第十章 灰の正体
王都を飢えさせた者を見つける。
クラリッサは眠ることも忘れ、その目的だけに没頭した。
侯爵邸の一室には、穀物流通に関わる資料が壁一面へ貼られている。
街道を封鎖した建設会社。
西の水門を点検した技師。
南の港湾労働者へ休業手当を支払った組合。
小麦を保管していた倉庫。
値上がりを予想し、事前に買い占めた商会。
個別に見れば、どれも合法的な契約だった。
橋の補修は実際に必要だった。
水門も老朽化していた。
労働者の休業も、契約上の権利である。
だが、それらが同じ三日間へ重なる確率は、偶然で説明できるものではない。
クラリッサは契約書の署名を一つずつ確認した。
表向きの名義は異なる。
しかし保証人や融資元を辿ると、いくつかの共通点が見えてくる。
灰色商会。
カーマイン商会。
ローウェン貿易社。
ヴェルナー男爵未亡人。
名称の異なる組織が、蜘蛛の巣のように繋がっていた。
「お嬢様」
侯爵家の書記官が、新しい帳簿を運び込む。
「南区の倉庫から押収したものです」
「所有者は」
「表向きは個人の穀物商ですが、購入資金を灰色商会から借りています」
クラリッサは帳簿を開いた。
流通停止の一月前から、小麦の入庫量が急激に増えている。
当初から混乱を予想していたのではない。
混乱を起こすために、備蓄していた。
「放出の日時は」
「暴動が起きた日の夕刻です」
「その前日に出せたはずでしょう」
「契約上は」
書記官が別の紙を示す。
「倉庫主の証言では、灰色の貴婦人から開放を禁じられていたと」
「いつまで」
「王宮の配給が失敗するまでです」
クラリッサは目を閉じた。
その意味を理解したくなかった。
エレオノーラは、食料が不足していることを知っていた。
倉庫には小麦があった。
それでも王家の評判を落とすため、民衆が失望する瞬間まで待った。
一日。
たった一日。
その一日に、ソフィを含む三十一名が死亡した。
「証言は契約魔法で記録を」
「済ませております」
「倉庫の契約書と、穀物の入出庫記録も保全して」
「王宮へ提出なさいますか」
「いいえ」
クラリッサは即座に答えた。
「王宮には渡さない」
「ですが、王太子殿下へ報告する義務が」
「殿下は、この証拠をエレオノーラの罪だけに利用する」
「婚約破棄事件の再調査を止め、すべてを復讐に狂った公爵令嬢の犯行として片づけるでしょう」
「では、どこへ」
「諸侯会議と王国裁判所」
「同時に新聞各社へ写しを渡す」
「一か所では、揉み消される」
クラリッサは壁の中央へ、エレオノーラの名を書いた紙を貼った。
その右側には、リリアーヌとアレクシス。
誰か一人を悪と定めれば済む事件ではない。
王太子たちがエレオノーラを陥れた事実と、エレオノーラが民を飢えさせた事実は、同時に存在する。
片方を裁くため、もう片方を見逃してはならない。
それがどれほど残酷でも。
「すべてを、公にするわ」
クラリッサは自分へ誓うように告げた。
「王家の罪も、彼女の罪も」
その日の午後、侯爵邸へ一人の少年が訪れた。
粗末な旅装に身を包み、長い外套には北部の泥がこびりついている。
赤みを帯びた銀髪と紫紺の瞳。
クラリッサは応接室へ入った瞬間、彼が誰であるか理解した。
「セドリック」
少年は警戒したように彼女を見た。
「お久しぶりです、レインフォード侯爵令嬢」
二年前より背が伸び、頬も痩せている。
かつて公爵家の後継者として華やかな衣装をまとっていた面影は薄い。
それでも立ち姿には、父譲りの気品があった。
「生きていたのね」
「辺境送りになっただけです」
「王家は、僕が死んだ方が都合がよかったでしょうが」
「どうして王都へ」
「姉上の噂を聞きました」
クラリッサは使用人を下がらせ、扉を閉じる。
「エレオノーラが生きていると、知っているの」
「灰色の貴婦人」
「そう名乗っているのでしょう」
「誰から聞いたの」
「ローウェンという商人から、二年前に一度だけ手紙が届きました」
「姉上は生きているが、今は会えないと」
「それきりです」
「なぜ今まで」
「僕が動けば、王家に姉上の生存を知られる」
「だから辺境で待っていました」
セドリックは外套の内側から、古い革袋を取り出す。
「でも、もう待てません」
「北部で麦枯れ病が広がっています」
「冬を越すための小麦まで、王都の商人に買われていった」
「その商人たちが、姉上と繋がっていると知りました」
革袋から、数枚の契約書が出てくる。
北部の農場主と灰色商会の間で結ばれた、穀物の優先購入契約だった。
「姉上は、病気が広がる前に契約しています」
「不作を知っていたわけではない」
「でも、王都の流通を止めたせいで報告が遅れた」
「買い占めのせいで、辺境の村にも食料が足りません」
セドリックは俯いた。
「僕は、姉上に復讐してほしかった」
「父上を殺した者たちを、一人残らず苦しめてほしいと思っていた」
「夜ごと、王子とあの女が死ぬところを想像しました」
「でも辺境で、名も知らない人たちに助けられたんです」
「罪人の弟だと知っても、食事を分けてくれた」
「読み書きを教えれば、その代わりに寝る場所をくれた」
「その人たちが今、姉上の復讐で飢えている」
クラリッサは、彼の向かいへ腰を下ろした。
「エレオノーラを止めたいのね」
「分かりません」
セドリックの声が震える。
「会いたい」
「生きていたことを喜びたい」
「抱きしめて、もう十分だと言いたい」
「でも姉上が、本当に罪のない人たちを犠牲にしたのなら」
彼は顔を上げた。
紫紺の瞳に涙が光っている。
「アルディス公爵家の者として、見逃すことはできません」
その言葉に、クラリッサは亡きアルディス公爵の面影を見る。
「協力してくれる」
「僕にできることなら」
「公爵家の暗号を知っているわね」
クラリッサは押収した契約書を示した。
「エレオノーラは、重要な指示を暗号で記録している」
「解読できれば、彼女がいつ、何を命じたか証明できる」
セドリックはしばらく書類を見ていた。
姉を守りたい気持ちと、止めなければならない責任が、顔の上で争っている。
やがて彼は首から細い鎖を外した。
鎖の先には、小さな真鍮の筒がついている。
「公爵家の暗号帳です」
「父上から、僕へ渡されました」
「これを使えば、解けます」
クラリッサは筒を受け取らず、確認する。
「一度渡せば、エレオノーラの罪を立証するためにも使うわ」
「分かっています」
「彼女が死刑になる可能性もある」
セドリックの顔が歪む。
それでも手を引かなかった。
「姉上なら、同じことを言うはずです」
「公爵家の名誉を守るために、罪を隠してはいけないと」
クラリッサは暗号帳を受け取った。
「必ず、生きたまま捕らえる」
「約束してください」
「約束するわ」
その誓いが守れるかは分からない。
エレオノーラが投降しなければ、剣を抜くことになる。
それでもクラリッサは、今だけは迷わず頷いた。
一方、灰色商会にも最後の証拠が届いていた。
王太子暗殺未遂に使われた毒の購入記録である。
二年前、王宮近くの薬種商で、南方産の夜眠草が買われている。
購入者はリリアーヌの専属侍女。
支払いに使われたのは、ベルジェ伯爵家の小切手だった。
「薬種商は証言しますか」
エレオノーラが尋ねる。
「すでに契約魔法で記録しています」
ローウェンが記録石を机へ置く。
暴動以来、二人の間には冷たい距離が生まれていた。
必要な報告はする。
命令にも従う。
だが以前のような皮肉や忠告はない。
その沈黙が、叱責よりも重く感じられる。
「これで、私の無実を証明できます」
「ええ」
「リリアーヌが毒を用意し、侍女を通じて王太子の杯へ入れた」
「マルタが偽証させられたことも、家族の証言があります」
「公表の準備を」
「その前に、お知らせがあります」
ローウェンは別の封筒を差し出した。
「南倉庫の帳簿が、レインフォード侯爵家へ押収されました」
「流通停止の契約書も」
エレオノーラの指が止まる。
「誰が渡したの」
「倉庫主です」
「暴動の責任を負わされると恐れ、自分からクラリッサ嬢へ」
「契約魔法の記録は」
「残っています」
「破棄できません」
エレオノーラは封筒を開く。
中には、クラリッサが諸侯会議へ提出した調査報告の写しが入っている。
流通停止の命令。
倉庫開放を遅らせた指示。
暴動発生までの時系列。
証拠は精密に整理され、言い逃れを許さない。
「やはり、彼女らしい」
エレオノーラは呟く。
「逃げますか」
ローウェンが問う。
「港には船を用意できます」
「西方へ渡れば、王家の手は届きません」
「私の無実が証明される前に」
「生きていれば、いつか機会は」
「二年前も、あなたは同じことを言いました」
「生きていれば、いつか」
「けれど今、私が逃げれば、王家はすべての罪を私へ押しつける」
「リリアーヌもアレクシスも、自分たちは復讐者に狙われた被害者だったと言うでしょう」
「私はまた、死者になる」
「今度は、悪女として」
「では、どうするのです」
「先に公表します」
エレオノーラは毒の購入記録と父への命令書を並べた。
「王太子とリリアーヌの罪を、王都中へ知らせる」
「その後、クラリッサが私を告発すれば」
「あなたの罪も公になる」
「分かっています」
「覚悟は」
「そんなものは、二年前に置いてきました」
ローウェンは彼女を見つめる。
「違います」
「あなたはずっと、自分が被害者であることを鎧にしてきた」
「それがあれば、何をしても最後には正しい側へ戻れると思っていた」
「ですが今度は、自分の名で罪を問われる」
「そのとき、何を選ぶのです」
エレオノーラは答えなかった。
答えを持っていなかった。
翌朝、王都中央広場に巨大な掲示板が設けられた。
諸侯会議の名による公開告発を行うためである。
広場には、事件の噂を聞いた民衆が集まっている。
王家の騎士も配置されたが、侯爵家と複数の有力貴族が立ち会っているため、強引に中止することはできない。
壇上へ立ったクラリッサは、拡声の魔石へ手を添えた。
その隣には、セドリックがいる。
王都の人々は、死んだはずの公爵家嫡男の登場にざわめいた。
「本日、私は二年前の王太子婚約破棄事件と、王都で発生した穀物不足について、調査の結果を公表します」
クラリッサの声が広場へ響く。
「告発する相手は、一人ではありません」
王宮の方角から、早鐘が聞こえる。
アレクシスが公開告発を知ったのだろう。
騎士たちが緊張し、剣の柄へ手を置く。
それでもクラリッサは言葉を止めなかった。
「第一の告発対象は、慈善院の資金を横領し、偽証と証拠捏造によって無実の令嬢を陥れた、リリアーヌ・ベルジェ伯爵令嬢」
群衆が大きくどよめく。
「第二の告発対象は」
クラリッサは一度、目を閉じた。
学園で笑っていた友人の姿が浮かぶ。
泥で汚れたドレス。
一緒に叱られた温室。
卒業祝賀会で、誰にも守られずに立っていた銀髪の令嬢。
彼女を二度見捨てないためには、今度こそ沈黙してはならない。
たとえ告げる言葉が、彼女を裁くものであっても。
「復讐のため王都への穀物流通を止め、民衆を飢えさせ、暴動による犠牲を拡大させた人物」
クラリッサは目を開いた。
「エレオノーラ・フォン・アルディス公爵令嬢です」
広場が、轟音のような声に包まれる。
死者の名が、生者の罪とともに王都へ戻ってきた。




