倍になる。
そんな噂が広がり、富裕層は競うように買い占めた。
小麦の価格は五倍へ上昇した。
王都のパン屋の半数が店を閉じ、下町では薄い豆のスープだけで一日を過ごす家が増えていく。
ミレイユの弟ノアも、熱を出して寝込んだ。
「ただの風邪です」
往診に来た薬師はそう言った。
「ですが、身体が弱っています」
「栄養のあるものを食べさせてください」
「何を食べさせれば」
「卵や肉を」
ソフィは笑おうとした。
その表情は、泣いているように見える。
「パンも買えないのに、肉を」
薬師は何も言えず、薬草を少しだけ置いて帰った。
クラリッサは侯爵家の備蓄を開放し、南区の広場で炊き出しを行っていた。
大鍋には豆と大麦の粥が煮えている。
一人につき椀一杯。
それでも列は広場を一周し、日が暮れても途切れない。
「次の荷車は」
クラリッサが従者へ尋ねる。
「東の倉庫から向かっています」
「ですが、群衆に襲われる可能性があるため、護衛を増やしたいと」
「増やして」
「武器は持たせても、抜かせないように」
「奪われそうになった場合は」
「食料を守るため、人を傷つけては意味がないわ」
クラリッサは鍋の前へ戻る。
そこへミレイユが、弟を背負って現れた。
ノアの顔は赤く、呼吸も浅い。
「この子を診てください」
「昨日から何も食べられなくて」
クラリッサは弟を抱き取る。
「施療院へ運びましょう」
「名前は?」
「ノアです」
「私はミレイユ」
「パン屋の娘です」
「ご両親は?」
「店にいます」
「父は、小麦を捜しに」
クラリッサは従者へ合図し、ノアを施療院へ運ばせる。
「大丈夫よ」
「薬師に診せるわ」
「ありがとうございます」
ミレイユは頭を下げた。
細い肩が疲労で震えている。
「どうして、急に小麦がなくなったのですか?」
「王子様の結婚式のせいですか?」
「それだけではないわ」
クラリッサは王都の物流を調べていた。
街道と運河が同時に止まったのは、偶然ではない。
工事を請け負った商会。
水門管理人へ金を渡した者。
港の労働者へ休業手当を支払った組合。
すべての先に、灰色商会の影があった。
「誰かが、意図的に流れを止めたの」
「どうして、そんなことを」
「……王家への不満を高めるため」
「それで、お腹を空かせている子がいるのに」
ミレイユは信じられないという顔をした。
「そんな人、王子様より悪いじゃないですか」
クラリッサは答えられなかった。
王家の過ちを正すため。
王太子とリリアーヌを破滅させるため。
その目的を告げても、飢えた少女には何の慰めにもならない。
「必ず、止めます」
クラリッサは約束した。
「食料も届かせる」
「だから、今は弟さんのそばにいてあげて」
ミレイユが施療院へ向かった後、クラリッサは握りしめた拳を開く。
爪の痕が掌へ食い込んでいた。
「エレオノーラ」
怒りを込めて、その名を呼ぶ。
「あなたは、何をしているの」
灰色商会の地下会議室では、王都各地の在庫報告が集められていた。
「西倉庫に小麦四千袋」
「南倉庫に二千三百袋」
「東側の契約商会が保有する分を合わせれば、八千袋を超えます」
部下の報告に、エレオノーラは頷く。
「今夜から放出します」
「価格は流通停止前と同じに」
しかし商人たちは互いに顔を見合わせた。
「その価格では、損が出ます」
「あなた方には契約どおりの補償を払います」
「ですが、他の商会は値を上げています」
「我々だけ安く売れば、買い占められる」
「一人あたりの購入量を制限してください」
「記録も残すように」
エレオノーラが命じても、空気は動かない。
「何か問題が」
もっとも年上の穀物商が、恐る恐る口を開いた。
「奥様」
「王都へ入るはずだった北部の小麦が、届かないのです」
「街道は開いたはずでしょう」
「麦枯れ病が発生しました」
「北部全域で、収穫の三割以上が失われたとの報告です」
「そんな報告は受けていません」
「橋が封鎖されていたため、早馬が遅れました」
エレオノーラは椅子から立ち上がる。
「三割」
「地域によっては半分です」
「農民たちは自分たちの冬支度を優先し、王都へ売る小麦を減らしています」
「南部も」
「王都で価格が高騰したと知り、出荷を控えています」
計算が崩れていく。
三日間の流通停止。
倉庫の備蓄。
通常どおりの北部からの供給。
すべてが揃えば、混乱は短期間で収まるはずだった。
だが、北部の不作を知らなかった。
情報が遅れたのは、自分が街道を閉ざしたためである。
「すべて放出します」
「八千袋を」
「一度に放出すれば、王家の備蓄と合わせて価格は下がるでしょう」
穀物商たちがざわめく。
「お待ちください」
「明日、王宮から緊急配給の布告が出ます」
「王家の倉庫には、結婚式用の小麦がある」
「今夜、我々が放出すれば、王家が危機を救ったように見せられます」
商人の一人が言う。
「民衆の怒りは収まり、王太子の評判が戻るでしょう」
エレオノーラは返事をしない。
壁にかけられた王都の地図を見つめる。
結婚式用の備蓄が放出されると同時に市場へ小麦を流せば、王家が十分な供給を行ったように見える。
アレクシスは民のために婚礼を簡素化した慈悲深い王子として称賛される。
復讐の計画は、大きく後退する。
「王宮の配給が失敗すると分かってから放出すべきです」
穀物商が続ける。
「一日です」
「明日の夕刻まで待てば、王家の備蓄だけでは足りないと明らかになる」
「その後で我々が市場へ出せば、殿下を救うことにはなりません」
たった一日。
エレオノーラは机の縁を掴んだ。
すでに何日も待たせている。
パン屋の前には長い列ができ、下町では飢えた者が増えていると報告を受けていた。
「今夜、出します」
そう言いかける。
しかし脳裏に、大通りを白馬で進むアレクシスの姿が浮かんだ。
民衆の歓声。
何も知らなかったという釈明。
再び英雄となり、罪を覆い隠す彼。
「明日の夕刻まで」
自分の口から出た声が、ひどく遠く聞こえた。
「王宮の配給状況を確認します」
「それまで、倉庫を開けてはなりません」
ローウェンが勢いよく立ち上がる。
「正気ですか」
「一日だけです」
「今も飢えている人間がいる」
「分かっています」
「分かっていない!」
彼は机を叩いた。
「あなたが見ているのは地図と数字だけです」
「外へ出て、パン屋の列を見てください」
「親が子どもの食事を減らす顔を」
「王子の評判と、一日分の食事」
「比べるまでもないでしょう」
「私は必ず補償します」
「誰に!」
「今日、飢えて死ぬ者の明日へ、どうやって金を渡すのです!」
会議室が静まり返る。
エレオノーラは、部下たちの視線を感じていた。
以前なら、誰も彼女の決定を疑わなかった。
今は違う。
尊敬の中へ、恐れが混じり始めている。
「決定は変えません」
エレオノーラは告げた。
「明日の夕刻まで待ちます」
ローウェンは、見知らぬ者を見るように彼女を見つめた。
翌日の昼。
王宮の配給所へ、数千人の民衆が押し寄せた。
備蓄された小麦の多くは菓子や上等な白パンに向くよう精製されており、量も王家が公表したほど多くなかった。
配給は正午前に尽きる。
列の後ろにいた者たちは、王家が食料を隠していると叫び始めた。
誰かが倉庫を襲えば小麦が手に入ると言った。
誰が最初に石を投げたのかは分からない。
配給所の窓が割れ、群衆が柵を押し倒す。
騎士が槍を構えたことで恐慌が広がり、人々は逃げる者と倉庫へ進む者に分かれた。
押し合う波の中に、ミレイユと母のソフィもいた。
ノアのため、少しでも小麦を手に入れようと並んでいたのである。
「ミレイユ、手を離さないで」
ソフィが娘の手を握る。
背後から押され、二人の身体が柵へぶつかる。
誰かが倒れた。
悲鳴が上がる。
ミレイユも足を取られ、地面へ膝をついた。
「お母さん!」
ソフィが娘を庇うように覆いかぶさる。
靴が肩へ当たり、背中を踏みつけていく。
「やめて」
「人が倒れています」
ミレイユの声は、群衆の怒号に呑み込まれる。
やがて騎士団が道を開き、人々を引き離した。
母の身体は、ミレイユの上に重なったまま動かない。
「お母さん」
何度呼んでも、返事はなかった。
暴動発生の報告が、灰色商会へ届く。
死者は確認中。
負傷者は百名以上。
エレオノーラは、倉庫を即時開放するよう命じた。
八千袋の小麦が市場へ放出され、価格は下がり始める。
だが、遅かった。
夕刻、最初の死者名簿が届く。
エレオノーラは一人ずつ目を通した。
十二名。
二十三名。
報告が更新されるたび、数字が増える。
その中に、ソフィ・ベルナール、四十一歳という名があった。
パン屋の妻。
二人の子どもの母。
配給所で娘を庇い、圧死。
「奥様」
部下が次の指示を待っている。
エレオノーラは名簿を伏せた。
「被害者の家族へ補償を」
その言葉が、あまりにも虚しく響く。
ローウェンは部屋にいない。
昼の報告を受けると、自ら救助へ向かった。
机には、王太子失脚計画の書類が残されている。
エレオノーラは死者名簿を裏返した。
それから羽根筆を取り、計画の続きを書き始める。
手を止めれば、ソフィという女の顔を想像してしまう。
知らない人間のはずなのに、地下牢で聞いた父の最期と重なって見える。
だから、止められなかった。
紙の上へ落ちたインクが一滴、黒い染みとなって広がっていく。
まるで、消せない血の跡のように。




